【ブルマ】アドバイス罪、忠告罪、助言罪、罪人が増える増える?
(* ̄∇ ̄)ノ 奇才ノマが極論を述べる。
アドバイス罪という単語を耳にし、なるほど、ときに助言も罪悪となるときはあるか、と、うむうむ、と納得。
助言は危険な賢者の贈り物、でもあり、相手によってはしない方が良かったりとか、してしまったがために相手を怒らせたりなど、あったりする。
雄弁は銀、沈黙は金。
いろいろと言ってみたものの、意図が上手く伝わらず、間違った解釈をされてしまうこともある。違うそうでは無いのだ、と言い直しをする前に、その助言を受けた者が、
「そうか! そうだったのか! ユリイカー!」
と、叫び暴走してしまうこともある。
言葉足らずだったか? 例えが解りにくかったか? と、後になって頭を悩ませることもしばしば。
自分は人の相談を聞くのに、助言したりするのに向いてない、と思うのだが、たまに私に訊ねてくる人がいたりする。
真面目にその人の為になるアドバイスをしようとすれば、その人の触れられて痛い部分を突っつかねばならないこともあり、なんとも、そこが悩ましいところだ。
だが、嫌われること、怒らせること、これを恐れてその場を濁して誤魔化すような助言こそ、後の害であり、その人の為にならない、役に立たないアドバイス、なのではないか?
例え、ときに相手を不愉快にさせようとも、恨まれることになろうとも、言わねばならないことも、あるのでは無いだろうか?
真にその人の為になることであるならば。その為に絶交することになったとしても。言わねばならないことがあるのならば。
アドバイスとは、そんな危険な贈り物なのだ。贈る側にも、贈られる側にも、心構えと覚悟が必要なのだ。
それが無ければ不幸な事故が起きる。
私はここに、恥を忍んでひとつの過去を打ち明けよう。
あれは、私が小学生の頃のことだ。
小学生男子の私は体操着に着替え、体育館に向かっていた。少し遅れてしまい、次の体育の授業に遅れそうだった。
目の前に同じクラスの女子が一人、同じように体育館に向かっていた。校舎の中、回りには誰も居らず、その廊下には私とその女の子しかいなかった。
その女子も次の授業に遅れまいと慌てていたようだ。
ちなみに、当時のこの小学校の女子の体操着はブルマである。
その女の子は慌てて体操着に着替えたのだろうか、後ろから見る私の視界に、写ってしまったものがある。
その女の子のブルマから、パンツがはみ出ていたのだ。後ろのお尻の方、下の方であり、黒いブルマからちょこっと出た、白いパンツが見えていた。本人はこれに気がつかなかったようだ。
これを男である自分が注意するのは、どうしたものか? 同じクラスであっても、たいして親しくも無い同級生男子が、女子に、『そこのお嬢さん、ブルマからパンツがはみ出ているよ、フッ』と、助言するのは、いかがなものか?
私は一瞬、悩んだものの、今、廊下でこれに気がついたのは自分しかいない。
この女子が、ブルマからパンツがはみ出ていることを、このまま気がつかないまま体育館に行けば、この女の子は恥ずかしい思いをすることだろう。
私が一言、告げるだけでその女の子が、恥ずかしい思いをすることは避けられる。
私は意を決して、その女子に告げた。
「ちょっと、ブルマからパンツがはみ出ているよ」
と――、
あのとき、私は若かった。小学生であれば当然か。しかし、子供の頃というのは女子の方が男子よりも、早熟なものである。
あのとき、あの女子が振り向いて私を見る目は、まるで、毛虫か芋虫でも見るような、気持ち悪いものを見るような、そんな目をしていた。
その女子は慌ててパンツをブルマの中にしまい、私から逃げるように体育館へと走っていった。
後日、私の発言がその女子から同級生へと広まったのだろう。クラスの女子全員が、私を毛虫か芋虫でも見るような目で見るようになった。視線の温度が女子一人から女子全員へと感染した。
私はクラスの女子全員から嫌われることになってしまったのだ。いったい影でなんと噂されることになったのだろうか?
だが、私の忠告によりその女子は、恥をかく事態から回避できたことは間違い無く、結果として私は汚物のように嫌われようとも、自分は正しいことを成したのだ、と、己に言い聞かせた。
私は少女を恥から守り、そして己の誇りを守った。
そして私は、ブルマがちょっぴり嫌いになった。
かようにアドバイスとは、ときに己が悲惨な目に会おうとも、屈辱の涙に沈むことになろうとも、その人の為になることを、言わねばならないのでは無いだろうか?
