勘違いしたブスにむかつかなくなるまで――相対主義の感覚

 「あたしべつに、合コンに来てる男に興味ないし~」
 ここは、まさにその合コンの席。男たちに相手にされなかった<ブス女>がふとつぶやく。
 恐るべき巨体から発せられたその言葉に、そこにいた男たち全員の顔が引きつった。
 「てめードブスのくせに!!」
 彼らは心の中でそう叫ぶも、口に出しては言わなかった。

 このような何気ない風景の中に<思想>がある。
 「神話から現実へ!」に書いた<思想>が、どのように生き方に影響を与えるのか?
 理屈でつめた<思想>の先にある<感覚>はどんなものだろうか?
 我々の<思想>が、どこに辿り着くのか、あるいは辿り着かないのかをここに示そうと思う。


      我々の<思想>が決して辿り着かないところ

・<思想>の守護者への道
 物事の真偽、物事の善悪、その他すべての事柄の判断は各個人の先天的に、個人的に、社会的に、家庭的に、宗教的に、あるいは偶発的に与えられた<信仰>に依拠することはわかった。我々は平均人の通常の感覚とは異なるだろう、一つの知を手にした。「正しいこと」などないのだ、「善悪」など無意味なのだ、と。場合によってはその武器を手に、誰かに道徳についての議論をふっかけ、見事に論破して得意になる人もいるかもしれない。実際のところ、理屈として<絶対>を相対化できるということは、それだけで思想的な意味では非常に大きな<進歩>であるには違いない。多くの平均人はこのもっとも単純な、基本的な思想的作業さえ終えることのないまま一生を終えるからだ。
 そして思想の安住を得ることができる。いかなる人間のいかなる理屈も、科学も、思想も、「絶対ではない」と否定して安心し、自分だけの<思想?>にすがって生きていくことができるかもしれない。思想を持っていない人を馬鹿にして自尊心を満足させることもできるかもしれない。
 しかし我々の<思想>はそこに辿り着かない。
 決して論破されない<思想>がどうしたと言うのだろう? それも「絶対ではない」のではなかったか。同様に絶対ではないもののうちから、自分がたまたま選択した一つを後生大事に抱えて生きることに果たしてどんな意味があろう? その思想を持って死ねるだろうか、あるいは、その思想のために死ねるだろうか。否、我々はもう既に、思想のバカバカしさを知っている。命を賭けるには取るに足りないものであると知っている。絶対ではないものにすがること、<思想>=<信仰>にすがることの無意味さこそ、我々の<思想>が今突き止めたことではないか。もしそんなものに少しでも自尊心を持っているなら、まだ全然思想が理解できていないということだ。
 我々は<思想>の守護者にはならない。

・「相対化好き」の凡人、あるいは、思想を忘れた暇人
 「絶対ではない」と言って得意げにならないこと。勝ち誇ったように「解釈は多様だ」などと言わないこと。それらは<思想の守護者>のとる態度でしかない。「私はあなたの思想に比べて、自分の思想の方が好きだ」という表明でしかない。自分の思想と対立する他の思想の効力を弱めながら自分の思想に寄りかかり、物分りの良さを気取って得られるものは少ない。
 では思想を全て捨て去れば良いのか? その場の快楽、その場の損得のみを行動原理に据えれば良いか? それは一つの明快な解答だろう。そのようにして生きていくことで充分な満足が得られる人はぜひともそうすれば良いだろう。思想にすがるよりはずっと健康的なばかりか、恐らくずっと<正しげな>選択である。
 しかし我々の<思想>はそこに辿り着かない。
 他人の思想を認めることが何だというのだろう。その狭間に自分の思想を同居させて安心して何が楽しいのだろう。それはまさに<思想の守護者>の行動に他ならない。
 一方、思想を捨て去ることは一つの選択肢ではあるが、我々はまだ充分に<思想>を使っていない。その場の快楽、損得を求める「実利的な」行動は、現代においてそれほど重要ではない。つまり、こういうことだ。目の前に積み木がある。諸君はヒマである。その時、積み木をいじって遊ぶかどうかという問題だ。「積み木をいじっても人生の役に立たない」として積み木をさわらないのが、思想を捨てる者の選択した行為である。我々は<思想>に寄りかかることはないが、かと言ってそれをいじらないのはつまらないのではないか? 積み木で遊んでみれば、意外に楽しい暇つぶしになったのではないか? 「人生の役に立つ」ことだけを選択して行為してみよ。豊かな現代、人生におけるほとんど全ての行為は、無駄なものだと気付くだろう。そして無駄なもの(テレビを見ること、ゲームをすること、友達と遊ぶこと・・・etc)こそ面白いのだと気付くだろう。
 思想は積み木のように楽しい。綺麗に積み上げて遠くから見て楽しむのもいい。他人の積み木と高さを競争するのもいい。我々がもっとも望まないことは、他人の美しい積み木から目を逸らして無様でちっぽけな積み木細工に満足することであり、あるいは、積み木遊びをやめて仕事一筋に生きることだ。いずれもつまらない。
 我々は他人の思想の狭間に安住せず、そして、思想を捨てない。我々は思想を磨き、思想で戦うゲームをし、思想で遊ぶことを欲する。

