去年の2月くらい、僕がはじめてWake Up,Girls! Soloevent2017パンフレット楽曲を聴いた時ビックリしてひっくり返ってしまった。
「メンバーひとりひとりの作家性がここまではっきり発揮される声優アイドルユニットありえるか!???」
後述するが役者やアイドルっていう仕事に作家性は必須なものではないしむしろ役割を演じる際にそういう個人的な思いと製作陣の意図が衝突するかもしれず、プロデュース側からしたら邪魔になることだってある。そんな中ひとりひとりの作家性がここまで発揮されたアイドルグループなんてこれから先も現れないと思うし、多分そういう部分が僕の考えるWake Up, Girls!一番の特異性だったのではと、今更ながら思い至り書いてる次第である。
アニメWake Up, Girls!という物語の作家性と本質について
"アイドルとは物語である"というのはアニメWake Up, Girls!における大きな命題だが多くの場合アイドルの物語というものはプロデューサーをはじめとしたお偉い大人たちによって作為的に作られる物語であり、アニメの劇中I-1 clubのゼネラルマネージャーとして君臨した白木徹(秋元康がモデル)はそういう仕組みを具現化した人物である。例えばI-1clubの練習風景は絶対服従・完璧な統率といった軍隊の異様な光景だったが実際に現在のトップアイドルとなった乃木坂や欅坂のダンスや歌唱には神話的・軍隊的なモチーフが多く取り込まれ個人個人が集まったアイドルグループとしてではなく、群体としてのアイドルグループ体系をつくっているのだと思う。そしてそういう世界観を演出するには徹底的なプロデュースが必要であって「アイドルに人間性は必要ない」と切り捨てたのが白木徹で、「アイドルである前に人間です」と決別したのが島田真由というのがアニメWake Up, Girls!のあらすじである。
アイドルアニメは原作がゲームで主人公がアイドルをプロデュースする視点から物語られるものが大半だが、Wake Up, Girls!はアイドル自身から紡がれる物語だといえるし、この一点こそがアニメWake Up, Girls!の本質であり数あるアイドルアニメの中で最も優れた部分であると思う。
マネージャーの松田について考えよう。マネージャー松田は「7人のアイドル」ではそれなりに活躍するものの以降は(最低限の仕事をこなしている上で)一貫して無能として描かれていている。これについて僕はずっとアイドルがプロデュースされるアニメとしてはあまりにも不憫な扱いであるしアイマスのPのようにある種オタクが自身の姿を多少なりとも重ねる主人公格の扱いとしてはあまりにもセオリーから外れているしWUGのダメな部分だと憤慨していた。しかし「7人のアイドル」を集めることがWUGの物語構成上の彼の大仕事でありその後の物語は7人のアイドル自身の手で紡がれなければなかった。Wake Up, Girls!結成後は7人が社長や松田や、ライバルや、コンポーザーや、オタクなど、周りの人間次々に巻き込んでいくことで物語が進んでいく。特に物語の中核としてコンポーザーを巻き込んでいったのはWUGならではの手法だったと思う。7人のアイドルたちが自分たちで何がしたいのか何になりたいのかという動機や指向性(作家性)を大切にし、人々を巻き込んでいく、どこまでも泥臭く人間臭い群像劇。これこそがヤマカンが描きたかったアイドル像であるしWake Up, Girls!でしか描けなかった物語である。それを理解した時マネージャー松田の役割にようやく合点がついた。
自分がこういう"アイドルの作家性"というテーマにアホ程真剣なのは「アイカツスターズ !」というアイドルの作家性に迫り切った一番好きなアニメのフォロワーであるからだし、最近推している推しvtuberの言によるとナナシスもアイドルの人間性にどこまでも迫っていく物語ということを聞いたので目下履修をはじめている次第である。
アイドル自身の作家性や頑張りが周りの人間を巻き込み逆境から大きな物語を作っていく……なんて出来すぎた物語は現実ではありそうにないアニメならではの話だけども、我々は去年そういうムーブメントを起こした上で、SSAで華々しく解散していった7人の声優アイドルユニットを目撃している。
ヤマカンはこの先も絶対自分が去った後のWake Up, Girls!を絶対認めない、というか自分なしで自身のアイドル像の理想に辿り着いてしまったからこそ絶対に認められない。好きの反対は無関心だけど、いつまでも増悪出来るってのは相当の特大感情だから。
I-1clubや秋元康と坂道グループのやり方を否定する意はまったくないし、それらには与えられた物語の中から一人一人の競争があり個々の物語を紡いでいこうと必死にもがくアイドルのエモが詰まっています。
だだ、僕はやはりアイドル自身の人間性や作家性が周りの人間を動かすだけの物語を紡いでいく。そういう原動力に関する話を見たいと思っていたからWake Up, Girls!に惹かれたんだろうな。
WUGメンの作家性について
作家性という言葉の解釈は自分の中でもはっきりしておらず難しいが個人的見解を簡単に述べると、
自分がそれを発さなければならないという"動機"が込められているか。行動原理の創作化、いわゆる創作衝動。うん、分かりづらい!
