新たに見出された黒島結菜が、時間の旅に出かけるように、今なお、世界のどこかでは多くの少女たちが時を超え、今より少しでも素敵な世界になることを夢見て旅立とうとしている。それこそが、彼女たちが体現する“希望”そのものなのではないだろうか。
そう。少女たちは時を超える。
映画や、ドラマや、アニメの中で。
いや、それだけではない、たとえメディアとしては残っていなくとも、私たちがかつて見た『少女』の姿を思い起こすとき、彼女らは時空を超え、21世紀になった今なお、この心を揺さぶるではないか。
原作を書き上げた時の筒井康隆や、最初に映画化した大林宣彦監督がどこまで意識していたかはわからないが、この物語がずっと先の未来でも読み継がれ、新たな世界を作っていくことは、ある程度感じていたのではないだろうか。
『時を超える』という、人間の普遍的な夢を、ジュブナイルという手法を使って美しく描いた世界。今回のドラマ版もまた、多くの若者や子供たちが見て心躍らせることだろう。
そして、彼らが大人になった時、そのことを思い出して、感じるのだ。「ああ、人はまだ時間を超えることはできない」と。
彼女たちが『アイドル』と呼ばれなくなって久しくなった頃、おぼろげな記憶の中から、その時に感じた熱い思いや甘酸っぱい気持ちを感じ取ることがあるのではないか。
それはまるで、ラベンダーの香りによって、一夫への思いの切れ端を感じ取る和子のように。
それは、私たちファンの側も同じだ。
私が原田知世版の『時をかける少女』を見たのは高校生の頃だった。
何度か見返してはいるが、未熟だった自分が最初にこの映画を見た時の記憶は薄れつつある。
でも、時折、ふとした瞬間にその『思いの断片』のようなものが蘇ることがある。これこそが、筒井康隆や、大林宣彦が仕掛けた“時をかける”魔法ではなかったか。
彼らの作戦は成功した。
その魔法によって私は今、誰とも知れぬ相手に向かって思いを書き綴っている。未来はいつも、すぐ近くにある。もしかするとすでに私たちの記憶の中にあるかもしれない。
ならば、それを手繰り寄せるようにして、まっすぐに明日へ進んでいこうではないか。
黒島結菜は今、彼女たちと同じスタートラインに立った。彼女がこのドラマをきっかけに、どんなふうに、どこまで飛び立っていけるか。それを見届けられることを幸せに思う。
そう、『時をかける少女』は永遠に完結することのない物語なのである。
(文=プレヤード)