・理想主義への後退
 最悪なケースは、<思想=真偽=善悪>に寄りかかって損することである。「あの思想は間違っている!」「あの行動はよくない!」という憤りを感じることは単純に我々の思想から見て愚昧である。憤りを感じることは人間にとって不快なことであって、不快感を得ることは損なことである。それは要するに理想主義(真-偽という、善-悪という対立のある場所)への後退でしかない。端的に損害をこうむるために思想を知ったのだとすれば、ひどく不恰好である。
 我々の<思想>はそこに辿り着かない。
 我々はもはや理想主義に舞い戻ることはない。思想に寄りかかることはしない。思想を快楽として楽しみながら進むことが、我々に残された方法ではないだろうか? 様々にある<理想>に鉄槌を打ち付けながら、時には鉄槌を振るう自分の姿をナルシスティックに想像して楽しみ、時には理想が崩れ行く様を見て大はしゃぎし、すべてを遊びに変えてしまえる<力>を、我々は既に手にしたのではないだろうか?
 我々は理想主義に後退しない。

・あらゆる「評価者」
 もっとも無意味なことは、「(フィードバックされない)評価を与える」ことである。
 「評価」とは、自分の<思想=真偽=善悪>をもって、あるものを断罪することに他ならない。「あいつは悪い人だ」と言うのは理想主義そのものである。「評価」を与えて満足することは、我々の思想から見てもっとも間抜けな結末である。
 我々の<思想>はそこに辿り着かない。
 我々は評価(すなわち、真偽や善悪)ではなく、楽しさや損得といったような<現実的-非神話的>な結果を欲する。自分に高い評価を下したり他人に低い評価を下すことは権力の発動ではあるけれども、権力の向上や楽しさに結びつかない自己満足であるならばそこに意味はない。
 我々は評価者ではなく権力の行使者になるのだ。


      我々の<思想>の通過点

・「愚昧さ」の除去
 基本的な思想的知を得る、あるいは発見することが充分に早期でない場合、恐らく、様々の「思い込み」が相対化されないまま個人のアタマに残っている。それはちょうど、確率統計を習う前に知った「残り物には福がある」という妄想を、無自覚のうちにふと信じているようなものだ。多くの人は、思想を学ぶ前に知った様々の概念・思考を相対化することを忘れる。だからこそ通常人は初めてまともな思想に触れたとき(それが例えば「神話から現実へ!」のようなロジカルなものであったとしても)、理屈よりもそれまでの「思い込み」(例えば「殺人はよくない!」といったような)を優先しようと四苦八苦し、頭の堅い人はついに自分の信仰に閉じこもる結果となる(<思想的ヒッキー>の誕生)。もしも生まれた直後からまともな思想で教育されていたとしたら結果は違っただろうに。過去の種々の思い込みについて、それを一つ一つ問いただしてみること。「全てのものは絶対ではない」と知ったとき、実際にその知識を行動に反映させ利益を得るためには、無意識に信じているあらゆる<愚昧>を除去する作業が必要となるのだ。
 通過点の一つは「愚昧さ」の除去、すなわち、古い知の改定である。

・思考における神話の相対化
 我々は今、物事を少しでも現実的に判断する(神話を相対化する)機会を持った。道徳に縛られた判断や、性善説的な馬鹿げた行動解釈ではなく、誰がどんな損得・権力感情に基づいて行為したかを知ることができるようになったわけだ。少年犯罪を「道徳教育で」なんとかしようというような狂った試みのおかしさを指摘できるようになり、その代わりにもう少し上手に自分の子供を教育するための知が得られただろう。世の中のどれだけ多くの「語り」が、せいぜい道徳的愚昧に乗せられただけの非現実的なものであるかがわかるようになった。
 たくさんの物事(行為)を分析してみるといい。他人がどう考え、どう行為するかを以前より何十倍も的確に当てられるようになる。
 通過点の一つは、思考において神話から開放されることであり、それは我々が新しい知を獲得することを意味する。

