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「大和魂」をねじ曲げて理解する“愛国ポルノ”信者の罠

それでは強い日本は取り戻せない

日本精神の危機?

クリスマス前の日曜日にとある教会に足を運んだ。この数十年のうちに教会員の人数を爆発的に増やしたという牧師の説教は、しかし私の気分を鬱屈させるものだった。話の内容は日本民族には今こそ宣教が必要だと訴えるもので、聖書をとおした神の教えを伝えるという責務からは脱線しているように思われた。

彼の話はおよそ3つのパーツから成り立っている。導入部分では次のように語る。聖書を読めば、しばしば自分の正しいと思う方向に進もうとすると足止めを食らうことがある、これは神の意志である、イスラエルで生まれたキリスト教が東ではなく西へと向かった理由もその意志である、というのも当時のローマ帝国は平和で豊かな社会であったが、心は満たされていなかったからだ。だからキリスト教が必要とされていた。

彼の話はここから一気に聖書から離れ、日本の不安定さを説く第2部に入る。当時のローマと同じように日本も70年以上平和で豊かである。豊かさという点ではアメリカの方が段違いに豊かだが、かの国には格差がある、しかし世界中のどこを見渡しても日本ほどみんなが豊かで格差のない社会はない、こう始まる。

しかし、豊かであっても日本人の間には根深い心の闇があるから、今こそキリスト教の福音を述べ伝えることが必要だと続ける。根深い心の闇はすなわち、日本人、日本民族の精神性が崩れていることに起因し、それはスマホでゲームばかりをしていることに端的に現れていると言う。

説教はこうした精神性の退廃によってキリスト教が危機に瀕しているという第3部へ入っていく。

すなわち、物質的豊かさが崩れていく一方、精神的な安寧を保証する教会はキリスト教人口の減少でなくなろうとしている。現にヨーロッパではキリスト教人口が激減し、教会がホテルやレストランに変わっている。しかも移民・難民が一気に押し寄せ、教会がイスラム寺院になっている。それは日本の教会の10年後の姿ではないか。だから今こそ日本で福音の宣教が必要だと締めくくられる。

彼の話には、いくつもの論理的矛盾と飛躍がある。キリスト教が西に進んだという大前提からして、東方教会の存在を無視している。日本には社会的格差がないというのは、いったいいつの時代の話なのだろうか。一億総中流を実現したという高度経済成長期においてさえ、格差は存在してきたこと、格差は経済的なものだけでなく、性差にも基づくものであることを私は明らかにしてきた(『豊かさ幻想 戦後日本が目指したもの』KADOKAWA、2019)。

言うまでもなく、スマホでゲームばかりしているのは日本だけではないし、それは精神的な退廃とイコールではない。かつてのキリスト教国のキリスト教人口が激減していること、教会が別の用途に用いられていること、イスラーム教の寺院としても利用されることがあることは事実であろう。しかし、移民・難民がすぐにムスリムというのはどういう統計に依っているのだろうか。

しかも、移民・難民をイスラーム教と同一視し、それによる社会的不安を煽る方法は人種差別の問題を抱える。そしてそれが10年後の日本の姿というのはどういう意味なのだろうか。かように、突っ込みどころ満載だったのだ。