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チラシ裏

カードゲーマーとして大切だと思うこと

カードゲームをやる上で1番大切なことは何か?

この答えは人それぞれだと思うし、どれが正解というわけではない。

 

息抜き、趣味としてやってる人にとっては楽しいと思えることが1番であると思う。

 

しかし、遊びといえども勝負事だ。プロ意識とは行かないまでも、長期で遊び続ける人には美学が生まれる。

 

カードゲームは環境の変化が激しい。これだけルール変更と新しいカードプールが追加され続けるゲームはなかなかない。

毎月、新しい駒が出る将棋のようなものだ。

古い戦術は通用しない事が多い。

 

勝てる人になるのは思ったよりも簡単だ。

新しい情報、戦術を身につけさえすれば、それなりに素人だって戦える。後は運が味方するか、実力が下の人と対戦すれば勝つのは道理だ。

 

問題は勝ち続けられるかどうかだ。勝ち続ける人はそれぞれの美学を持っていると感じる。

 

そして勝ち続けるためには、楽しいことだけでは難しい。基礎的な練習は辛いし、知らないことをつぶしていく作業だって億劫だ。

勝つために、必要なことは楽しくなくても行わなければならない。

 

何度も何度も挫けそうになる。

 

もうこれくらいでいいんじゃないだろうか。

 

そう思った時に、踏ん張れない人と踏ん張る人がいる。

 

もちろん、あなたにとってゲームは生活の一部であっても、人生全てをかけるほどのものではないかもしれない。世間一般の感覚で言えば、いい大人が遊びに夢中になるのはいい顔をされない。

 

諦める理由はいくらでもある。

一生懸命になるのはダサい。

そして、頑張らなくたって、カードが強ければ、引きが強ければ勝てる。

 

でも、本当に辛く、厳しい時でも踏ん張った人、そこを乗り越えた人は、踏ん張らなかった人より一歩進む事ができる。

踏ん張らなかった人はただその光景を指をくわえて見ているだけだ。

 

そんな事が二回、三回と続くうちに勝てる人と勝ち続ける人に分かれるのだ。

 

 

必勝は無い。勝つことは容易。勝ち続けるのは難しい。

 

 

私にとっての大切なこと。

それは、勝つことでも、強くなることでも無い。

 

成長し続けることだ。

 

昨日の自分より、紙一枚分の厚さでいいから一段上に登ること。それが勝ち続ける上で1番大切なことだと信じている。

 

ゲームを通した成長には2つある。

「ゲームの理解度を上げること」と「人としての成長」だ。

 

ゲームの理解度を上げる

勝つことにフォーカスすることも確かに重要である。昔は強いデッキが何か特定することすら難しかった。しかし、インターネット、SNSが普及した現代では簡単に強い無駄のない構築を拾う事ができる。あとは合わせてプレイガイドの一つや二つ読み込めば勝てる自分になれる。

 

しかし、この方法はあなた自身が強くなったわけではない。こういった簡易的な勝てる方法は誰でもできる。言い換えると、すぐに全体が追いつくため、すぐに飽和して勝てなくなる。

 

楽な方法は多くの人が流れる。あくまで情報の早い遅いでしかない。昔はそれでも情報が閉鎖されていた分、一定期間勝ち続ける事ができた。

 

今の情報社会ではリリースから一週間もすれば、研究、共有される。ほとんど差がつかない。

 

簡易的で、楽な方法では、長期で勝ち続ける人にはなれない。もちろん、それをやるなとは言わないし、他の人がやっていることはもちろん自分もやっておく必要がある。

 

問題はそこで止まってしまうのか、そこから先に行くのか。あるいは、別領域を足すのかである。

 

勝つことだけにフォーカスした場合に起こりがちなのが、これでもう十分勝てるという間違った自信を抱いてしまうことだ。

それは錯覚である。

 

そもそも、無限にカードプールが増え続けるゲームを極めるのは困難であり、実質不可能だ。

満足した時点でゲームへの理解というものは止まる。

プレイひとつ取ってみてもすべてのプレイ自体に根拠を持たせ、言語化できるプレイヤーはほとんどいない。

 

強い構築と基本のプレイガイドはお手軽に手に入る。つまり、そこがスタートラインである。

 

多くのプレイヤーは何故かそこがゴールだと勘違いする。繰り返すが、そこがスタートラインである。

 

