『香川の開拓者たち』より

丸坊主に戦闘服…女たちの「満洲報国農場」

隠された悲劇の実相を掘り起こす
第二次大戦末期、国策として遂行された「満洲報国農場」。派遣された農村の若者や農学生たちの多くは、やがて迎える終戦に前後して、かけがえのないその命を奪われることになる。「地獄絵」とも称されるその惨劇の実態を、東京農業大学の小塩海平氏が、数少ない生還者との交流から描き出す。

「丸坊主の青春」

土居春子(旧姓:溝渕春子)先生は、満洲報国農場の生還者の中で、私が存じ上げている唯一の女性である。

『香川の開拓者たち:満州国牡丹江省寧安縣東京城鏡泊湖第十次半截溝香川郷開拓団と報国農場勤労奉仕隊の人々』(成光社、2013)に収録されている「丸坊主の青春」という先生の回想録は、バリカンで髪を刈り上げ、男装するシーンから始まっている。

 

終戦の年、香川県半截溝(はんさいこう)報国農場に副団長として渡満された土居先生は、引率した30余名の女子隊員に先だって、丸坊主になられた。侵攻してきたソ連兵による襲撃や強姦を避けるために考え出された一時しのぎの手段であったが、それが若い女性たちにとって、どれほど惨めであったのか思いのほどが伝わってくる。

もちろん、餓死、凍死、病死、戦闘死、集団自決、強制労働、強姦、シベリヤ抑留、残留孤児など、その後に満洲の地に出現したすさまじい地獄絵に比べれば、断髪や男装などは、ほんの予兆に過ぎなかったといえるだろう。

また、半截溝香川郷開拓団の高尾団長は、731部隊がばらまいたとされる炭疽菌で死亡したことが強く疑われており、比較の上では、坊主頭になることなど、たわいもない出来事だったというほかない。

『香川の開拓者たち』より

しかし、すでにこのとき、戦争は終わっていたのだ。

いったい、なぜ、すぐに見破られてしまうような男装をしてまで、ソ連兵や現地人を忌避しなければならなかったのか。なぜ非戦闘員である女性や子どもたちが命の危険にさらされなければならなかったのか。

辛うじて幾人かの生還者が生きておられる今だからこそ、個々の歴史的事実を掘り起こすとともに、いったい満洲報国農場というものが何だったのか、その全体像を明らかにする必要がある。