ある出来事が社会制度なり社会の特徴的なあり方なりを背景に起きたと考えられるとき、それを「構造的」と形容することがあります。出来事を一回限りの特殊なものと考えるのでなく、社会構造において見る必要がある、という意味で使います。
相模原の事件は、いまの意味で構造的です。理由を三つあげます。
1. 若い世代を取り巻く厳しい雇用環境。
現在取り調べが進められている最中ですから、事件の加害者がどうして介護の仕事を選んだのかについて、予断を加えることは慎まなければなりません。ただ正社員の仕事を求めて得られなかった若者の中には、介護の仕事を志願する積極的な理由なしにこれを選択する人も少なくない点に注意すべきです。つまり慢性的な人手不足に陥っている介護職が、一般企業の正社員になれなかった若者の受け皿になってしまう可能性があるわけです。今回の事件の背後には新卒者の就職難と、非正規雇用者の割合の増加という社会背景があります。
正社員ではない賃金労働者の全賃金労働者に占める割合は、昨年厚労省が発表したデータによると4割を超えています。一つの背景に、高齢者雇用安定法の改正によって定年退職者の非正規雇用が増加したことがあります。しかし、それでも若い世代の非正規雇用者も増えていることは事実で、総務省統計局の「最近の正規・非正規雇用の特徴」という資料によれば、2014年の非正規雇用者の割合は20-24歳で43パーセント、25-29歳で28.6パーセントで、2002年に比べていずれも増加しています。
企業にとってパート、アルバイト、契約社員といった非正規雇用者は、雇いやすく解雇しやすい便利な存在で、超長期化した景気低迷下、彼らを活用して人件費を削減しようとするのは当然のことです。
現政権は、非正規雇用者の割合が増えることを事実上容認しています。なぜならそれがアベノミクスと呼ばれる経済対策にとってプラスに働くからです。
お断りしておきますが、いまの指摘は、アベノミクスが相模原事件の遠因だなどといった短絡的な話ではありません。今回の事件の背景には、いまの日本の若い世代に共通する雇用環境の問題があり、その点において小泉内閣以来現政権に至るまで、民主党政権時代を含めて根本的な対策がなされなかった雇用問題と事件の関連を指摘できる、というまでのことです。
覚えておられるかたも多いと思いますが、2008年に秋葉原で起きた通り魔事件(亡くなられたかたは7人)の加害者も短大を卒業してからほとんどの年月を非正規労働者として過ごしました(半年間ほど正社員になった時期がありますが、その後また派遣社員に戻っています)。もちろん動機も背景もまったく異なる二つの事件について安易な連想は禁物ですし、何と言っても若い非正規雇用者の中から多くの人々の生命を奪うような凶悪犯罪が起こる頻度はきわめて稀です。
それでもわたしたちは、現在の雇用環境がともすると若い働き手から生活の安定と将来の見通しを奪いがちであるという事実を直視すべきです。少なくとも今回の事件の背景の「一つ」として、雇用問題は無視できません。
2. 介護職が低賃金である現状。
厚労省の統計によれば、2014年の福祉施設の介護職員の月給(全国平均)は常勤で21万9700円、ホームヘルパーで22万700円です(全産業平均の32万9600円と比べ10万円以上低い)。言うまでもなく介護の仕事には高いスキルが求められる上、重労働になりがちですが、それに比べて報酬が低いことがわかります。この現状に対しては従来から批判が強く、国も2015年に12000円の賃上げを行ないました(介護職員の待遇を改善する事業者に対して、国が介護保険を通じて事業者に支払う介護報酬額を加算するという仕組みがあるのですが、この加算に新条件が作られたのです)。しかし、それでも一般的な給与水準には届きません。介護の仕事は離職率が高いのですが、その理由の一つに待遇の悪さがあることは各種のアンケート調査によって裏づけられています。
毎日新聞の報道によれば、今回の事件の加害者も2013年4月頃に、やまゆり園で働く同僚に「給料がもっと高くなるといい」などと漏らしていたということです。もちろんこうした経緯と殺傷事件のつながりの有無についてはまだ何もわかっていません。しかし、施設に入所している障害者の人たちと接する経験を持ちながら、犯行直前のに先立つ手紙に記された通りの極端な優生思想(人間に優劣の差別があるという前提のもと、劣っていると一方的に決めつけたターゲットを排除したりその誕生を妨げたりすることで社会や民族の優良さが実現されるという、かつてのナチス・ドイツに見られた思想)を抱いたことについて、その原因のすべてを彼の精神の失調に帰することは難しいとわたしは考えます。