今だとなかなか見かけないが、昔コピーデッキは害悪みたいな扱いを受けていた。

一から自分で組み上げていないのは、カードゲームをしていないだの、自分で組んでないからプレイや採用理由がよくわかっていないなどの批判が多かった気がする。

対してゲームを理解していない人に負けるのが悔しいといった、僻みが入っているように感じる。

 

これは、私からすると見当違いの意見だ。いわゆるコピーデッキを回すのは、最短でそのデッキタイプを理解するために必要なことだ。

特に構築やゲームに対する理解が低い状態、実力がない初心者にはおすすめである。

 

これをやらないのは、高速道路の横で、道路の路面から工事しているようなものである。

また、巨人の肩に乗るということわざもある。

料理の練習も錆びた包丁より、切れる包丁の方が上達はやはり早い。

 

また、構築とプレイングどちらが先かみたいな問題もある。先に学ぶべきはどちらか。

 

構築の意図を理解していないと、プレイングは伸びない。

しかし反対に、プレイングが出来ても構築ができないプレイヤーが多いのも事実である。

 

卵が先か、鶏が先か。

向き不向きで決めればいいと思う。

 

とにかく、重要なのはそこで満足しないことだ。

一つのデッキタイプを完璧に回せるようになったことで、そのカードゲームの何%を理解できたと思う?

 

おそらく、5%にも満たないだろう。

それが構築とデッキガイドを読んで理解したつもりになっている状態であれば1%にも満たない。

 

なのに勝てる時がある。場合によっては勝ち越せるだけで理解が止まってしまうプレイヤーは多いと思う。

 

そこから先に進む時に、2つの道がある。

  • そのデッキタイプに対する理解度を上げる
  • 別のデッキタイプを理解する

 

どちらでも構わないが、後者を個人的には進める。

やはり、構築とデッキガイドを読むだけで加点される1%は大きい。

さらに、使用するデッキでなかったとしても対面に来ればそのデッキの採用カードや、動き方、ウィークポイントを見抜けるようになる。

自分の有利な立ち回り、相手の心理状態がわかる。

 

そのことで、メインで使うデッキタイプに対する理解度が上がるからだ。

 

後者を学ぶと、前者を詰める事ができる。

また、前者の場合も使い続ける事で、シークレットテクニックのようなものが身につくし、対面の知識もわずかばかりながらついてくる。

 

最終的には、どちらも嫌というほどやりこむことになるので、自分の足りない方をやればいいと思う。気分でも構わない。

 

また、構築戦だけやっていてもセンスを磨くには限界がある。

ゲームルールに対する基礎的な理解、リソースやアドバンテージ理論などはリミテッド戦でこそ磨かれる。

 

構築戦では、カード単体やシナジー、コンボのパワーが高いためゲーム本来の流れが掴みにくい。固有の動きが固定されていて、その流れに乗っていれば強い動きができてしまうからだ。

 

基礎な動きの理解度が足りないと、ミスにつながりやすくなる。

同じコンボを使っていても、順番や対象の取り方、タイミングによってカードを一枚分損したりする。

 

デッキのポテンシャルに引きずられて、本来のルールに則した基礎的な動きが途中参加のプレイヤーには多い。

 

それを磨くためには、昔のカードパワーの低いプールや、シールド戦、リミテッドなどのローパワーのカードプールをやり込むのが効率的だと思う。

 

勝ち続けるプレイヤーはこれらのルールにも滅法強いが、勝てるだけのプレイヤーは地力が追いついてないので、急に勝てなくなったり、ミスを連発することになる。

 

人としての成長

勝負事というのは、人間が出る。

頭の回転の速さ、能力、性格。

 

誰が言ったか知らないが、人を見るには一緒に麻雀をしてみるのが1番いいというのを聞いたことがある。

当たらずとも遠からずと思う。

 

勝負事は人格を写すが、人格を磨くにもまた勝負事が向いていると考える。

人間の頭の能力は、数学の分野と文系の分野に分けられる。

 

単純な効率、何をどれくらい動かしたらどういう結果になるのかという推測や論理、金の勘定や情報の処理スピードは数学の能力に起因する。

 

一方で、文系の能力は、感情や非論理的なところまでカバーする。一言で言うと他者との情報を伝達する力である。

コミュニケーション能力、文章力、心理学、宗教、法律、組織論。

 

この両輪が人間の能力のおおよそである。

ここに、金融資本、物的資本、人的資本の3つの資本と、その人の理念、ビジョンが加わりその人のおおよそのなりを形成するのである。

 

面白い勝負事、ゲームは2つの分野が組み込まれている。

 

数字、読み、対人関係など。

これらの要素のバランスによってプレイヤーの色が出る。

 

