ごんべいの公開コメント一覧

  • 2020年01月08日 14:40

    > そのへんがごちゃごちゃになり、最後は無理矢理に直感的な結論に持って行く、いつものパターン。 内田先生は次のように述べておられます。 『たしかに論文を書くときには、いくつかの実証された事実を前にして、それらをすべて説明できる仮説を立てる、という順序で進むんですけれど、実際に脳内に起きているのは「結論が先」なんです。いきなりアイディアが浮かぶ。どうしてその結論に自分は立ち至ったのか、何を見て、私はそう思ったのか、・・・というふうに時間を遡って、自分が着目した断片的事実を列挙してゆく。』 「ある仮説を思いつく。実験でそれを検証する。反証事例が見つかる。仮説を書き換える・・・この無限のサイクルが自然科学的に思考するということです。」 ここで、「断片的事実」というのは、論理学では事実ですけれど「仮定」といいます、そして「検証」は証明です。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月08日 14:27

    > 内田センセーも論理性に「跳ぶ」ことを求めるというわけですね。なるほど。 内田先生は次のように言われています。 「名探偵はなぜか最初に「犯人はあいつだ」ということがわかってしまうんです。わかった後に「どうして私はあいつが犯人だとわかったのか」という問いを遡行していって、自分が直感した根拠となった「断片」を列挙してゆくのです。」 「たしかに論文を書くときには、いくつかの実証された事実を前にして、それらをすべて説明できる仮説を立てる、という順序で進むんですけれど、実際に脳内に起きているのは「結論が先」なんです。いきなりアイディアが浮かぶ。どうしてその結論に自分は立ち至ったのか、何を見て、私はそう思ったのか、・・・というふうに時間を遡って、自分が着目した断片的事実を列挙してゆく。」 直感により仮説を得た後は、その仮説が正しいことを示す根拠を列強するということです。ここで根拠というのは論理的な証明では、事実ですが「仮定」といいます。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月08日 14:10

    > 「自分の主張には飛躍があるかもしれないけど、直感に従って世界を把握した確信が得られた内容なのだから、やはり論理的なんだ」というのが筆者の言いたいことですよ。 これは間違いです。内田先生は次のようにいわれています。 「論理的に思考する」というのは、僕の理解では、断片的な情報を総合して、一つの仮説を立て、それを検証し、反証事例に出会ったら、それを説明できるより包括的な仮説に書き換える・・・という開放的なプロセスのことだと僕は思います。」 直感に従って得られた内容は検証し、反証事例に出会ったら、その仮説を書き換える必要があるといわれています。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月08日 13:57

    > 仮説は仮説であり、その発想自体は論理的でも何でもありません。 仮説とは証明されていないけれど、正しいとおもわれる命題です。命題とは論理的に意味のあるステートメント(文)です > 内田氏はそれを「自然科学というのは、まさにそういうものです。ある仮説を思いつく。実験でそれを検証する。反証事例が見つかる。仮説を書き換える・・・この無限のサイクルが自然科学的に思考するということです。」と書いていますね。内田氏はそのプロセスを思考と書いています。論理ではありません。 「論理的思考のプロセス」と呼んだらどうでしょうか? > 論理的飛躍が存在する定理とは本当に定理なのでしょうか? 論理を使って証明されて初めて、定理になります。それまでは、仮説です。 > 社会常識も論理的とは限りません。そりゃそうですよね。人間社会全体が論理的に構築されているわけじゃない。なので、論理的思考、論理的に正しい日本語というのは意味があるんです。それを直感や心を重視して論理を軽視するというのが内田氏の主張で、全く論理的じゃないというだけの話です。 1と3に使われる論理は重要です。内田先生の主張は、論理だけでなく、直感による2も極めて重要だということです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月08日 13:07

