気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

久しぶりに。




いつもみなさん、ありがとうございます。
ブログをお休みしてずいぶんと経ちますが、私自身はとても幸せに過ごしております。


というのも、さまざまな史料に目を通すことで知り得た、創価学会大石寺の欺瞞に気づき、これと対峙することの無益さに改めて気付かされたということです。


以前ブログでも書いたことですが、創価学会というものは、戦後の日本に現れた、貧しいものたちのための相互扶助組織のようなものでした。本来、それは貧しい労働者を糾合するという意味では共産党等が担う役割だった筈ですが、皮肉なことに日本ではそれを担ったのが宗教団体だったということです。そして大石寺というところは、その金儲けの手法を上手に換骨奪胎して利用したところなのかと思います。


両宗教団体にかぶれた人々は(かつての私も含めてですが)、正統は何かを求め続けて自己を権威化して守りに入ってしまう精神構造を多くの場合露呈します。私ももれなくそのような俗物だったわけですが(笑)、そのことに気づき、自身の醜悪さを思い知ることができただけでもブログを書いてきた意味があったものだと今は感じています。


私はブログ記事を全部抹消したわけではなく、データは全て私の手元に保管してあります。
ですからいつでもどこでも出すことは可能な状態にあります。
各教団関係者でいろいろ教えてくれる方もまだいまして、今はいろいろ勉強をさせて頂いています。

創価学会等の大石寺系教団信徒、元信徒の特徴は「己の誤りを決して認めようとしない」という点にあります。
そもそも現代においては真実とか正義などというものは相対的なものでしかなく、ハーバーマスロールズによって正義というものをどのように理解するかという議論が進んでいます。


誤解されることも多いのですが、私は自分が誤っているかもしれないという危惧をいつも抱いていますし、いつも謙虚に他者の意見を聞き取る態度でありたいと願っています。
それゆえに自身の誤りも認めるのですが、逆に自分の明らかな誤りを決して認めようとしない偏屈な態度を徹底的に軽蔑します。
そんな人たちはどんなに知識があろうが、創価学会大石寺の精神構造となんら変わらない筈ですし、そのようなパラダイムに支配されているのだということに全く気づけていないということになります。そんな人たちとは私はあまりお付き合いしたくありません。
そんな人たちはきっと哲学的な素養のない人たちですし、自身の思想的な前提に想いを馳せることができず、自覚することもできずにパラダイムに支配される一生をきっと送られることでしょう。少なくとも私とは生き方が違います。


なんだか知らないうちに大石寺の御隠尊も亡くなられたようですが、全く興味を失っておりました。創価学会などは特に亡くなった方を大事にしないので、これから誰か亡くなられてもまた新聞の片隅に3行くらいで紹介して終わるのでしょう。私の父の世代の大幹部たちなど酷い扱いだったもので、歴史的にほぼ抹消扱いですからね。なかったことにしたいのだと思いますが。


ブログの過去の記事は全て史料として私自身が使えるように保存してあります。またブログ記事が消えてもいいように、手元には手に入る文献を少しずつ揃えているところです。
とはいえ、私自身、ブログを再開する気持ちはほとんどありません。


私は誤りをきちんと認め、自身の過ちを恥じ入り、罪深い人間として自覚して生きていきたいです。
私が蔑視するのは、自身の罪深さも認めず、自身の過去の過ちを単に教団になすりつけて、自己保身を図るだけの人です。
そんな人がポピュリズム政党や類似した宗教にハマったりするのですし、そのような結果が次の誤った教義を招来するものです。
民主主義の本義とは、政治的な決断の最終的な責任が有権者にあることを自覚することだと思います。
それもできず、他人のせいばかりにして、自身の誤りを認めることができない人たちにもう私はウンザリです。
そんな人たちは、どこかの教団指導者を批判しながら、その実、自分の精神構造が件の教団指導者となんら変わらないことに気づいていないんですね。


というわけで、楽しい仲間たちと私は楽しく過ごすことを今は心がけています。