自分にしか歌えない歌、自分だからこそ意味のある表現。そういう事を考えて世に生み出される創作物や演目には全て作家性が込められていると思います。
ここでは主にわぐらぶ2017楽曲に絡めて説明します。
- 吉岡茉祐の「てがみ」は亡くなった祖父に宛てた手紙がきっかけで作られた、"気持ちを素直に伝えられない、伝え方がわからない、恥ずかしい、今更言う必要ない…"大切な誰かに宛てた手紙に関する楽曲になっています。気持ちを伝えたかった大切な存在と伝えられなかった後悔があったからこそ生みだされた楽曲であり、こういう動機こそ作家性といえる。メンバーの中で執筆活動も盛んに行っていたまゆしぃは今でも舞台脚本を書いたり、これからもその作家性を誰よりも発揮していくのでしょう。
- 山下七海や青山吉能は自分の自身のことを実直に愚直に表現するタイプだ。前者実直な山下七海は自他共に認めざるを得ない生粋のアイドル性を備えた人物であり、自分の魅力が一番発揮されるのは自分が自然体でいられる場面。自分が生まれ育った徳島や大好きなうさぎのぬいぐるみなど自身のルーツについて素直なまま歌うことができる。後者愚直な青山吉能は自分の好きなものについて素直なままに歌える山下七海とは違い、自分の嫌いなものや弱みも赤裸々に歌う、痛みを伴う表現を選んだ。
- 高木美佑はWUG解散後はDJとして活躍の場を広げ、そういうサブカルチャーの伝道師としての輝きを増している。DJイベントだけでなく、長野の飯田丘のイベントやバスケイベント等々、解散後一番個人の活動を広げているのが彼女だと思う。自分が好きなカルチャーの伝道師となる上で笑顔を増やし、憧れの桃井はるこ氏の様な存在に近づいていくのだろう。
- 大学で哲学を専攻していた永野愛理はメンバーの誰よりも解散に対して達観していたように思えた。彼女がWUG結成5周年に掲げた自分のスローガン、 “Like a SAKURA.” 。いずれ散りゆくものだと知っているからこそ全力で咲き誇る刹那の魅力。そんな情緒を歌った「桜色クレッシェンド」は解散が迫るにつれて刺さりまくった。
- 奥野香耶について語るのは一番難しいのだけど、ソロイベ2018やソロイベ曲を聴いていると分かるように、役者(アイドル)としての自分とありのままの自分自身との狭間で揺れる葛藤。人々が愛してくれるのはありのままの自分なのか、自身のアイドル性の部分だけなのか。芸能人とファンのある種虚構のような関係性について考えることが彼女のテーマであるように思えるし、これについては長くなるのでここでは説明出来ません。ただ一つ言っておきたいのは奥野香耶を偶像的に愛しているファンがいるとしたら痛い目を合うだろう。
ちなみに長年入手困難だったこれまでのソロ曲ですが、1月15日より「Wake Up, Girls!Solo Collection -7 Stars」として配信決定しています。みんな大好き田中秀和や広川恵一も参加しているので是非聴いてみてください。-
さて、ここまで溜めに溜めましたがここからようやく本題である田中美海の作家性についてです。
田中美海の作家性それは……
おそらくないのでしょう。
自撮りが苦手な田中美海の感性
田中美海はメンバーの中で唯一作家性を持っていなかった。少なくとも私は彼女のこれまでの活動の中からそういったものを見受けることが出来ませんでした。
はじめの方にも書いたがそもそもプロデュースされること・演じることが求められるアイドルや俳優にとって作家性というものは必要必須なものではないし、逆に他メンバーが異常だったということは強調しておきたい。
自分はfinal tour part3からのWUG現場参加者なので憶測やデータでしか語れないが、前述の通りソロイベ楽曲の制作以外にも個々の作家性が活かさされていた場面はとても多く、ソロイベ2018の奥野香耶(疑似恋愛シミュレーションを楽しんだ後のバッドエンド)が一番顕著だが、他にもfinal tourでの各担当回で地元である事を強調し演出に加えた青山、奥野、山下。自分が得意な事・好きな事を活かした高木、永野。それぞれの土地でその人だからこそ出来る特別演目を練り表現してきたというのはアイドルグループの1メンバーが担った仕事としてあまりにもレベルが高く、そういうものこそ作家性や個性が込められていたと思います。