しかし、これらはゲームの表面的なことに過ぎない。最も必要なことは、能力を磨く過程で己を見つめることだ。

 

ゲームを続けていると、何度も何度も壁にぶつかる。

 

残酷なことを言うが数学的能力の限界、処理能力は生まれ持ったセンスの部分が大きい。

 

文系の能力は数学よりは努力で伸びやすいが、それだけにサボってきた人間には辛く、環境によってはキチンと取り組まないこともある。

 

自分の能力が足りないために、ミスをする。

 

デッキの選択をミスする。

構築を間違える。

プレイングで択が見えずにゲームをロスする。

苦しい。

 

こんなに一生懸命に取り組んできた事で結果が出ない。

人生を無駄遣いしてきた感覚にとらわれ、何をやってもうまくいかない気持ち、みじめな気持ちになる。

 

そんな時いつも考える。

こんなことになるなら、最初からやらなければよかったなと。

そもそも、何でゲーム"なんか"にこだわっていたんだっけ。

 

そんな時に自分を必ず見つめ直す。

心の中の自分がお前の能力はそんなもんかと叫ぶ。

まだ、やれることがあるんじゃないか?

 

なぜ、ゲームをやるのか。

それはきっと、ゲームをすれば能力が伸びるとか、何か得をするだとか、モテるようになるとか打算的な理由じゃない。

 

ただなんとなく好き。

しっくりくる。

あるいは、幼い時に強烈な原体験があったのかもしれない。

 

自分にとっての原体験は、

将棋で親父をボコボコにしてやった時だったろうか。

同級生をプリズムフォレストで八つ裂きにしてやった時だろうか。

隣町までわざわざ出かけて、初めて出た玩具屋の大会で大人の除去ボルバルを、マリエルペトローパアルカディアスで封殺して15ターンドローゴーさせた時だったろうか。

 

いずれにしても、好きだと言ううちから溢れ出す情熱に突き動かされたからだろう。

 

自分の感情が揺れ動くものは、人生でそう多く出会えない。

そんなに多くないのに、人は皆心の声を無視する。もしかしたら、聞こえなくなってしまっているのかもしれない。

 

周りのみんながやっているから。

勉強をして、いい学校を出て、いい会社で働く。

社会からは褒められるが、何かが違う。違和感がある。

 

心の声を聞け。それはあなたが本当にやりたいことなのだろうか。

どうでもいい学校、どうでもいい会社に自分の時間、命を燃やす。

それは人間らしい生き方なのだろうか。

 

やりたいことをやりきって死ぬ。

それが人間の本質、人間らしいと言うことであると僕は思うのだ。

 

そう言う人間は、魅力的だ。

足掻いて、もがいて、上手くいかなければさっぱりと死ぬ。保険なんか取ってない。

金が必要なら働く。しかし、同じ勤め人でも明らかに違う。

ただ生きるため、生活するため、金のために働いているのではない。命を燃やしているのではないのだ。

 

自分の持っている情熱、これだけは曲げない何か、曲げられない何かを突き通すために命を燃やしている。

 

そう言う人間は実に爽やかだ。

 

あるいは、僕にとって勝負事というのは、本を読むことと似ているのかもしれない。

 

いつも通りに、変わらない日常を過ごしている。良くも悪くもなく、何かきっかけがなければこのまま死ぬまで、多少の起伏あれど穏やかに生きていくだろう。

 

そんな時に、非日常をくれるのがこの2つだ。

新しい情報、素晴らしい変化、何かが起きるきっかけ。毒かもしれないし、薬かもしれない。

 

もちろん、珍しいものを横目で見るだけ、スルーすることだってできる。

 

でも、現状以上にいきたいなら、それをえいっと飲み込んでしまう度胸が必要だ。

もしかしたら、ものすごく苦しむかもしれない。

もしかしたら、食わず嫌いで案外、美味しいものかもしれない。

 

この飲み込むというのは、きっかけを掴んで、自己と対話をするということに他ならない。

 

自分が本当に望んでいるものはなんなのか。

 

金、女、力、スリル

 

普段の体裁をべったべたに体に塗りたくっている自分を一度丸裸にして、耳を傾ける。

 

泥を水ですすぐように簡単にいかない。

 

そうして自分が本当に打ち込みたいもの。情熱を感じるものを探す。

 

よくやりたいことが何もない。趣味のない人間なんですという人がいる。そういう人は、日々の忙しさを理由に自分と話すことをサボっているのだ。自分の小さな声を無視している。

