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lady_joker

マグリットを刻む

 才能のある画家だった彼は、絵が描けなくなったあと、絵を刻むようになった。


 マグリット、ピカソ、ダリ、マティス、エルンスト。彼がデザインナイフを使って刻むのは、キュビズムやシュールレアリスムの難解な絵ばかりだった。

 こんな駄作が評価されてるのが、許せないのだ。

 紙を切るのが単純に楽しいからだよ。

 俺は絵を刻むことで、俺という才能を刻んでいる。

 何故そんなことをするのか、問うと毎回違う理由が返ってくる。次はどんな理由を言うのかがだんだんと楽しみになり、私は彼の行為を見るたびに同じ問いを続けた。ナイフの切味を整えるために。こうしていると、今朝食べたパンケーキの味を思い出せるから。彼は次々に理由をひねり出していたが、やがてバリエーションが尽きたのか、最後は困ったようにへらへらと笑うだけになった。


 ある日彼の部屋に入ると、彼は刻んだ絵を組み合わせて、切り絵を作っていた。

 切り絵のパーツを作るために、俺は絵を刻んでいるんだ。

 それは久々に聞いた、新しい〈理由〉だった。彼の、理解を当たり前のように求めてくるへらへらとした笑顔が嫌いだったので、久々に理由を聞けて、私は嬉しかった。

 それよりも、切り絵だった。ひと目見て、私は瞠目した。

 それは、素晴らしい作品だった。

 光の帝国が、泣く女が、接吻が、死の島が、ときに元の絵が残るほど大胆に、ときにほとんど破片になるほどに細密に切り刻まれ、組み合わされ、新しい世界を構成している。過去に彼が描いていた絵とも違う、素材となった元の絵とも違う、彼と数多の画家の間に立ち上がった、美しい蜃気楼のようだった。

 これを発表するつもりはない。誰にもこのことは、言ってはいけない。

 口止めされるまでもなく、最初から口外するつもりはなかった。自分だけがこの絵を見られるというような、幼稚な独占欲ではない。画家だった彼にとって、こういうものを自分の作品として発表されるのがどれほどの屈辱か、私にはよく理解できたからだ。

 いまなら、描けそうな気がする。俺はまた、俺の絵を描こうと思う。

 デザインナイフを握っていた手で、絵筆を握ろうとしている。そのことが、何よりも嬉しかった。


 しばらくあと、彼の部屋を訪れたとき。

 彼はまた、切り絵を作っていた。目を合わせると、あの理解を求めるへらへらとした笑顔を、私に向けてきた。

 まあ、ほんのちょっとの気分転換してるだけさ。

 切り絵は、ますます凄みを増していた。もはや彼がかつて描いていた絵を、凌駕するほどだった。だがその質の高さすらも、彼にとっては恥だったのかもしれない。

 絵が描けないのなら、何か適当なものを描いてみて、それを刻んで作ってみてはどうか。

 提案しようとすると、彼は先回りするように口を開いた。自分の絵で切り絵を作るのは試したが、上手く行かなかった。たぶん、マグリットやピカソにはある何かが、俺にはないのだろう。でも、それが何かは、ずっと考えてるけれど――まだ、分からない。デザインナイフを見つめる彼の目には、諦念とも達観とも取れるような色があって、冗談のような笑顔の中、その目だけが真実だった。

 見てくれ。

 彼が見せてきた手の甲には、うっすらとした線が何本か引かれていた。自分を刻むと、気分が和らぐ。肉体の痛みを感じると、ほかの痛みを感じなくて済むんだ。こういうことだって、ときには必要だろう? 彼はそう言って、あの嫌な笑顔を見せてきた。

 終わった、と思った。彼がかつて持っていた、優れた感性はどこにもない。それは、凡百の自傷患者が口にする、どこにでもある定型句の中に取り込まれてしまった。もはや彼だけの理由を探すことすら、放棄しているようだった。

 いや、ひとつだけ彼が残っているとするのなら、切り絵の中にだった。優れた絵を刻み、新しいものを作る。その蜃気楼の中に、かろうじて彼が残っていた。

 でも、それを言うわけにはいかない。それはたぶん、最も言われたくない言葉だろうから。

 私を、切ってみる?

 代わりに私は、袖をまくり、細い手を彼に差し出した。何の意味があるかは分からない。私を刻むことで彼の中で何かが動き、この閉塞した状況を打破できるのなら、傷が残る程度は大したことはない。

 その意志は、彼にも伝わったと思う。彼はデザインナイフを構え、私の手首に向けた。

 だが、そこまでだった。

 震えた手でナイフを持っていた彼は、不意にそれを離した。何を馬鹿なことを言ってるんだ。そんなこと、できるわけないだろう。彼はまた、冗談のような顔で笑うのだった。


 それ以来、彼とは会っていない。

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