    > あんたのような難解に書くことで悦に入った文は対象外だろうね。 内田先生の記事は難解ではありません。むしろ、幾つかの例を示して、平易な文章で書かれています。 内田氏の記事が理解しがたいのは、多分、「跳躍」を経験されていないからだととおもいます。困難な問題に直面したときの跳躍の試みは、多くの場合失敗します。しかし、跳躍に成功すれば、跳躍の重要性は骨身に染みます。 今から、45年ほど前のことですが、私は、新規のソフトウエアの開発をまかされました。そこで、一年ほど悪戦苦闘しましたが、うまくいきませんでした。しかし、そうしているうちに、どのように「跳躍」するかというアイデアを思いつきました。その後は、プロジェクトは、技術的には順調に進みました。 当時、特殊情報技術者という国家試験がありました。この試験は論文だけの試験でしたので、私は、新規のソフトウエアの開発においては、跳躍の基本となる基本設仕様書がいかに大切かということだけを書きました。それで、試験に合格しました。私の論文を採点した人は、跳躍の重要性だけを強調した私の論文を理解してくれたのです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月08日 12:27

    > でも、都合の悪い直感は排除するんでしょw > いやいや、都合の悪いエビデンスは事前に排除するから、都合の悪い直感は発生しません。(?) 何について、何をいっているかよくわかりません。 小学1年生向けの論理国語の教科書を読んでください。 小1レベル はじめに 論理とはなにか ステップ1  具体と抽象 ステップ2 対立関係 ステップ3 形容詞 ステップ4 5W1H ステップ5 文の要点 ステップ6 文の構造を理解する ステップ7 作文の基本 ステップ8 接続語記号問題 ステップ9 心情読解 ステップ10 クリティカル・シンキングの基礎

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月08日 07:34

    > 論理って積み重ねるものだし、つながりがあるべきで、それを跳躍したものに対して用いるのは論理的でない。 内田先生は、「論理的思考」という言葉を次ぎの意味で使っておられます 「論理的に思考する」というのは、僕の理解では、断片的な情報を総合して、一つの仮説を立て、それを検証し、反証事例に出会ったら、それを説明できるより包括的な仮説に書き換える・・・という開放的なプロセスのことだと僕は思います。 これは、結果的には次のようなプロセスとなります。 1.既存の仮説の反証の発見。これは論理によります。 2.新しい仮説の発見。これは直感によります。 3.新しい仮説の論理による検証。これは論理によります。 4.1に戻る。 そして、内田先生は、このプロセスにおいて、一番大切なのは、2の直感による新しい仮説の発見であることを、多くの事例を提示して強調されています。 論理的思考方法において直感が大切だというのは、すこし変ですが、上記のプロセス全体をどう呼んだらよいのでしょうか?

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月08日 02:54

    > 自分でアクロバティックって書いておいて、それを論理性に結び付けるところがアクロバティックだわ。 ゲーデルの不完全性定理というものがあります。 第一不完全性定理とは、ある条件を満たす自然数論は、 どんなに工夫してもその中に証明も反証もできない論理式が存在するというものです。 ある条件とは形式論理ですが、 「コンピュータで扱えて矛盾がない」と思えば大体合ってます。 この定理自体がアクロバティックですが、この定理の証明はさらにアクロバティックです。 このようなアクロバティックな定理が実用上重要な意味を持っています。それは、プログラムにバグが無いことを示す汎用プログラムは制作不可能ということです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月08日 02:23

    > 我が国にも明治における福沢諭吉を代表とするような、すぐれたコモンセンスを持つと同時に、(海外から怒涛のように押し寄せてきた専門分野の学問のなかで)真にすぐれた専門知識や実用知識を選別する鑑識眼も持っていた。 神様のお札で尻を拭いた福沢諭吉 http://hgonzaemon.g1.xrea.com/intro_yukiti_intro.html 福沢少年は藩の殿様の名前を書いた紙切れを踏んだことを兄に咎められて、殿様の頭を踏んだのならまだしも紙に書いたものを踏んで何が悪いのかと疑問を持つた。それで神様の名を書いたお札を人のゐないところで踏んでみた。ところが何ともないので、厠(かはや)に持ち込んだといふのだ。なんと型破りな人間だらう。この話は既存の価値を全て疑つてかかる彼の姿勢を象徴的に表してゐる。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月08日 01:31

