なにもしなくていい。スナックが与えてくれる安心感【東急池上線・長原駅】

著者: 山田和正

 

迷信が好きだ。

 

「しゃっくり100回出ると死ぬ」「黒猫が目の前を横切ると不吉」「霊柩車が通ったら親指を隠せ」とか、そういうやつ。根拠のない俗説。

最近では、ジムで働く友人から聞いた「胸筋を中心に鍛える男にろくなヤツはいない」がお気に入りだ。

聞くと「え〜!でも、根拠ないでしょ!?」と答えつつ、小さじ1杯ほど真実味が入ってそうなのが、ぼくの理想。頭では突っぱねながら、心のどこかで「ホントかもよ…?」とかすかに引きずってる、あの感じが好き。

すっかり忘れたつもりになっていても、自分が迷信に近い状況になったとき、なぜかハッと身構えてしまう。

 

一時期、この迷信好きのせいで、大変だったことがある。

 

「人間は27歳までの遺産で生きる」

 

小学生のころに、ある寺の和尚(おしょう)さんから聞いた言葉だ。夏休みになると、ぼくが住んでいた街の子どもたちは、近所のお寺の境内に集まってラジオ体操をする。体操を終え、参加した印としてカードにハンコを押してもらうと、和尚が子どもたちを集めて軽い説法をした。

いま思えば、子ども相手に朝っぱらから説法をとくなんて変わった和尚だ。ただ、「生きがいは酒とタバコ」と潔く語る人物だったので、子どもながらになんとなく信用してもよさそうだ、そう思った記憶がある。

その和尚によれば、人間は27歳までに見て、感じて、考えたことによって、物事の捉え方や世界へのスタンスが固まってしまうらしい。

27歳までに経験した財産が、その人間の土台を形づくり、それ以降の生涯を暮らすことになるという話だった。逆説的に言えば、27歳以降になるとOS(基礎となるプログラム)は書き換えられないことになる。

そもそも、なぜ「27歳」なのか。和尚は明言しなかった。おそらく、根拠はないのだろう。

ただ、真偽に関係なく、この言葉はぼくの記憶に染みついた。カーペットにこぼしたコーヒーみたいに、くっきりと。

そして、27歳を迎えようとしていた年に、この迷信をふと思い出した。

 

小さなスナックとの出会い

いまから、3年前。27歳を迎えようとしていたぼくは、東急池上線の洗足池駅に住んでいた。

住むと言っても、ほとんど自宅と会社の往復で、帰って寝るだけの毎日だった。

仕事は、飲食店を取材して記事をつくる、いわゆる編集者を生業としていた。

そのころ、なんとなく仕事に行き詰まりを感じていて、そこに「人間は27歳までの遺産で生きる」なんて迷信を思い出すものだから、漠然とした不安感は日ごとに増していった。

もともと、思い込みが激しい性格なのである。

 

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そんなある日、偶然、近所のスナックに入った。

 

ぼくの住む街は、五反田と蒲田を結ぶ、東急池上線のちょうど中腹あたりに位置する。池上線は、もともと池上電鉄という小さな私鉄によってつくられ、3両編成の短い電車が東京南西部の下町情緒ある一帯を走ることから「都会のローカル線」と呼ばれている。

この沿線は、どこか牧歌的な雰囲気が残っている反面、深夜までやっている飲み屋は極端に少ない。当然、スナックの需要は大きい。

住んでいる洗足池の隣、長原の街で小さなスナックを見つけた。

70歳のママが1人で営む、10席ほどのカウンターだけの店。うす暗く、年季の入った店内には、時代の空気が染みついていた。

黙々とクロスワードパズルを解く、アロハシャツを着た中年の男性客と、気だるそうにタバコを吸いながら赤ワインを飲む30代の女性がいた。

 

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末席に座り、枝豆をつまみながら、焼酎の水割りを飲む。小柄で髪をアップに束ねたママとの他愛もない世間話。

どこにでもありそうな時間だった。

それが、なぜかぼくの心を捉えた。「たのしい」「うれしい」という気持ちの手前のなんだっけ?この感情。いい表現が浮かばないけど、とにかく「なんかいい」のだ。

 

普段、仕事で飲食店を取材していたせいか、スナックは異質な存在に映った。

いまや、飲食店は「おいしい」が当たり前になってしまった豊食の時代。レシピやスキルも共有され、どの店も92点、93点、94点くらいのあり得ないハイレベルの接戦でしのぎを削っている。

そんな飲食店でも、一説によると開業3年での廃業率は70%を超える。3年で7割が潰れるのだ。業界事情を知っていると、料理もお酒もこだわらない小さなスナックが、創業から50年続いている事実にただただ驚くしかなかった。

 

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「新しさ」や「もっともっと」を目指さない。そこには、いままで見てきた社会とはまったく異なる力学が働いているように思えた。そして、言語化できない「なんかいい」の正体は……?