なぜなら、彼がやまゆり園に辞表を出さざるを得なくなり、かつ緊急入院という措置を受けた理由こそ、まさに障害者は生きていないほうがいいという考えを公然と口にしたことにあるのですから。彼の精神鑑定の結果にかかわらず、福祉施設の職員がこのような主張を公言した事実に変わりはありません。また精神鑑定によって犯行時加害者の精神に問題があったという結果が出たとしても、いったい彼がいつから精神に失調を来してたのかという点まではわかりません。つまり彼が福祉施設で働きながら、まだ理性的な判断力を保っているうちに、障害者に対する差別思想を抱くようになった可能性は大いにあるのです。措置入院と前後して、突然彼の中に優生思想が生まれた、などという仮説には説得力がありません。
そうであるならば、極度に想像力を欠いた人間が、逆恨みとしか言いようのない差別思想に出会うきっかけの一つとして、本当は自分が続けることに意義を見出せなかった仕事を辞めることもできず(おそらく他に職を見つけるのは困難だったと推測できます。なぜなら退職後に彼は貧窮しているので)、それを続けていても低賃金に甘んじなければならない状況への屈折した思いを想定することには根拠があります。
3. ヘイトクライムを生み出す社会環境。
在特会のヘイトクライムがすでに司法の裁きを受けていることはご存じの通りです。また今年の5月にはヘイトスピーチ対策法が成立しました。しかし、このような訴訟や法整備がなされているということ自体、一握りとは言え日本社会に差別思想を公然と振りかざす人々がいるということを意味します。もちろんヘイトスピーチ対策法は与党の賛成があったから成立したのですが、それでも現政権の閣僚たちに排外主義的ナショナリズムの傾向が強く認められることはたしかですし、総理のFacebook のコメント欄は連日ネトウヨたちの書き込みで賑わっています。
何度も繰り返してきたように、犯罪事件そのものはさまざまな要因から生じるので、社会背景の一つだけを取り上げて短絡的にそれを語ることは許されません。しかし、今回の犯罪が障害を持つ人たちだけを標的にした行為であることを見れば、加害者の精神状態の如何に関わらずヘイトクライムであることは明らかであり、またこうした極端な行為には至らないまでも、いま国内にはともすると特定の人々を差別したり排除したりしようとする一定数の人々が存在することも事実なのです。
加害者が官邸衆議院議長公邸に持参した手紙には、自分の計画は日本をよくするという趣旨の記述があります。彼のいじけた「構想」が、現政権のスタンスへの共鳴と結びついていることは間違いありません。いま官邸政権がこの事件を話題にしたがらないのは、彼の犯行がヘイトクライムであり、しかもそれが自分たちの政権下で起こったという事実を認めたくないからでしょう。
このように、今回の事件には日本社会の現状の問題と関連する点が複数あります。わたしが事件をたんなる異常犯罪と言ってやり過ごしてはならないという理由もここにあります。仮に事件の影響を不幸にして被害に遭われたかたがたと家族のみなさんに限定し、いわゆる健常者には無関係の出来事だなどと考える人がいるなら、それはとんでもない誤りです。だれであれ社会のメンバーを、その属性によって差別するという行為に抗議しない限り、次にターゲットになるのはわたしたち自身です。
わたしたち「マイノリティ・フォーラム」は9月14日に代々木公園で事件に対する抗議集会を行ないます。以上述べてきた理由から、抗議の対象は「差別とヘイトクライムを容認したり看過したりすること」であり、関連して訴えたいのは「事件のターゲットは市民社会そのもの」、「福祉施設のセキュリティを高めるのでは解決策にならない」ということです。またこの事件があらためて浮き彫りにした介護職の待遇の問題をふまえて、「より多くの人が介護という仕事に誇りを持って携わることのできる社会を築こう」ということを訴えたいと思います。介護職のこれ以上の待遇改善にさまざまな困難があるのはわたしも承知しています。ですからたんに報酬の引き上げを言うつもりはありません。現にいま介護の仕事に就かれている人の中には、低賃金でも自分はこの仕事自体に価値を見出せる、と断言されるかたも少なくありません。
「差別とヘイトクライムを容認したり看過したりすること」への抗議は、本件の加害者だけに向けられているのではありません。行動に出はしないものの、自分の姿を隠して差別主義的な言説などを楽しんでいる人々やそれを見過ごしている人々に対するものでもあり、また今のような社会状況を生み出すことに加担したと言われてもしかたがない現政権にも向けられています。もちろん政権にすり寄って、事件をやり過ごそうとするメディアも批判の対象です。(荒井正樹)
【付記】 本記事の初出は“borujiaya” 8月7日。
【追記】 容疑者が2月14日に「衆議院議長公邸」に持参した手紙について、「官邸」に持参と書いていた誤りを打ち消し線付きで訂正(3箇所)。(2016/9/6)