    > アセンブラの構造はハード的といっているのに「高級言語では~」 > ハナシをすりかえ。。 現在は複雑なプログラムがアセンブリー言語で書かれることとは、まずありません。高級言語を使用する利点は次のようです。 1.使用される計算機の構造を知らなくても良い。 2.LD R1 X; ADD R1 Y; ST R1 Y を Z = X + Y のようにに書けますから、プログラミングおよびプログラムの保守が容易にになります。 3.高級言語で書かれたプログラムは、それぞれの計算機用のコンパイラで、それぞれの計算機用の機械語に変換されます。そこで、同一のプログラムが構造の異なる計算機で使用できます。 現在アセンブリー言語が使われるのは、I/O 機器などと直接データのやり取りをするドライバーとよばれる OS の最下位のソフトウエア、そしてマイクロプロセッサ―を使った簡単な制御装置ぐらいです。 

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 18:10

    > 小中高生の教育課程の話じゃないの? 人間は幼い時には、直感力を司る右脳が論理的思考を司る左脳より発達しているそうです。それなのに、今の学校教育では、右脳の機能をつぶしているというのが内田氏の主張です。 日経は、忖度力に優れた優秀な人たちばかり生みだして、日本経済はどうなるか、といった記事を頻繁に掲載しています。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 17:54

    > 新しいアイデアが論理を突き詰めて浮かぶよりも直感的に浮かぶことが多いのは研究者ならずとも常識である。論理は、そのアイデアを客観的に正当化するために使用される。 そのとおりです。内田氏は、直感的に新しいアイデアを生み出す右脳派の人達を応援しているのです。実は、右脳派は左脳派より少数です。そこで、日本では、このコメント欄でも分かるように、左脳派の人達がよってたかって、右脳派をつぶそうとするのです。 米国では、そのようなことはありません。親が子供に、「自分の考えを持ちなさい」というのはよくあることです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 17:39

    内田先生の記事を、もう一度、読み返しました。 そしたら、、彼は、1)既存の仮説の問題点の論理による理解、2)非論理的な跳躍による新しい仮説の発見、3)新しい仮説の論理による検証、の3つの過程をひっくるめて、「論理的思考」といっておられることに気が付きました。  

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 17:24

    > 「論理」の下地をつくらなければ「跳ぶ」ための直感というのは生まれないのではないか。 人間には左脳と右脳があり、これらの機能はことなります。 左脳は言語や計算力、論理的思考を司ります。情報を知識として認識し整理する役割を果たしています。記憶にも関係していますが、主に言語や数的処理を司る脳なので、記憶脳力は右脳に比べると劣っています。 左脳派の特徴  ・論理的で冷静  ・筋道立てて考える  ・客観的な分析が得意  ・几帳面 右脳はイメージ力や記憶力、想像力やひらめきを司どります。視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の五感に関係し、感情をコントロールしています。音や色の違いを認識したり、物事に感動したりするのも右脳の働きによるものです。 右脳派の特徴   ・感情表現が豊か   ・感性がするどい芸術家   ・人の気持ちを汲み取れる   ・空間認知に長けている   ・アナログ派   ・暗記が得意 内田先生は次のように書いておられます。 卓越した知性と凡庸な思考の決定的な差は知的能力の量的な違いではありません。「跳ぶ」勇気があるかどうか、大胆であることができるかどうか、それだけなのです。  跳ぶ勇気がある(バカなことをする)人というのは、右脳が左脳より発達していて、物事を直観で判断する傾向があります。それに対して、左脳が右脳より発達している人たちは、いつも冷静で賢明な判断をします。 私は、右脳派であることを、高校時代から、知っていました。右脳派の人は、代数より幾何が特異です。私は、面倒な計算は、小学生の時から嫌いでした。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 14:06