そんなとんでもないメンバーに囲まれながらも田中美海が一貫していたのは、"自分がしたい表現"ではなく、より多くの皆から喜ばれる表現。"みんなのための自分"、"みんなが楽しめること"を念頭に彼女の企画のほとんどはカラオケ大会であったように思います。個人制作曲って"自分が抱えるテーマの結晶"みたいなところがあり、カラオケに代表される好きな曲のカバーとは根本的に質が異なります。
美海のソロイベ2017楽曲「狐草子」はアニメの挿入歌のような、ある種完成された好きなモチーフの世界観の表現にとどまっているし、ソロイベ2018楽曲「Trouble⁉ Travel」は曲調も片山みなみのキャラソンの延長線上にあるような、"みんなが明るく前を向いていける"ような楽しいイメージの曲であり、それは"みんなにとっての楽しさ"を優先する美海らしい曲なんだけども普遍的なテーマでもあり、美海だけにしか歌えない歌ではないと思うんです。(そういえばi☆Risさんが『Beyond the Bottom』をカバーしたいと言ってくれたけどこの曲だけはWake Up, Girls!として他の誰かに譲れなかった、というエモエピソードがありましたね)
その人にしか歌えない歌やその人の表現だからこそ意味があるもの。作家性ってそういうものだ。
ところで話が飛びますが田中美海は自撮りが嫌いじゃないですか。昨秋まで美海が水曜日を担当していたA&G NEXT BREAKS FIVE STARSという番組の中で各曜日それぞれ自撮りを撮って一番良い出来を決めようみたいな企画があったとき、美海は自撮りが嫌過ぎて泣き出してしまう事件がありました。
アイドルや(美人)女性声優は呼吸をする様に自撮りを上げますがあれって自身の商品的価値を発信する立派な自己表現ですし、悪い例えだと自分語りが好きなしょーもなオタクが垂れ流すしょうもない自分語りも自己表現です。
美海は誰よりも空気の読める人物なので呼吸をする様に場を盛り上げたり、先輩に忖度してゲームで勝たせてあげたり、周りがヤベェ奴だとすっと引き下がったりと、あまりにも何でもこなしてみせるため軽率にイベントに招集され休みがありません。(2020年始、とうとうイベントの代役を立てるほど体調を大きく崩してしまいました。周りの大人もうちょっと考えてあげてください)
その一方好きなコンテンツに関しては限界オタク特有の低下した語彙力と早口で(青タイツのランサーに殺されてぇ…etc)捲し立てたり、自身の番組等でちょっといい話来ると軽率に泣いてしまったりと感情豊かだし、友人との写真や動画には自分から入ってきて面白いことするようなタイプ。なのですが、自撮りが嫌いなんです。
自撮りが嫌いというより自己表現が苦手あるいは好きではない。好きなコンテンツの話は無限に出来るけど自身の内面の話を自分から語らないタイプ。WUGメンの中でも声優としてのプロフェッショナルさはずば抜け出ていて、それは歌や演技の表現力だけでなくバラエティ番組でのメリハリ(女性声優番組特有のかわいいシチュエーション台詞をそつなくこなした後畜生めいたガッツポーズを決める)や、音を絶対に外さない絶対的に安定感のあるライブでのパフォーマンスなどはワグナーの中でも絶対的な信頼がありました。
冒頭でアイドルとプロデュースの話をしましたが、美海はバラエティやレコーディングの場面等々で製作陣の意図を誰よりも正確に汲み取り求められた仕事を遂行するプロフェッショナルです。プロデュースされコンセプトのはっきりした写真集や映像企画は確実にこなす。美海の番組は料理を作ったりパジャマパーティーだったりコンセプティブなものが多いのもその表れな気がします。そしてその反面自撮りの様に自分自身をセルフプロデュースする表現は苦手、田中美海の感性はそういうところにあります。
