総力取材・天才スポーツ選手が語る「栄光と挫折」

天才であり続けることは奇跡に近い
週刊現代 プロフィール

「高校時代、どうやって打っていたのかも思い出せなくなって、辞めたい、もうムリ、この状況から逃れたいと思っていました。毎日が嫌で嫌で仕方なかった。惰性で野球をやっていましたね。一番最後にグラウンドに来て、一番最初に帰る。もちろんコーチには叱られましたけど、『やれと言われてやるのは、プロ野球選手じゃない』と思っていましたから、ハイと返事しておいて、帰ったりしていました。18歳の僕は素直になることができなかった。腐っていましたね」

 腐っても鯛---それでも金の卵には救いの手が差し伸べられた。

「1年目のオフに二軍監督が山本功児さんに代わったんです。功児さんは『お前はドラフト1位だろ!』と僕を叱りました。でも呆れて放置するのではなく、1時間も2時間もバッティング練習に付き合ってくれた。熱意が伝わって、練習する気になれたんです」

 澤井は3年目の秋に待望の一軍デビュー。そして4年目のシーズン、山本が一軍監督に昇格する。

「ところが、この大事な時期に僕はヒジを痛めてしまった。夏前に手術して、残りのシーズンを棒に振ることになってしまった」

 7年目のシーズンに開幕スタメンをつかんだものの、レギュラーを獲るまでには至らず、プロ10年目のオフに戦力外通告。一軍での通算成績は打率2割2分5厘、6本塁打、19打点だった。

 

「何が足りなかったのかな。でもチャンスはあったのに掴めなかったんだから、そこまでの選手だったんだと思います。もっと目的意識を持っていれば・・・・・・とか、後悔していることは山ほどありますが、それは今だから言えること。たとえば、福浦(和也)さんは打っても打てなくても、試合が終わったらトレーニングをして、ビデオでその日のバッティングをチェック。修正点があれば打撃練習をする。このルーティンを欠かさない。これほど難しいことはない。誰だって気持ちに波があるじゃないですか。継続は力なりって本当です」

 やり直せるなら、一流選手を目指す道を選ぶか。澤井は意外にも断言した。

「選ばないです。引退したプロの同期や先輩、後輩と飲んだ時に、そんな話題が出たことがありますが、みな『選ばない』と言いました。『自信がない』って。テレビとか、ちょっと映像を見ただけで、『あの選手はチャラいな』と言う人がいるじゃないですか。絶対そんなことはない。そんな甘い世界じゃない。しっかりした信念がある者だけが、あそこに映っているんです」

中学時代から138km! 
松坂の再来 近田怜王

「名前はレオですが、打倒西武で頑張ります!」

 そう入団会見で笑わせてから、わずかに4年。初々しさが失われる間もなく、近田怜王(22歳)はプロ野球界を去ることになった。