著者: 吉野舞
「どこでもいいから遠くへいきたい。遠くへいけるのは天才だけだ」
ある日偶然、街の数少ない古本屋で見つけた寺山修司の本に書かれていたこの一言を読んだとき、「これは私のためにある言葉だ」と確信した。それから、この一説を修行中の僧のように毎晩寝る前に唱え、海の向こう側へ渡る日をただひたすら待ち続けたのだった。
瀬戸内の娘
私の故郷は、神戸から車で約一時間半、明石海峡大橋から渡れる兵庫県の淡路島。そう、島だ。
「島からやってきました!」と言うと、「島」という単語で日本から遠く離れた南の島か、探検家が行くような島を思い浮かべてしまうのだろうか、「島って野球チームとかつくれるの?」「義務教育とか本当に受けていた?」と、よく聞かれる。
淡路島は約10万人の人々が暮らしており、地方都市とそんなに変わらない人口密度なので、ライフライン設備は完璧にそろっているし、さまざまなスポーツクラブがつくられていてトーナメント式の大会だってできる。
日本も世界から見ると一つの島なのに、島国の人がその島の人をからかうのは、何か変だと思いつつ、いつも島育ちというアイデンティティーをいじくりかえされるのにはもう慣れっこになっていたのだった。
私がすぐに思い出せるのは、夏を待ち焦がれる時期にやってくる淡い潮風の匂い。太陽に愛されている証である、島の人たちの一年中浅黒い肌。学校にも馴染めず、家に帰っても両親は共働きでいなくて、自分を他人にさらけ出せる場所がなかったこと。
「ここは出生地ではあるけれど、自分のいるべき場所ではないな」と、ランドセルを背負うころから静かに胸の奥底で悟っていたことだった。
島で生まれて、高校卒業まで暮らした18年間。私の生活のルーティンは決まっていて、授業の鐘がなると共に、家に直帰。そして、父の所蔵しているレコードの中から淡路島が産んだ大スター昭和歌謡の阿久悠先生がつくった曲を聞くことだった。
なにか成し遂げようと思う青春の希望も、恋はきれいごとだらけではないことも、誰もが人生で一度味わったらもう十分なほどの心情を、実際に体験するよりも先に、阿久悠先生が曲にのせた言葉で私に教えてくれた。そんなことをしていたら、ただ島での時間は流れていったのだった。そりゃ友達もおらんわ。
ちなみに淡路島では、今年から観光協会が阿久悠さんの作品を歌う「阿久悠杯歌謡祭」が行われている。アマチュアから応募可能で、審査員も知る人ぞ知る歌謡界の人選なのが素晴らしい!(審査員には阿久悠さんのご子息もいらっしゃる!)
少年少女をやめない島民たち
大学進学を機に、島を出るチャンスを掴む日が、ついに来た。
島を出た日のことは忘れもしない。
小柳ルミ子が「生まれた島が遠くになるわ 入江の向うで見送る人たちに別れを告げたら 涙が出たわ」と、歌っていたが、私はこの街を出る時、「次に島へ戻るころには、私は骨と化して、この島の土を踏むのだ」と、大きく息を吸い込んだ。
これから本当の自分の人生が始まるのだと思うと、歓喜の涙で遠ざかる島を見ることができなかった。
そして因縁の島とは、年に2〜3回家族に顔を見せる為に帰る、いわゆる「地元」という関係性になってしまった。
島を離れれば何か変わるかと思ったものの、身体に染み込んでいる出身地の特性を変えることはできないと、このときに身を以って知った。
会話のリズム、味付け、好きな異性のタイプは、人は生まれ育った環境に少なからず影響を受けていると思う。東京で「今日もいい天気ですね」とその辺の道行く人に話しかけようとしたら本気で驚かれたし、淡路島産以外の玉ねぎはとても辛く、生のまま食べられなかった。淡路島の玉ねぎはフルーツ感覚でかぶりつけるほど甘いから。
初めて地元以外で迎えた夏、そろそろ島の空気が恋しくなり帰省した。島に帰っても連絡を取り合う仲の良い地元の友達もいない私は、孤独を味わいつくした家にもいたくなかった。そして、もうお酒を楽しめる年齢になったのをいいことに、一人淡路島の飲み屋街に繰り出そうと決めたのだった。
島内で飲みに行く場所は限られているので、多くの淡路島の人と会うことになる。そうすると、島の人々、移住してきた人たちと交流する機会が増えた。それは、初めてここでの毎日が楽しいものに感じられた瞬間だった。
「この人たちといると人生のネタが増えそうだ」と、最初は軽い気持ちで接していたが、島の人々のぶっ飛び具合に圧倒されて、「こんな人種みたことない!」とミステリーハンターのような視点で島の人々と関わり始めたのだった。
野菜にレゲエを聞かせながら育てている農家の人、海は泳ぎに行くものじゃなく食料を探しに行くためのものだと言い張る人、洋服を着ていたら健康に悪いからとパンツだけで過ごす人など。そんな人たちがいるのかと思うだろうか。いるのだ、淡路島には。
