「深くおわびします」。四十五人を殺傷した植松聖被告は初公判で謝罪した。だが、「障害者は安楽死させるべきだ」とメディアに口にしていた。この落差は何なのか。裁判で心の闇を解きたい。
事件前の二〇一六年二月、衆院議長に施設襲撃を予告する手紙を出した。関係者にはあまりにも意外だった。植松被告は「津久井やまゆり園」に勤務しており、「明るくて意欲的」「きちんとあいさつできる青年」と見られていたからだ。
ところが、面談してみると、障害者を差別する発言を繰り返す。「別人ではないか」と疑ったほどだ。そして、施設を自主退職した。大麻精神病と診断され、措置入院。その後、今回の事件に至った。三年半たってもメディアの取材に「重度障害者は不幸しかつくらない」「その抹殺こそが人類のためになる」などと語った。「安楽死を制度化すべきだ」とも-。
植松被告は起訴内容は認めており、弁護側は「被告は精神障害の影響で心神喪失か心神耗弱だった」と述べ、責任能力について争われるもようだ。だが、問題は有罪・無罪にとどまらない。
植松被告が語る特異な思想が投げかける影響を思わずにはいられないからだ。一口でいえば差別そのものの優生思想である。社会の深層に潜んでいないとは言わせない。旧優生保護法では重度の精神障害や身体障害を理由に不妊手術が合法だった。禁止となったのは一九九六年のことである。
いまだ社会の中に偏見や差別は残っていよう。今回の裁判で、起訴状の中で入所者は「甲A」「乙B」などと匿名で読み上げられた。遺族や家族もついたてで遮られた。他の傍聴人から見えないようにされたのも、そのような風潮への配慮からではないのか。
植松被告がメディアに発信した言葉は「意思疎通のとれない障害者は生きる価値がない」などと、ある意味で、自らの行為の正当化そのものである。
起訴前の精神鑑定で、自分を特別な存在と過度に思い込む「自己愛性パーソナリティー障害」だったとされた。
今の時代、身勝手な論理で不遇の人に「生きる価値がない」と烙印(らくいん)を押しがちだ。障害者も、ホームレスも、生活保護の人なども…。決して植松被告も強者でないのに、弱者の排除に回るのはなぜなのか。誰もがそれを自問自答しつつ、現代の病理の本質に迫らねばならない。
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