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『空襲の後みたい』震災直後の神戸を撮影した市職員 “当時の記録”を次世代へ 

更新:2020/01/17 18:37

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 阪神・淡路大震災が起きた日の神戸市内を撮影した神戸市の職員。当時35歳でした。自らの記録映像で震災の記憶を伝えてきましたが、今年春、定年を迎えます。現役として最後の「1.17」。どのような思いで迎えたのか取材してきました。
 
 地震当日の朝の様子を撮影した映像には、炎に包まれた神戸の街。

 『なんちゅうことや…須磨が…長田が…無茶苦茶になっとる!なんちゅうことや!』(震災当時に神戸市広報課にいた松崎太亮さん)

 呆然と立ち尽くす人々。公衆電話には行列ができ、道路では大渋滞が起きていました。撮影したのは当時、神戸市の広報課職員だった松崎太亮さん(60)です。今年1月17日、当時の様子をお聞きました。

 Qなぜ町の映像をカメラに収めようと思ったのですか?
 「我々はですね、災害被災記録というのを撮って、街がどういう風に再生し復興していくかというところの記録資料として撮っていたわけです。」(神戸市職員 松崎太亮さん)

 当時35歳だった松崎さん。地震当日の朝、須磨区の自宅を飛び出し、とにかくカメラを回し続けました。

 【震災当時の松崎さんの音声】
 『時刻は(午前)8時35分です。高倉台団地、特に異常なしです。火災も発生しておりません。』

 『ただいま(午前)9時15分、月見山の入り口の下です。1件火事があります。』

 冷静に記録を続けていく松崎さんでしたが、変わりゆく街の姿を次々と目の当たりにしていきます。

 『旧長田区消防庁舎の西側もこのように火の手が上がっております。』

 『新長田駅西口の南側、ライト模型のあたりに来ております。まだまだ火の勢いは衰えておりません。』

 さらに進むと、灘区の阪急六甲駅近くでは衝撃的な光景が広がっていました。

 『戦争を知らない自分が、こんな形で神戸の瓦礫の街を歩くとは考えてもいませんでした。これは映像だけのものだと思っていました。災害は突然やってきました。神戸を空襲の後みたいにしてしまいました。』

 今年1月17日、“特に印象に残っているシーン”をお聞きしました。

 「私が生まれ育ったのは長田区というところなんですけど、長田区は火災が大きかったところで、私が子どものころ遊んでいた場所なんかでも、燃えてしまっているっていうのは非常に印象的というか、信じられない思いでした。」(神戸市職員 松崎太亮さん)

 地震後も1年以上にわたり、被災地を撮り続けた松崎さん。カメラの重みで腕の軟骨が潰れ、手術を受けるほどでした。こうして撮りためた43時間にも及ぶ記録を使って今年、松崎さんは新たな挑戦をしています。

 「阪神・淡路大震災の頃というのはそんなにパソコンも、デジタル化も進んでいなかった状況なので、こういった被災地域の状況図というのはみんな紙だったんですね。それを今回デジタル化して地図情報の上に貼り付けて、みんなが見られるようにしたわけです。」(神戸市職員 松崎太亮さん)

 神戸市が今年1月16日からホームページ上で公開した「災害デジタルアーカイブ」。これまで松崎さんが保管していた映像や市が保管していた紙の資料をデジタル化し、いつでも閲覧できるようにしたのです。

 「例えば被害の大きかった須磨区、長田区らへんなんですけれども…。画面上の地図をクリックすると、その地域の被害状況が上がってくると。例えば子どもたちが、自分たちの地域がどんな風になっていたのかとう状況を学べるという意味では、防災教育にもなるのかなと思いますね。」(神戸市職員 松崎太亮さん)

 今年3月、松崎さんは定年を迎えますが、同じように震災を経験した職員は4割ほどに減少しているといいます。

 「(震災から)5年、10年、15年くらい経ってきて、単なる記録映像っていうのが人に伝える道具になる、教材になるっていうのは分かってき始めましたし、そこから何を学んでもらうかというのを考えながら、伝えていくことが、今後の人生の、私のライフミッションになっていくのかなと思います。」(神戸市職員 松崎太亮さん)

 そして今年、現役として最後の「1.17」を迎えました。定年後は学生などにデータ活用を教えたり、引き続き防災教育などに携わっていきたいと話します。

 「時の流れですから世代が変わっていくのは仕方ないんですけれども、それぞれの世代の方々が(震災を)忘れずに、自分の言葉で自分のこととして、伝えていっていただければいいなと思います。」(神戸市職員 松崎太亮さん)


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