    でも、「跳ぶ」ためには勇気が要ります。ある程度までは論理的に思考しながら、最後に「そんな変な話があるものか・・・」と言って、立ち止まって、論理が導く結論よりも、常識の方に屈服してしまう人たちがいます。彼らに欠けているのは、知性というよりは勇気なんです。(勇気というより、常識にとらわれないバカさだとおもいます。) 文科省が教員や子供たちに語って聞かせているのは、いつでも「怯えろ」「怖がれ」ということです。学力がないと社会的に低く格付けされ、人に侮られ、たいへん不幸な人生を送ることになる。それがいやなら勉強しろ・・・というタイプの恫喝の構文でずっと学習を動機づけようとしてきました。 すべての卓越した知性は、世間の誰もが同意しないアイディアについても、自分の直感を信じて、それを現実で検証してみせた。 「最も重要なのは、あなたの心と直感に従う勇気です。なぜなら、あなたの心と直感は、あなたが本当は何になりたいのかをなぜだか知っているからです。」 子供たちにほんとうに伝えなければいけない言葉は、「親が反対しても、教師が反対しても、友だちが反対しても、世の常識が反対しても、それでも自分の直感と心に従う勇気を持ちなさい」ということなんです。でも、おそらくそれは今の学校教育で最も教えられていないことだと思います。 *** 内田先生は、一つの記事にこれだけ示唆に富むことを、正攻法で述べておられます。まさに勇気ある方です。 そして。内田先生は、既存の仮設の論理的思考による検証、直感にょる新しい仮説の発見、新しい仮設の論理的思考による検証の全過程を「論理的思考」と呼ばれているようです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 13:46

    たしかに論文を書くときには、いくつかの実証された事実を前にして、それらをすべて説明できる仮説を立てる、という順序で進むんですけれど、実際に脳内に起きているのは「結論が先」なんです。いきなりアイディアが浮かぶ。どうしてその結論に自分は立ち至ったのか、何を見て、私はそう思ったのか、・・・というふうに時間を遡って、自分が着目した断片的事実を列挙してゆく。 ある仮説を思いつく。実験でそれを検証する。反証事例が見つかる。仮説を書き換える・・・この無限のサイクルが自然科学的に思考するということです。信仰を持つこともそうです。一見するとランダムに見える事象の背後に「神の摂理」が働いていると感じること。宗教的知性と科学的知性は構造的には同じものなのです。 、「複雑に見える事象の背後にはシンプルなパターンがある」という直感ほど人をわくわくさせるものはないからです。だから、陰謀史観というのも、幼児的ではあるけれど、ひとつの知性の活動ではあるのです。ただ、そういうものに溺れるのは、子供の頃から世界を観察して、繰り返し自力で仮説を立て、そのつど知的高揚を味わった・・・という仕方で論理を突き詰めた経験を持たなかった人たちなんだと思います。 子供の頃から「知的興奮」をし慣れていたら、こんな薄っぺらな仮説には何の知的高揚も感じないはずだからです。子供のころから繰り返し「宇宙の真理を発見した!」とひとり興奮しては、「あ、違った・・・」という落胆を味わうということを繰り返ししてきた人は、こんなシンプルなストーリーにはひっかかりません。 (つづく)

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 13:43

    > 世の中にはこのような持って回った文章を有難く思う人も少なくないようである。 内田氏の記事にある示唆に富む記述をあげます。 「論理的に思考する」というのは、僕の理解では、断片的な情報を総合して、一つの仮説を立て、それを検証し、反証事例に出会ったら、それを説明できるより包括的な仮説に書き換える・・・という開放的なプロセスのことだと僕は思います。 コロラリーはしばしばわれわれの常識を逆撫でし、経験的な知識の外側にわれわれを連れ出します。僕は「論理的に思考する」というのは、それがどれほど非常識であろうと、意外なものであろうと、論理がその帰結を導くならば、自分の心理的抵抗を「かっこに入れて」、それをとりあえず検証してみるという非人情な態度のことだろうと思います。 (ゲーデルの不完全性定理などはこの好例です) 卓越した知性と凡庸な思考の決定的な差は知的能力の量的な違いではありません。「跳ぶ」勇気があるかどうか、大胆であることができるかどうか、それだけなのです。 (大胆というより、バカである、だと思います) 結論がいま頭の中にぽっと浮かんだ。どういう根拠でそういうアイディアが浮かんだのか、まだ自分にはわからない、というところから話を始める。推理が逆転しているのです。どうして自分はこんな結論を思いついたのか、何を見てそう直感したのか、それを逆方向に遡行してゆく。それが『資本主義の精神』におけるウェーバーの手法なのですけれど、これはたしかに名探偵の推理の本質なんです。 名探偵はなぜか最初に「犯人はあいつだ」ということがわかってしまうんです。わかった後に「どうして私はあいつが犯人だとわかったのか」という問いを遡行していって、自分が直感した根拠となった「断片」を列挙してゆくのです。 (つづく)_

