私が何度か指摘している、「フィクションを通じて提示された価値判断が、現実の物事への価値判断に影響を与えてしまう」例だと思います。現実の犯罪に対し、嫌悪ではなく快楽をまず想起している。 「フィクションと現実の区別はついている」という自己認識こそ、実は危ういものです。https://twitter.com/kphiromu/status/1214503890613395457…
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フィクションをダシに、事件を「ネタ」にして楽しんでいる人が、実際に犯罪を模倣するわけではないでしょう。しかし、そうした言説が公然と流されることは、それを受けた人の犯罪への認識を甘くし、誰かの背中を押すことにもなりえますし、被害者に近い人(≒女性)にはそれだけで恐怖となります。
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いかににインモラル、差別・偏見を含むものであろうとも、(故意に人を傷つけるためのものを除き)表現を封じるべきではありません。しかしそれが現実にたいする価値判断に影響を及ぼしうるものであるという認識のもと、ネタとしての現実への持ち込みは、現実の倫理や人権を以て律されるべきです。
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本来は、フィクションを愛好している受け手が、自分の認識のなかにある危うさを自覚し、自らの認識、言動や態度を自省・自律できればそれに越したことはないのですが。
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Replying to @muka_jcptakada
自覚、自省、自律している若しくはしようと努力している人に対しては、たとえ自分が「その作品自体」を嫌悪していても、敬意を払うべきですよね。 そして、その線引きは非常に難しいと思うのですよ。よほど精神的な鍛練をしていないと、(私を含め)人は「それはそれ、これはこれ」が出来ません。
3:05 PM - 8 Jan 2020
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