・思想の脱-神話化
 すべての行為は権力の発動である。「これは自分の考えであって、他人に押し付ける気はない」という弁明を交えつつ自分の考えを述べることは、どう甘く見積もっても、やはり押し付けである。彼の主張を不快に思う他人がいて、彼が充分な力を持っていれば、その発言に対して謝罪をするとか罰則を受けるとかの対価を払わねばならなくなるだろう。人間個人の諸関係は極めて権力的であり、恋愛における諸関係、友達関係における諸関係、上司と部下における諸関係、いずれにも権力が介在し、真偽や善悪はあくまでも権力を下部構造とする<幻想的なもの>に過ぎない。
 そうであるなら思想とは、信ずるべき何かではなく、権力関係のもとに行使され相手を突き動かすための手段、または、閉じた遊びに転化せざるを得ない。
 通過点の一つは、そのことを意識して、真偽や善悪でない観点から思想を用いるということである。

・思想の現実化(あるいはゲーム化)
 そのような作業を通じて、我々は徐々に現実的な感覚をつかんでゆく。思想がただの理想(似ても焼いても食えないもの)ではなくなり、手段となりゲームとなる瞬間である。
 ある人は思想を語る快楽(パフォーマンス)を単純に楽しみ、ある人は思想を他人とぶつけ合う遊びをエンターテインメントにする。またある人は古い理想を利用して権力を確保する。少なくとも権力感の喪失によって「私の方が正しいのに!」という憤りであるとか、それに付随する様々の損益をこうむることはなくなる(上司の言うことに対していちいち自分の信念を貫くな!)。
 通過点の一つは、<思想>そのものの、根本的な意味合いにおける相対化である。


      我々の<思想遊び>

・<対等であるべき>という理想
 具体的な<思想の相対化>の例を出して、一つの知を組み立ててみよう。ここで相対化されるのは、長年培われ染み込んでしまっている<平等主義>的発想である。
 一応確認するが、<平等主義>とはまったくの幻想であり、ロジックとして自己矛盾するばかりか、何ら実現不可能な、また実現する<価値>もない、程度の低い子供騙しである。
 そのことは理屈としてわかっていても、先に述べたように、<過去に判断したもの>について、その時の判断基準がそのような知識を前提としてされていない場合が多分にあるものだ。つまり、<平等主義>と聞いたときに連想されるようなものの他にも、思いのほか我々は<平等主義的感覚>に犯されていると思って良い。そういった古い思い込みを相対化して遊ぶことは、思想的知を身に付けた人にのみ許されるゲームである。
 「僕は何も悪いことをしてないのに! どうして僕だけがこんな病気になるんだ!」
 という発言は、冷静に分析すれば、<平等主義>の幻想に毒された妄想であり、場合によっては、当人の無意識的な権力行使である(可愛そうな自分をアピールすることによる権力への意思)。他人と同じことをしていれば同じ利益が得られるという思い込み、他人より頑張れば他人より良い結果が出るというような幻想は、もっとも早い時期に相対化されるべき哀れな感覚であろう。そしてこのような構造を分析し理解するにつれて、<対等であるべき>という一つの大きな理想が音を立てて崩れ始めるに至る。
 <対等であるべき>という理想が、「僕は他人より<悪い>ことをしていないのに→病気になった→おかしい」という「評価」を彼に与えさせる原因となった。彼は私が述べた「愚昧な理想主義者」であり、「くだらない評価者」である。理想は理想であって現実ではない。そして、評価を与えることではなく、いかに権力行使によって利益を得るか(この場合、哀れみを誘って募金を受けるなどの方法はあるにせよ)が重要なのである。