 

そんな違和感がきっかけとなり、スナックに日々通うようになっていった。

 

スナックとは疑似家族である

スナックに通い出すと、街の見え方は一変する。

実はあらゆる街に、スナックが溢れていることに気づく。

 


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歩いている道を、ひとつ裏手に入る。すると、当たり前のようにネオンの看板があったりする。写真は別府で訪れた「スナックゆき」

 日常を自分でフィルタリングしながら生きている「社会」のなかで、スナックはその外側の「世界」にいつも存在していた。

 

日本には、およそ10万軒ものスナックがあるらしい(2015年のタウンページ登録店舗数より)。街の至るところにあるコンビニでさえ、全国に6万軒ほど。比較すると、スナックの多さが分かる。

人間は、コンビニに利便性を求める一方、スナックにはなにを求めて訪れるのだろう。

ぼくと同じことを考えたであろう女性が、Yahoo!知恵袋にこんな疑問を投げかけていた。

「夫がスナックに行く理由が分かりません」

 

この妻の問いに対して、こんなアンサーが。


“どんなに強がっていても男は自立出来ない弱い存在なのです。特に年配の地位の高い人ほど、他人には自分の弱い部分を見せたくないものです。

ですが、スナックはそんな弱い男の部分も受け入れてくれるのです。いろんな職業の仕事や人生に疲れた男達を見てきたママが愚痴を聞いたり、様々な経験からアドバイスをくれたりするのです。

忙しい日常から解放されるための隠れ家という存在でもあります。私もお酒はほとんど飲めず、上司に誘われたときにしか行きませんが、スナックのまったりした空間がすごく贅沢に思え、癒やされます。

旦那さんは、あなたに甘えていますか?”

 


すごい。まさに「遠くの親戚より、近くのYahoo!知恵袋(辛酸なめ子)」、なんでも答えが載っている。

“忙しい日常から解放されるための隠れ家”……家とは、別の家。

なるほど。ぼくは「なんかいい」の正体を探るために、「スナックとは疑似家族である」という仮説を設定してみた。

そのうえで、友人を連れて行き、スナックを楽しめる人間と楽しめない人間を観察する。

すると、スナックを楽しめない人間は、決まってあるセリフを言うことに気づく。

「スナックに行っても、何をしたら良いか分からない」

この指摘は、見事に当たっている。スナックはお客に対し、特別なサービスを提供することをやめた(お客からすると、特別な目的がない)極めて珍しい業態だった。

飲食店のようにスペシャルな料理を出すわけでも、バーのように珍しいお酒を出すわけでもない。ママと会話する必要さえない。

しかし、人間には目的を探す習慣がある。スナックのように目的がない場所にいると、不安で茫然自失して、いわば道に迷ったような感覚になる。それが、スナックを楽しめない人間の心情だろう。

ただ、そうした感覚は必ずしも長くは続かない。なぜなら、もはやなすべきことをひとつも持たない—目的も、意味も、出口もない—と気づいた瞬間、人間は安心感に包まれるのである。

 

目的がなくても、誰かと一緒にいられる。ただ居ること、が許される。

仕事で、恋愛で、家族で、あらゆる場面において他者から期待を向けられる現代人にとって、「なにもしなくていい」安心感は得難いものがある。

「なにもしなくていい」なんて砂糖菓子のような理想も、フィクションとしての「家族」だからこそ気軽に持ち込める。

 

あの夜の気持ちは、「なにもしなくて大丈夫」と受け入れてくれる存在への安心感だった。同時に「あ、自分、疲れてたんだな」と、鈍感になることに慣れすぎていた気持ちにも自覚的になれた。

現実が現実すぎる世の中で、フィクションがもつ意味は大きい。スナックは、ママを中心としたフィクションの「家族」として機能していた。

 