さて真面目な評論に。素人目ながら、演技でも歌でも喜怒哀楽がはっきりしているものに対するディレクションって難易度としては比較的易しいのかなと想像がつきますが、人間の感情には喜怒哀楽が複雑に絡み合ったものや感情がまったく読めない表現しなくちゃいけない場面もあってそういうものってめちくちゃ難しいじゃないですか。またキャラ付けがはっきりしているものと違いこれといった特徴のない凡人を魅力的に表現するなんてのもありえん難しいことなのです。同世代の黒沢ともよもそういう表現力が凄いですよね。
美海の場合芝居だけでなく歌の表現力が本当に特別だと思います。ゾンビランドサガの『To My Dearest』やCaligula-カリギュラ-の『ローレライ』とか、単純な喜怒哀楽に留まらない複雑なキャラクターの感情の歌唱表現としては群を抜いていると思います。その上でテンプレアイドル3人を演じ分けて歌うプリパラの『かりすま~とGIRL☆Yeah!』なんか当たり前の様に歌い分けていて、表現者としてちょっと意味わかんないレベルにいると思います(語彙)。
自分はWUGだと『言葉の結晶』が一番凄いと思っていますが、その中でも最後の一節前
"一粒 星が残った"
の、美海の、まったく感情想像出来ない冷たい歌い方が特に印象に残っていて、彼女にしか到達できない表現だと思っています。
田中美海の感性を爆発させたWake Up, Girls!
ここまで田中美海の表現力をひたすら褒めてきましたが彼女にも唯一出来ない表現があって、それはライブの空気感の中から生まれるその場ならではの表現。ディレクションでは示されないライブならではの感情の爆発。吉岡茉祐や青山吉能が客のボルテージに応じてライブ向けに歌い方を崩していくようなそんな感覚。
CD音源通りに歌うことやステージ上で絶対に失敗しないこと、それらはプロとして絶対的に正しいことだし100点満点の表現と言える。
でもステージの上で、プロが目指すべき100点満点から逸脱して、自由により熱くよりはちゃめちゃに振り切れていき自分だけの表現を確立させていく他のWUGメンの姿を見続けた美海が仙台公演のMCにて、
その場の感情や衝動をそのまま歌として表現することがどうしても出来なかった私だけど、ツアーファイナルの仙台公演では挑戦しようと思います。
みたいな意味の言葉を吐き出したという話を(仙台不参加だったので)在宅ながら聞いて泣いてしまった。自分の感性を吐き出すことだけが苦手だった美海の率直な気持ちを掬い取ることが出来たのが、Wake Up, Girls!のメンバーとワグナーと仙台という地だったというエピソードの意味に泣いてしまったし、Wake Up, Girls!ファイナルツアーで育まれた色んなエモの中でも特別なエピソードのひとつだと思う。
作家性のなかった田中美海はあまり自分語りをしないし自撮りは苦手でこれからも自分のTwitterアイコンを自分が正面に写っているのものにすることはないのだと思うけど、最近始まったノンスポンサーの番組「田中美海のかもん!みなはうす」では今までにないくらい自身の事を話したり、3次元アイドル(嵐の大野くん)の話をしたりとちょっと風向きが変わってきた感じがある。
美海自身も2019年はWUGが終わった後自分だけで頑張っていく年だった。そして2020年は私だから出来る事に挑戦したい年みたいな事を言っていた様に思う。
田中美海を知る上で面白いエピソードが先日の第二回放送内でありました。
アイドルや女性声優にありがちな生誕イベントについて、イメージでは主役が持て囃されるためのイベントだと思っていた。しかしそういうイベントにゲストで出演してみたところ、ファンは推しの色んな側面を近くで見れて幸せだし演者も沢山の人から祝われて楽しそうでとても幸せなイベントだった。こういうのなら私もやってみたい、と心境の変化があったようです。
まあ彼女の誕生日は1.22でこれから準備しても間に合わないのは明白なので生誕祭は無理みたいですがその日は「みなはうす」のOA日なので生放送して実況で盛り上がるとか(※深夜帯の番組)挑戦したい。そんな自分にしか出来ない表現に挑戦したいという活力に満ちていたし、2020年はまた新たな田中美海がみられるのではという楽しみを胸に、"止まってなんかいられない"、そんな心待ちです。
最後になりますがみなちゃん、お身体には気をつけて無理をせず2020年をやっていってください。