・合コンの場の心理的解釈
 いわゆる「ブス女」の、
 「あたしべつに、合コンに来てる男に興味ないし~」
 という発言に、男たちはなぜ憤りを覚えたのか?
 「ドブスのくせに!」という思いに集約されているとおり、ブスにはその発言をする権力がないという認識が無意識にあったのである。
 <自分の身分をわきまえた発言をすべし>という理想──これも各階級内部での相対的な位置関係における<平等主義>であると思われる──があったのだ。
 しかし実際にはそのブス女は発言をした。権力を行使したのである。男達はその発言に苛立たせられ、しかも言い返すほどの権力を有してはいなかった。
 そもそも<身分をわきまえた発言をすべし>という幻想がなければ、彼らは憤りを覚えることもなかったであろう。彼らは自分の幻想に、自分の理想に債務を背負っていたのだ。彼らがもっと明晰であれば、苛立ちを覚えることもなく、話のネタにするなど少しはマシな結末を迎えることができただろうに。その上彼らは反撃する権力さえ持たなかった。後からそのブス女の文句を影で言うことはできても、それはちょうど、殴られて殴り返せなかったが後で文句を言うのと同様に、格好のつく事ではない。

・不満生成装置としての<理想>
 <対等であるべき>という理想は、このように、何気ない日常的風景の中に苛立ちを持ち込む。
 合コンの例ばかりではない。他人に自分が書いたレポートを丸写しされると嫌な気持ちになり友達関係をうまくできない人がいる。恋愛において「自分はこうしたのに相手はこうしない、どうしてだ!」という不満を抱いて関係を悪化させる人がいる。しかし、それらすべてが一つの<理想>に基づいた思い込みだったのだ。前者は単にレポートを写させないだけで友達としての価値が下がる程度に無能な人間だったのであり、後者は相手に充分愛されない程度に恋愛における権力が低い人間だったというだけだ(いずれも単なる権力不足であって、平等性や道徳性の問題に還元する必要などまったくない)。
 <対等であるべき>は道徳的幻想であって、したがって権力的構造によっていとも簡単に無効にされる。何も努力せずに莫大な利益を得る人が世の中にはたくさんいる。逆もいる。同じような境遇であっても偶然で様々な違いが生ずる。
 <理想>は「理想と違う(Xがない)」という言葉の存在を条件として、人々に不満を与える心理的不満生成装置であり、道徳はその集大成である。
 みよ! 自分と無関係の犯罪に対してまで、やれ犯人は思いやりがないだの、人間として最低だのと「評価」を与え、憤り不満はつのり、ところが犯罪者に対して彼ら自身はなんら権力行使できない。他人の一挙一動が気になり、調子に乗っているとむかつき、成功者を妬み、ラディカルな人を引きずり落とそうとし、親しい知り合いの成功さえ素直に喜べず、権力者へのルサンチマンを垂れ流しにする。しかしそれらは、彼らの現実的な権力行使ではなく、大部分がルサンチマンからくる「評価付け」であったり、卑小な<権力的敗者>の傷の舐めあいでしかない。そういった感覚および行動こそが道徳という<弱者ルサンチマンの集大成>そのものではあるとしても、なんと不健康なことか(道徳は本来、まさに「評価付け」のための、つまり現実的な権力行使から逃れルサンチマン全開で自己満足し不満を解消するための装置なのであるが、今やそれは逆転して不満生成装置にまで成長している)。
 彼らは他人の傲慢な発言を聞いてその傲慢さを笑い楽しむような、犯罪ニュースを素直に消費できるような、「勘違いしたブス」とでも気軽に会話できるような心の平静さとは無縁である。
 理想を相対化したとき、初めて世の中の多くのことが深刻でなくなり、ゲームと化し、思想で遊べる境地に達する。そしてそれは極めて幸福である。

・思想を遊ぶ遊び方
 ここでは、ある<理想>が不満生成装置として働いているメカニズムを見た。そして、そのメカニズムは非常にささいな日常的場面でも広く無意識に人の行動に作用することが理解され、不満生成装置に踊らされないための知が身についただろう。このような思想遊びは、(私がやっているように)HP上でパフォーマティヴに公開されたり、酒のつまみにされたりする(もっともこういう話を理解する低級でない友達がいればの話だが)。
 極めて単純な例だが、これは一つの思想の遊びであるとともに、権力的な上昇運動の例でもある。
 思想の成熟と感覚化にともなって、ついに我々は「勘違いしたブス」にむかつかなくなる時が来るのだ(本当のことだ。他人が驚くほど、何事に対しても平静でいられるようになる)。世の中のほとんど全ての出来事は我々ほとんどにまったく関係なく、少なくともまったく手が及ばず、我々が怒りをぶつけるべき対象ではない(するべきことは怒りをぶつけることではなく、権力を行使して対処することだ)という得心は、思想を学んで一番初期の段階で気付くべき人生のスキルである(私はあらゆる道徳家が、彼らの理想に振り回されて極めて日常的に、あるいはこの上なく劣悪な損害をこうむるのを何度となく見てきたわけだ)。
 我々は自分の関わることについてだけ真剣に検討し、理想による評価などではなくて権力行使によって対処する。