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 13:18

    池田先生が引用している内田先生の主張を再引用します。 [原発は]いったん事故が起きた場合には、被曝での死傷者が大量発生し、国土の一部が半永久的に居住不能になり、電力会社は倒産し、政府が巨額の賠償を税金をもってまかなう他なくなる。原発事故によって失われるものは、貨幣に換算しても(人の命は貨幣に換算できないが)、原発の好調な運転が数十年、あるいは数百年続いた場合にもたらされる利益を超える。」 この主張は、つぎのように訂正すれば正しくなります。 いったん事故が起きた場合には、 => いったん過酷事故が起きた場合には、次のような可能性がある。 これに対して、池田先生は次のようにいっておられます。 「これは事実認識として誤りである。今回の原発事故で、人命は1人も失われていない(今後も死者はゼロに近いだろう)。損害は数兆円と見込まれるが、これは東電の1年分の売り上げにも満たない。もちろん損害賠償を行なったら東電の経営が破綻するおそれは強いが、その損害は「原発の好調な運転がもたらされる利益」の数年分程度だろう。」 原発の設計者は、何が起きたかだけでなく、なにが起きる可能性があったかも考えて対策を立案します。今回の福島の事故では、2号機の格納容器の破損が、地下の圧力抑制室の損傷でなくて、地上部の爆発でしたら、過酷事故になりました。 池田先生の主張は、高速道路の左右も見ないで横切ったら、たまた事故にあわなかったから、高速道路は左右も見ないで横切ってよいと主張するようなものです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 12:51

    > 推論と演繹の区別すらしてないでしょ? 論理的な推論を演繹といいます。そして、演繹の逆方法に推論するのを「帰納」といいます。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 12:43

    > 高級言語はコンパイルしている部分が見えないだけ。 高級言語で書かれたプログラムは、それぞれの計算機用のコンパイラで、それどれの計算機用用の機械語に変換されます。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 12:39

    > なお、論理に跳躍なんてありません。論理は常に、前提とのつながりを保ったまま一歩ずつ進めていかなければならないものです。論理のつながりに跳躍があったら、それはすでに論理的ではありません。常識からのずれが生じる事はあるでしょうが、それを跳躍と呼ぶこと自体単語選択の誤りでしょう。  「跳ぶ」能力とは直感による非論理的なものです。しかし、その結果得られたものは論理的に正当化できりものでなくてはなりません。 ハイテクの分野にはいくつかの例があります。例えば、データベースの分野では、1960年代にはデータを網状の構成する方法が主流でした、それが、現在はデータをテーブルを使って構成するリレーショナルデータベースが主流をなっています。 1970年代の初めにコッド博士がリレーショナルデータベースの提案をしたときには、データの構成単位をテーブルとしたような簡単なものは使い物にならないと批判され、計算機科学の学会誌は、彼の論文を拒絶しました。そこで、彼は少し畑違いの電気学会の雑誌で短い論文を発表しました。 このコッド博士ので提案をは知った人達のなかには、実験的システムを作る人達が出てきて、1980年代のなると実験的システムは完成しましたが、速度が遅くて使い物になりませんでした。しかし、1990年代になると計算機の性能も上がり、プログラミング技法の進歩もあり、リレーショナルデータベースは充分使用に堪えるものとなりました。 リレーショナルデータベースの最大の利点は、データが、固定的な網状構成でなく、簡単なテーブルに格納されているので柔軟な扱いができることです。リレーショナルデータベースのもう一つの特徴は、データをどのように処理するかを記述するリレーショナル代数と、どのような結果を得たいかを記述するリレーショナル・カルキュラスというものがあることです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 12:37

