「ガンダマ」を擁護すると、例えばガンダムシリーズにもプリキュア同様多くの人生哲学が詰め込まれている。戦争をする両者にそれぞれの事情があり、また個々が様々な背景を抱えながら戦う、そしてそんな辛い状況の中でも希望を捨てないといった表現には大人としても共感する部分が多い。
仮面ライダーシリーズにも同様に様々な哲学が詰め込まれているが、下の子に「怖いガンダマ」と一括されて改めて考えてみると、これらの作品には「人の汚い部分が生み出す格差や不条理が社会に広く存在するのは当り前」というネガティブな前提がある。
確かにそれも現実のひとつのあり様であり、それを嘆くという一種の「美学」が「ガンダマ」の魅力の一部になっていると考えているが、裏を返せばそれは、不平等や競争を前提とした、男性性の強い従来の価値観が生み出す世界を生き抜くための「美学」とも言える。
一方でプリキュアの世界では、自立した異なる個々が手を取り合う社会が前提となっており、この誰も傷つけないポジティブな表現に、幼稚園生から大人まで皆が安心感を覚えるのではないだろうか。
プリキュアは「世界基準」のアニメ
実際、いま世界でヒットしている作品の多くは、ダイバーシティを考慮した世界観を前提としている。例えば昨年からヒットしている『アナと雪の女王2』では、メインキャラクターである姉妹2人の自立性と共に多様なキャラクターの関係性が対等に描かれている。
そして、私が現在家族と住む欧州にいると、アニメというフィクションの世界だけでなく、現実においてもその方向に世界はシフトしていることを感じる機会が多い。例えば、頂いた子供へのプレゼントが中性的な緑色だったり、ジェンダー意識が偏らないための配慮を感じる場面に多く遭遇する。「男の子だから」「女の子だから」という理由で色や服装など個人の好みが決められることを避ける意識はもはや当り前である。
この状況に比べると、日本はまだ遅れていると感じてしまう。日本の知人との間で子育ての話をしても、「男の子だから」「女の子だから」というフレーズは未だに頻繁に出てくる。
男の子だから、女の子だから、○○だから、と様々な背景を抱えた個々の人格を一面のみで決めつけることは物事をシンプルにできて楽かもしれないが、決めつけられた側の可能性を奪い、生きる上での苦悩をもたらす危険がある。誰だって、自分が信じる可能性を自由に求めていいはずである。
戦うプリキュアが示すメッセージは、全ての人がその存在ありのままを尊重される、そんな自由な社会への入り口だ。そしてそんな社会こそが、アニメの中の理想論でなく、海外のマネゴトなんかでもなく、閉塞感の強い今の日本が目指すべき現実的な方向性なのではないだろうか。