二軍暮らし ドラ1たちの「長すぎた午後」
己に負け、運命に翻弄され一軍に上がれぬ悔しさは、惰性の中に埋もれていった

週刊現代 プロフィール

「それまではどこか、『ほかの選手に負けているな』という気持ちがあった。でも捕手にも挑戦することで、自分の居場所をやっと見つけられた気がしました」

だが、その居場所はやはり二軍にしかなかった。高卒で自分と同じ'02年ドラフトでプロの世界に入った現・阪神の西岡剛は'05年、当時在籍したロッテの日本一に貢献。盗塁王やゴールデングラブ賞にも輝いていた。

「焦りがまったくなかった、といったらウソになる」

30歳で最年長になった

より多くのチャンスをもらえれば、もっと力を発揮できる。尾崎は自らの不遇へのいら立ちを、表に出してしまったことがあった。捕手に転向後、ある日の二軍戦。打席で出てくるサインは、バント、またバント。守備で慣れない捕手に挑んでいる分、打撃では思い切り勝負したい。試合の流れとはいえ、当時の尾崎には納得がいかなかった。平常心を失った尾崎は、首脳陣に反抗的な態度をとり、ちょっとした口論に。試合途中で、帰宅してしまった。

「あの時は本当に野球をやめようと思いました」

翌日、尾崎が首脳陣に謝罪し、事なきを得たが、尾崎は長い二軍生活で、そこまで追い詰められていた。

「ですから、'10年に一軍にあがった時、試合後に、監督室によばれて『登録抹消だ』と言われると、『ああ、(選手生活も)終わりだ』と思って涙が出てきた。梨田さんにも『泣くな』と言われました。近くで見ていた坪井(智哉、現・横浜DeNA一軍打撃コーチ)さんから、『こういう苦しい時の立ち居振る舞いでお前という人間の強さがわかる。苦しい時こそ荒れるのではなく、しっかりしろ』と言われて、涙を拭いてから部屋を出ました」

ただ、ある球団関係者は、尾崎に潜んでいた心のスキを、見逃さなかった。

「ウチの二軍は若い選手が多いから、30歳の匡哉でも最年長の部類に入る。少しずつ甘さが出ていたと思う」

練習は全メニューを消化することが基本だが、たとえば「今日は守備免除でお願いします」と打撃練習だけをこなし、一足早く練習を切り上げる日もあったという。たとえ二軍のベテランでも必要な、がむしゃらな気持ちがいつのまにか失われていた。

「一軍と二軍の違いですか?一軍にいる時はすべてが近く感じました。ベンチから打席までの距離なども、二軍とすべて同じなんですけどね……。鎌ケ谷に戻ると、その近さを感じなくなってしまいます」

二軍慣れ—。鎌ケ谷の二軍練習場で長い時間を過ごしたせいで、尾崎は札幌ドームでプレーした時の感覚を忘れつつあった。