また、もうひとつ、アドバイスに纏わる体験を語ろう。
これは私が中学生の頃の話だ。
私が廊下を歩いていると、隣のクラスの男子が一人、私に殴りかかってきた。
殴られて掴まれ廊下に倒されて、腹を蹴られた。
その男子中学生は私を見下ろしこう言った。
「お前、なんで日曜の集会に来なかった?」
と――、
当時、私の家族はとある宗教に嵌まっていた。両親は熱心に宗教活動をしていたが、私はそれを胡散臭いカルトと感じ、宗教活動はサボっていた。
私を殴った男子中学生は、実に熱心なカルトの信者であった。その為に、宗教的情熱でもって私にアドバイスを、肉体的な指導を、よく学校内で行ってきた。
同級生達はカルトに関わりたく無い為に、知らんぷりをする。教師が止めようとすると、その男子中学生は、
「これは正しい指導です。先生は信仰の自由を邪魔するんですか? 信教の自由は憲法に保証された権利なんですよ」
と言う。こうなると教師は弱い。何より子供の喧嘩でもイジメでも無く、いち宗教団体の内部での指導に、関わりたいという教師もいないだろう。
私は私で、ますますそのカルトが気持ち悪くなり、そのカルトの集会も勉強会もサボるようになった。そして学校ではそいつから暴力を受け続けることになった。
その男子中学生の母親が学校に呼ばれたこともある。しかし、親子揃って『理由も無く集会を休む不信心者は殴ってもいい』という考え方の人物だった。学校で暴力を振るうのは止めて欲しい、という教師とは、議論は平行線に終わった。また、信教の自由を侵害する教師の在り方が問題だとも、言い出した。
まぁ、日本では宗教団体が独自の教義からこうして体罰を繰り返すのは、よくあることなのだろう。
その後、社会に出たときも、様々なアドバイスを受けたものである。
ガソリンスタンドでアルバイトをしたときは、そこで働く人達は全員同じ宗教団体に入信していて、そこで長期で勤めるには入信しなければならない。と、店長に素晴らしい宗教について、休憩時間に薦められたり。
書店で働いたときは、そこの店長が私の家族と同じ宗教団体に入信しており、休憩時間には教祖様の有り難いお言葉について語ってきたり。
就職するために宗教団体に入信した、という人と話をしたり。仕事を続けるための入信で、信仰してるフリをしているのだ、という人もいた。
こういうことは日本では、ありふれた話なのだろうが。
自分にとって正しいと信念することを、他者に語ることがアドバイスでもある。
そこには、小さな親切、余計なお世話、というのも、もちろんある。
そのアドバイスを在りと判断するか、無しと判断するか。アドバイスをする方もされる方も、それを是とするか、非とするか。
それは、その人の美学に依るところが大きいのでは無いだろうか?
私の知る人に、人が食べている料理に、調味料ならなんでも入れようとする人がいる。
この人物は、いろんな味が混ざると美味しい、と思い込んでいるし、そう信じている。そして、人が食べているものを、より美味しくしてあげようと、親切心でタバスコ、醤油、ソース、胡椒、マヨネーズ、とぶちこんで来るのだ。
味覚のおかしい親切心、これがアドバイス罪の本質ではないだろうか?
たとえ親切心からの行いでも、不味いものは不味いと、しっかり言える度胸と、旨いものと不味いものを判別する自分の舌を、感性を信じることが大事なのでないだろうか。
お前の美味しいは、私には不味い、と。
特に宗教やカルトなどに嵌まる人物は、自己と他者の違いが解らない人が多い。
自分が美味しい、と思うものは他人も美味しいと思う筈であり。
教祖が素晴らしいと言うものは、すべての人が素晴らしい、と思う筈である。彼等はそんな世界で生きている。
実際のところどうかしてる、と思うのだが。
しかし、日本ではカルトが後ろ楯についた政党がある。
私の親戚など、そのカルトが支援について、過去に県会議員になったりしている。
以前、そのカルトの熱心な信者に話を聞いたのだが。
『日本人がみんなこの宗教に入信して、〇〇党が与党になれば、日本は平和で豊かになる。日本人みんなが教祖様の言う通りにすれば、景気も回復して、少子化も年金の問題も解決する』
真の宗教者たるブッダとキリストに謝罪しろ。現世利益を求めるだけの我利我利亡者が。
信仰は個人の自由なのかも知れないが、こんなカルトが支援する政党が、国会でそれなりに発言権があるというのは、日本はどうかしてるのではないか?
『教祖様の教えの通りにすることで、私は産まれて初めて、自分の頭でものを考えられるようになったのです』
こういう人でも選挙の一票があるのは、平等でいいことかもしれないが。やはりカルトの組織票というのは強い。
そしてイカれた宗教団体が、奇妙な権力を持っている日本という国は、どこか不気味に感じられる。これは私の周囲にカルトの信者が多いから、余計にそう感じるのかもしれないが。
私の視点から見える物を、私の言葉で語ろう。
このアドバイスは聞く人によっては、耳障りかもしれない、不愉快かもしれない。
だが、この奇妙な国に住む皆さんに言っておきたいことがある。
憲法に信教の自由と政教分離原則を掲げる、
この国に住む皆さんへ――
( ・`д・´)キリッ
ブルマからパンツがはみ出ていますよ――