      幸福であること(一つの感覚)

・幸福の前提
 我々が「神話から現実へ!」の思考過程を経て理解したことは、すべての「理想」は理想的ではないという事実であった。我々の目指すべき境地の一つは、すべての事柄を深刻に捉えないでいられるような、すべての物事を<遊び>に転化できるような権力的高みである。我々は飢えている時に、食料の問題を深刻に捉えざるを得ない。我々はある人によって攻撃されそれが損害を生ずるとき、それについて熟慮しなければならない。しかし我々日本人は、発展途上国の悲惨な現状(飢餓、戦争)を、笑いを以って(あるいは道徳的憤慨という転倒した快楽をもって)消費する立場にいる。昨日の悲壮な事件を即座に忘れ恋人と過ごす一時に安住するような権力的立場にいる。そのような状況、権力の高みこそが、我々が幸福である場所なのである。
 「本当の幸福とは何か」などという馬鹿げた問いを発する充分な余裕があるということ、目の前の飢餓を逃れることに精一杯でなくいられる状況、それが物質的幸福である。
 精神的幸福は、<不満生成装置>たる道徳を完全に相対化し、他人の一挙一動を無視できる立場にたった時に訪れるだろう。

・<遊び>の境地
 <遊ぶ>ことができるためには、あらゆる種類の<深刻な問題>が回避されていなければならない。すべての対象を深刻でなく捉えられるような権力が必要である。すべての<道徳的つながり>を払いのけ、すべてのしがらみから開放され、自分のしたいことができるような境遇が必要とされる。それを事実上どこまで手にするかは個人の資質や境遇に委ねられてはいるが、知を持った人間と無知な人間ではおのずと異なった結果を生ずるであろう。<道徳家>は遊ぶことを知ることなく、不満だらけの人生を終えるであろう(厳しい道だが、あるいは幸福であろう)。それは、例えば議論の場においてそうである。我々は議論から得られる<深刻な結論>(例:自殺は善か悪か)などには興味なく、議論の相手を弄ぶ。時には知識を見せびらかして相手を狼狽させる。相手は我々の傲慢で不徳な発言にいちいち苛立ち、「あなたには価値がない」と評価し、せいぜい余裕を見せようと試みる。その姿が、端的に、笑えるのだ。
 我々は(マスコミ的イメージでの、象徴としての)<現代の若者>を見習わねばならない。すなわち、目の前の利得と楽しさを求めつつ、不安なき人生を送るすばらしい生物のことだ。一つの<語り>も必要なく、ただ快楽だけが関係する存在だ。「17歳が危ない!」と言われてついそれに乗って自分も犯罪をしてしまうような頼もしい存在だ。ただし彼らは時々立ちどまる。彼らはおろかにも、<踏み越えてはいけない一線>を想定したり、夢を語ったりする。それが、人が<理想>の魔の手に陥る瞬間である。
 我々はそれを横目で見つつ、かつ、それらを笑い飛ばしながら、常に遊ぶ感覚を身に付けておきたい。

・思想(理想)は遊びに転化する
 こうして、現代思想は言語ゲームに転化した。思想には一片の<深刻さ>もなかった。20世紀後半に、哲学はテツガクになり、文学はブンガクになり、芸術はゲイジツになった。これが、相対主義の運動の核心そのものなのだ。相対主義に<目的地>はない。なぜなら目的地とは、一つの<理想>だからだ。差異と反復に基づくゲーム、ゲームに乗りながらゲームから降りる感覚、すなわち<遊び>の感覚こそが、相対主義そのものなのである。そこに<幸福>を求めることができるとすれば、それは「知の幸福」ではない。もっとマゾヒスティックな、あるいはパフォーマティブな幸福である。それはちょうど積み木を綺麗に積み上げて自己満足に浸るような、しかし積み木自体は何の役にも立たないという確信をもってその積み木を見るような感覚である。役にもたたない積み木の良し悪しを気にする程度に権力的な立場であることが、相対主義には不可欠である。
 この感覚を持つとき、我々は初めて相対主義者となる。そしてその時にこそ、我々は幸福であろう。