    > なお、論理に跳躍なんてありません。論理は常に、前提とのつながりを保ったまま一歩ずつ進めていかなければならないものです。論理のつながりに跳躍があったら、それはすでに論理的ではありません。常識からのずれが生じる事はあるでしょうが、それを跳躍と呼ぶこと自体単語選択の誤りでしょう。  「跳ぶ」能力とは直感による非論理的なものです。しかし、その結果得られたものは論理的に正当化できりものでなくてはなりません。 ハイテクの分野にはいくつかの例があります。例えば、データベースの分野では、1960年代にはデータを網状の構成する方法が主流でした、それが、現在はデータをテーブルを使って構成するリレーショナルデータベースが主流をなっています。 1970年代の初めにコッド博士がリレーショナルデータベースの提案をしたときには、データの構成単位をテーブルとしたような簡単なものは使い物にならないと批判され、計算機科学の学会誌は、彼の論文を拒絶しました。そこで、彼は少し畑違いの電気学会の雑誌で短い論文を発表しました。 このコッド博士ので提案をは知った人達のなかには、実験的システムを作る人達が出てきて、1980年代のなると実験的システムは完成しましたが、速度が遅くて使い物になりませんでした。しかし、1990年代になると計算機の性能も上がり、プログラミング技法の進歩もあり、リレーショナルデータベースは充分使用に堪えるものとなりました。 リレーショナルデータベースの最大の利点は、データが、固定的な網状構成でなく、簡単なテーブルに格納されているので柔軟な扱いができることです。リレーショナルデータベースのもう一つの特徴は、データをどのように処理するかを記述するリレーショナル代数と、どのような結果を得たいかを記述するリレーショナル・カルキュラスというものがあることです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 11:35

    > 「正しく文章を読めない奴」が、文学作品なんて読める訳がない。 私は、文章を正しくう読むということも、正しい文章を書くということも大変重要だとおもっています。例えば、このコメント欄にも、内田先生の意図を正しく読み取らないで、2・3行の悪たれだけをついたコメントがたくさんあります。 しかし、「論理国語」というのにはあまり賛成しません。それは、契約書などを読んでも面白くないからです。私が小学4年生の時の担任の先生は、「ガリバー旅行記」、「ドンキホッテ」、「ゴジラ」といった、挿絵がたくさんついた本を10冊ぐらい買って、学級文庫としました。私は、「ゴジラ」という映画を観たかったのですが、そうするお金がなかったので、「ゴジラ」の本を熱心に読みました。今でも、ストリーといくつかの挿絵はおぼえています。 そこで、5・6年生の時には学校の図書館から、「少年少女世界文学全集」に含まれている本を毎週2冊借り出して読みました。読んだ本は、「怪盗ルパン」、「ムソーヤの冒険」、「15少年漂流記」、「母を訊ねて3千里」といったものでした。 このせいだとおもいますが、中学1年の時に担任の国語の先生が行った国語力を計るテストでは、私の国語力は18才であるという結果で出ました。そこで先生は、私に、「家に本はあるか?」、「週刊誌をよんでいるか?」と聞きましたの。いずれの質問にも No と答えると、先生は首をかしげていました。先生が見落としたのは、「学校の図書館の本をよんでいるか?」という質問です。 このテストで、今でも恥ずかしく思っているのは、「性行」の意味として「男女の交わり」を選んだことです。「性行」の正しい意味は、「性質と行為」です。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 06:05

    > 内田センセーも論理性に「跳ぶ」ことを求めるというわけですね。 技術の分野では、「跳ぶ」とは、新しい要求を満たすような、新しい方式を考え出すということです。新しい方式といっても、それは無数にありますから、それらを一つ一つ論理的の検討することは不可能です。私は、これは直感によるしかないとおもいます。 直感により選び出せれた方式が正しければ、それを論理づけるのは難しくありません。苦しいのは、直感により正しい方式が見つけ出される状態に達することです。考えても、考えても良い方法が見つからないといった状態がつづきます。こうした状態では、困難な問題は、一時脇に置いておくことができる環境が必要です。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 05:35