 

なんでもいい。本当に下らないことに人間は情熱を感じるものだ。

例えば、人を笑わせた。

例えば、お金を拾った。

例えば、ご飯がおいしかった。

例えば、布団が暖かかった。

 

そんなことで幸せを感じることが出来る。

そういうのでいいんだ。なのに、現代人は金がない、時間がない、つまらないなどと腹を立てる。

 

根本的なストレスが隠れている場合もある。ようは八つ当たりだ。赤子が不快だからなくのと一緒だ。何が原因か自分でもわかっていない。そこから抜け出せない。

 

いくらゲームで勝ち続けていたとしても、自分の情熱を感じなくなったら途端に空虚なものになる。

厄介なもので、急激に興味が別のものにそれる時期というのがある。

 

それは歳を重ねて、ライフステージが変わるのがきっかけの時にもあるし、急に変わることもある。

 

そしたら、素直にそっちに行ってみればいい。いつでも戻れる。

 

ゲームだけの人間になるのはちょっともったいない。いろんな経験をするといい。体を鍛えることは、闘争心や集中力を上げることに繋がる。金を稼ぐことで時間を買うことが出来る。別のゲームだって他のゲームに応用できる。その逆で今までゲームで培ってきた経験、戦略は仕事にだって、人間関係にだって、遊びにだって応用できるのだ。

 

1番ダメなのは、自分の情熱が他に移っているのに、もったいないからと惰性で続けること。本当の自分の声に対して無視したり、嘘をついたりすること。正直に生きるのが、鉄則なんだ。

 

逆に、ゲームに対して情熱が向いているのに、何か苦しい事が続く時期、勝てない時期は必ず訪れる。その時に、自分はこんなものじゃない。勝てないのはおかしい。向いてない。と別のものに逃げるのはよろしくない。

 

人間は向いてる、向いてないで生きるように出来てない。

天命というと大袈裟だが、何か雷に打たれたようにこれをやりたいと思い続けるものと出会う時が来る。

 

それは、自分が向いてるものとは限らない。もしかしたら食えなくなって、死んでしまうかもしれない。明日食べるものも、住むところもない。他の人間に殺される。

 

昔の人はそんな状況だってやりきったんだ。文字通り人生を賭けて。

 

現代はまぁ死なない。餓死なんかほとんどない。安心してくれ。

 

そして向いてないものが好きになっちゃった。情熱感じちゃった系の人よ。やり切ればいい。

やり切って死のう。今日だけ頑張ろう。今日を頑張らないやつに明日は来ない。

頑張ってるやつには人がよってくる。続けてるうちに、レースからほとんどの人が降りる。

向いてないものを必死こいてやるのは、みっともないよな。恥ずかしいよな。

でもそれでいいんだよ。

カッコつけた人生なんかこれっぽっちも意味がない。

 

これが自分。才能もセンスもあんまりない。みっともないし、恥ずかしい。でもそれが自分なんだ。それでも好きで好きでたまらないんだ。

 

そんな人がいたら肩を抱いて、僕だったらこういうね。

 

ブラザー。生まれてきてくれてありがとう。僕も同じものが好きなんだ。一緒に語ろうよ。

 

勝ち続けることは難しい

結局、勝ち続けるための王道は存在しない。

地道に草の根を分けて、道を切り開いていくしかない。

あるいは、小石を何個も何個も積み上げていくようなものだ。

 

戦術に始まり、ゲーム全体の理解、戦略、そして自分の生き方まで考える必要がある。

 

そこまでして、自分が情熱を傾けるカードゲームって一体何なんだろうか。

 

現状のプールの結論を出すだけでも年単位の研究が必要になるのに、毎月のペースで新しいカードが増え続け、まったく飽きさせない。

 

狂気。

集中。

熱狂。

 

一生やってる気がする。

だって自分の人生かけてるからさ。

 

自分と同じくらいバチバチに情熱注いでやってるやつ見ると嬉しくなっちゃうよね。

そんな奴らと試合したり、語り合ったりできるの最高じゃない?

 

そんなことが日本中で、世界中で起こってる。別に珍しいことでもない。なんてすげーゲームなんだよ。

 

凄い、本当にカードゲームは凄いんだ。

 

だからこそ、負けたくない。勝ち続けたい。どんなに困難でも、苦しくても勝ち続けたいんだ。

 

自分よりすげーやつがいるって知ってるからさ。

そいつに追い付きたいんだよ。

 

カードゲームは、遊びで、勝負事で、人生なんだ。