人間は病人で、世界は病院

最後に、ドラマ『はぐれ刑事純情派』で藤田まことが演じた、安浦刑事の姿を思い出してみてほしい。

はぐれ刑事純情派 [DVD]

 

家では娘思いのオヤジ、職場では人情派の刑事。安浦刑事は事件の解決後に、決まってスナック「さくら」を訪れる。そこで、「さくら」のママに癒やされ、諭され、番組はエンディングを迎える。

 

ドラマのキャッチコピーは「刑事にも人情がある。犯人にも事情がある」。

 

当時の刑事ドラマには珍しく、事件の解決がメインというより、犯人の業にスポットを当て、どこか犯人にも同情を感じさせるような内容が多かった。

犯人に限らずとも、すべての大人は事情を抱えて生きている。このドラマでは、安浦刑事への救い(それは犯人への救いでもある)を番組のラストでスナックのママに託していた。

それは、あらゆる事情を受け止める、「弱さを許容する」文化がスナックに根付いていることを意味している。

 

ぼくが通うスナックのママが、ふとこんな言葉を口にしたことがある。

「強い人間なんていないの。あんたも私もどっかは病気なんだよ。でね、みんな病気でいいんだよ、世界は病院なんだから」

人類みな病人。弱さは、人間の本質的付属物。ママは、すべての人間が弱いことを前提に、世界を見る。

どこまでも、やさしい世界。スナックに通うなかで「自分だけでなく、周囲の人もまた、慰めや支えを必要としている同じ人間なのだ」と、はじめて世の中を見ることができるようになった。

 

結局のところ、27歳までにたいした財産を貯めることはできなかった。でも、疲れた夜、淋しい夜、一日の終わりにスナックの扉を叩く、それを覚えただけでも良しとしたい。

スナックは疑似家族。ぼくが救われたように、誰かにとっての安心できる空間が、どこかのスナックにありますように。

あ、そういえば、最近スナックで酔ったおじさんからこんな迷信を聞いた。

「コンビニの数がスナックを上回ったとき、地球は滅亡する」

根拠は、当然ない。

 

長原に来たら、行ってほしい店

スナックの話をしてきたが、長原の街について少しだけ補足をば。

日常の暮らしに、穏やかな空気が流れているのが長原の特長。駅周辺には、いかにも“下町”といった商店街「ぱすてる長原」が広がり、生活に必要なものはだいたいここでそろう。

八百屋や魚屋など、元気な個人店も多く、生活コストを抑えながら食生活を謳歌できるのがうれしい。

 

あっけらかんとした「長原」という街の名前からそうだが、街全体に見栄や気取ったところが一切ない。それは住人も同じで、長原の人たちは協定でも結んだように駅前のドトールを集合場所に使う。なんかいい。

「住みたい街ランキング」に入るような派手さはないけれど、ふつうにのんびり暮らすには、なかなかいい街だと思う。

長原に寄っていただいた際に、行ってほしいお店を4つほど紹介したい。

 

■wagashi asobi

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「ドライフルーツの羊羹」と「ハーブのらくがん」の2品だけを販売する小さな和菓子屋さん。

おすすめは、羊羹にドライフルーツのいちじくとイチゴが入った「ドライフルーツの羊羹」。ラム酒の香りが広がる、上品なおいしさ。大切な方への手土産にもどうぞ。

 

■焼家はる

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18時〜翌3時までやっている長原の良心酒場。日本酒好きのご夫婦がやっているほっこりしたお店で、日本酒の品ぞろえがとにかく豊富。1杯500円くらいから飲めるので、ついつい寄ってしまう。

 

■とんかつ 鉄

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ランチに困ったら、迷わず行っちゃうとんかつ屋。

「上ロースかつ定食」がイチオシ。とにかく柔らかジューシーで、脂身が甘い!とんかつの神は、脂身に宿る。

 

■カフェと囲碁 ひだまり

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囲碁カフェ。「パチッ!パチッ!」と小気味いい音を聞きながら、まったりお茶できる。ヒカルの碁世代の人も、そうでない人もぜひ。

 

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著者:山田和正

山田和正

編集者。1989年、岐阜県高山市生まれ。料理人・生産者への取材を通じて、食のおもしろさに開眼。Rettyグルメニュース編集長を経て、現在はフリーランス。厚揚げに生姜醤油をかけたやつがとにかく好き。
Twitter:@yamakiiin

編集:Huuuu inc.