島の人々は、みんな、青くて、無邪気だ。それは、子どもが純粋なまま大人になった結果だと、私は思う。人が持つ三大欲求を我慢しない、正直なのだ。
その姿勢には、痺れる。
「淡路島にいると、とにかく人との結びつきが強いし、すごいお金に縁のある生活でもないから、自分が持つ基準でまっすぐに生きていける。どんなことでもべっちゃない(訳:大丈夫)。この街では不自然なものがいつのまにか自然になっている」
と、飲み屋の席でよく会うおじさんが言っていた。その言葉がとても心地よかったことを今でも覚えている。
どんな小さな島の人間一人でも、侮ることなかれ。
冷静と情熱の間
この島を歩けば、毎日知り合いに出くわす。そして、無自覚なまま、自分の心をさらけ出し、どんなことでも話していることに気づく。
それは、島の特徴である、よそ者、ばか者、若者を受け入れてくれる懐の深さが関係しているように思う。きっと都市に近くて、いつでも都会と行き来できる距離感が、島特有の閉鎖的な空気を薄くしているのだ。
淡路島の気候も人柄同様にゆるやかな温暖で、太陽からの日差しは、野菜や植物を元気に育ててくれる。
食料自給率は100%を超えていて、名産品である玉ねぎをはじめ、とれたての海の幸も、地元のお寿司屋に行けばぷりっぷりっなまま食べさせてくれる。都会で食べると、何倍の値段にもなる料理を淡路島では普通に子どもでも食べているのだ。
島の人々のエネルギーは、絶対に「食」から来ている。淡路島は昔、古代時代に皇室に食材を献上していた国の一つという記述も残っているぐらいだし。米も野菜ももちろんお魚もなんでもそろっていて、新鮮なまま調理して食べられる。
自分自身がちゃんとあれば、どこにいても何も心配いらないと、教えてくれたのは島の人だった。
帰るたびに、「いつでも島に帰っておいで」と、言ってくれる人が増えていくこと。あんなに毛嫌いしていた自分はどこにいってしまったのだろうか。帰るたびに、顔つきが変わってきていると家族に言われた時は、「まさか、これが大人になること?」と、悲劇のヒロインぶってた思春期の終焉を感じたのだった。
望郷の島
私はたしかに、いやな女の子だった。淡路島で生まれ育ち、自分の世界しか知らないくせに、それだけでこの島の全てを知った気になってしまっていた。人と関わることが下手くそだった自分を、取り巻いていた場所のせいにしていたのだ。
瀬戸の花嫁ではなかったが、瀬戸内の一つの島の娘として、私は島を出たことを後悔したことは一ミリもない。島から出たことで、違う視点で故郷と接することができた。新しい一歩を踏み出したいと思うとき、故郷が踏み台にもなってくれる。
たとえ、それが苦しかった場所だとしても。心強く、そんな気持ちにさせてくれる場所は故郷以外に思いつくだろうか。これからも見つかるとは思えない。
島にいる人たちのおかげで最低だと思ってた島が、最高に思える。とにかく感情のまま動き、時が来たら待ってみるものだ。出会えた出来事や人々、その全てを真新しく思える瞬間がやってくる。
お天気日和、淡路島の海はよく光る。
それを見るのが、帰省したときの楽しみの一つだ。
波は消しゴムみたい。今も心のどこにも片付けられなくて、渦巻いている島の甘く苦い思い出たちを全てかき消していってくれる。
故郷とは自分の意思でいつだって「さよなら」ができる。そして、何度でも「はじめまして」もできるのだ。
選り取りみどりの島のおすすめ情報
■東光湯
洲本市の本町商店街にある老舗の銭湯屋さん。中央に番台がある昔ながらのスタイルの銭湯。地元の人もよく利用してサウナもついている。
■立ち飲み屋 淡路島ブルース
東光湯の前にある、毎晩島民が集まる立ち飲み屋。店内にかかる音楽の選曲が昭和歌謡から現代ボップスまで幅広くて、カルチャーに通じているお店。料理や飲み物がワンコインでいただけるのも、島民からの人気の秘密かも。島の夜に島民と話したい!ローカルな飲みがしたい!と、いう人はここへ。
■淡路軒
チャラリ〜ララ、チャラリラララ〜。と、チャルメラを鳴らしてやってくる屋台ラーメン。電話をかけるとそこまで来てくれて、その場でサッとつくってくれる。特注のモチモチ細麺はここでしか食べられないから、帰るたびに音が聞こえたら走ってでも食べにいく。飲んだ後のシメにはほんと、最高。
■ニュースナックKJ
農家とスナック経営を両立させる生き方を選んだ北原さん(通称:KJ)が、スナック文化を現代的にアレンジしたお店。ここに顔を出すと、同級生のお父さんにも会えるし、島の顔見知りにも会える。一見さんでも大丈夫なので、一人でもみんなでもざっくばらんに飲めるし、何より雰囲気が心地いい。
■洲本城(別名・三熊城)