    > レジスタから8とか16ビットとかデータを持って来て動作周波数で順繰りに計算して出力するアセンブラの構造はハード的なので、ハードを変えないと基本的な部分も変えられない。論理というのは「マシン」化出来るパターンなので、飛躍はない。 現在の複雑なプログラムはアセンブラでなくて、ハイレベルの言語で書かれています。 Unix の誕生は、重要な「跳躍」でした。Unix は今から45年ほど前に生まれましたが、現在使われている、ほとんどの OS は、Unix のファイル構造とアクセス・コントロール方法、プログラムの実行単位であるプロセスの構成と制御方法、一般化された入力・出力方法を引き継いでいます。こうした基本仕様に従っていますが、現在の OS は,最初の UniX の何百万倍もの大きさになっています。 マイクロソフトの Windows もアップルの OS も、今は Unix の系統のものになっています。 このように、使用されるハードウエアにとらわれない設計をするのが、ソフトウエアの基本設計の大切なところです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 05:10

    > どちらも内田氏の主張を誤読しているように思えますけどねえ。 私は、内田先生の主張を、意図的に誤読しています。 現在、「跳躍」が頻繁に起きているのは、ハイテクの分野です。文系の内田先生がこの分野に詳しくないことは致し方ないとおもいます。内田先生の記事の重要な部分を再構築すればよいとおもいます。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 04:53

    > 何だかストーカーされているような気分である。 そうであれば、申し訳ないです。 私なんかは、執拗にストーカーされています。それも、偽善者とか、差別主義者とか、脅迫神経症とか言われています。さらに、私が Sex Slave を「性労働者」と訳すべきといったというような、私がi言ったことがないことを、頻繁にいわれたりしして、もう散々です。 > それはともかく、長い文章程価値があるとは限らない。 日本の大学には生徒数が500人といったようなクラスがあります。そのようなクラスでは、先生が生徒一人の答案を6分で読んだとしても、全部の答案を読むのには50時間もかかります、そこで先生は各答案の初めと、あとは飛び飛びしかよみません。結果的に気が付いたことですが、長い答案を書くと A がもらえました。 > 私は内田氏のBLOGOS記事は結構読んで来た。そして、氏の文章のパターンも分かってきた。私のコメントはそのような背景の下で今回の記事を読んだ結果としてのものである。最初のページを読んだだけで、私はこの記事についてはそれ以上読む価値がないと判断したのである。 内田先生の記事は確かに冗長です。しかし、私は最初のページを読んで、これは技術革新には、内田先生が「跳躍」と呼んいる、極めて重要なことを言っていると知り、探偵小説の部分は飛び飛びに読んで、全部よみました。内田先生の記事の特徴は、重要な概念を平易な言葉で漫談の様に紹介されることです。スチーブ・ジョブの講演についての記述では、微妙なことに気が付いておられると感じました。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月07日 03:53

    > そして、公理とある仮定の集合 A から、一つの命題 X が証明されたとします。そこで、A にさらに仮定 Y を加えたとき、X が否定されたとすると、A に仮定 Y を加えた仮定の集合 B は矛盾を含みます。矛盾する仮定の集合からは、どのような命題でも証明できます。 この問題避けるためには、A に仮定 Y を加えるとき、A から Y と矛盾するすべての仮定 Z を取り除く必要があります。Y と矛盾するすべての仮定 Z とは、Y and Z =Fとなるものです。もしくは、Y を加えないか、Y を変更することです。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月06日 21:29

    日経などの記事を読んでください。日本経済が停滞しているのは、「跳ぶ」ことが欠けているからだという記事が頻繁に掲載されています。

    内田樹
    国語教育について
  • 2020年01月06日 21:21

    訂正 しかし、真であるとされている仮説は、すべて形式論理で証明できます。実は、仮説が真とされるのは、形式論理で証明できるからです。 ==> しかし、真であるとされている仮説は、ほとんど形式論理で証明できます。

    内田樹
    国語教育について