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表紙イメージ
『083(ゼロハチサン)』
うみ やま たいよう
VOL.9
2011年9月1日
下関市発行
表紙写真/グリーンモール商店街の食料品店「チャングム」で見つけたニンニクの甘酢漬け(顔らしきイラストは手描き・合成)
撮影=大野金繁
▼テキスト版目次
 
テキスト版へ 2 特集 風に香るハングル
テキスト版へ 4 プレミアム・トーク
黒田福美
下関グリーンモールに「リアル・コリア」を発見!
撮影=大野金繁
テキスト版へ 9 オソオセヨ! リトル釜山が呼んでいる
キムチの瓶、鉄板のステージ
取材・文=小坂章子 撮影=大野金繁
テキスト版へ 20 下関→釜山→光陽→下関
W航路を最大活用して地球回りの韓国ツアー
文=福田章 撮影=橘野栄二
テキスト版へ 24 民家でスロー&ディープに味わう韓国料理
「韓風おうちレストラン てじょん」のカレイの辛煮
「Restaurant李's」のポソッチョンゴル
テキスト版へ 26 ツツウラウラ発おたより劇場
下関市・釜山広域市姉妹都市締結35周年行事
テキスト版へ 27 下関ぶんか人物伝 第3回 松田優作
テキスト版へ 32 リンボウ寸言 次号予告 アンケート&プレゼント



特集 風に香るハングル

東京や大阪よりも韓国・釜山(プサン)の方が近い海峡のまち、下関。
他に先駆けて、大陸と旅客船の通う国際都市として発展してきた。
最近すっかり“韓流ブーム”が定着し、
2011年夏には下関駅前のグリーンモール商店街付近にも「釜山門」が完成。
そこで韓国通の女優・黒田福美さんを水先案内人として、
急展開を告げる本物志向のコリアタウンをたっぷりとお見せしよう。
巻末には、あの名優が還ってくる!?

(写真)P2,3/グリーンモール商店街の一角で見かけた釜山と見まごう光景。


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プレミアム・トーク 女優・エッセイスト 黒田福美

撮影=大野金繁 構成=編集部

(写真)P4/下関の台所として繁栄してきた長門市場を上機嫌で歩く黒田福美さん

下関グリーンモールに「リアル・コリア」を発見!

芸能界きっての韓国通として知られる黒田福美さん。
下関駅前のグリーンモール商店街がリトル・プサンに進化中と知って、
パリパリ(急いで急いで)下関へ。
『世界・ふしぎ発見!』(TBS系列)の初代レポーターらしく、
長年の韓国体験と下関の“今”の魅力を臨場感たっぷりに伝えてくれます。

「韓流」の礎がある街

 今、JR下関駅前の人工地盤に立っています。シーモール下関を背にして、上り下りのエスカレーターがあります。この下から延びている道路一帯がグリーンモールという下関自慢のコリアタウンです。この号が出た頃には、今立っているゲートに代わって、目を見張るような「釜山門」が登場しているはず。どんな門なのか早く見てみたいですね。
 さっそく、歩いてみます。平日の午前中だからか、意外に静かです。あちこちに韓国風のいろんなモニュメントがあり、今後「下関発」で発信していこうという意欲が感じられます。東京上野や大阪鶴橋など、歴史あるコリアタウン独特の雰囲気があり、日韓をつないできた「メッカ」としての貫禄が感じられ、「さすが下関!」というカンジの街並みです。
 私が韓国に興味を持ち始めたのは、1983年でした。すぐに日本社会に潜む在日コリアンへの偏見に目が向きました。当時は韓国の話題は一種タブー視されていた時代でした。そこで互いの文化を知り、尊重することから正しい理解が始まると考えた私は、女優業のかたわら足しげく韓国へ通うようになりました。以後、何冊かの本を書き、ワールドカップ共催をひかえた2000年末から2年間はソウルに居を構え、東京との二重生活を送りながら、「韓国発」の情報発信に努めました。何の後ろ盾も組織もない中で、完全に個人としての活動でした。逆風にさらされてもきたので、今の「韓流ブーム」など想像もできませんでした。
 思うに、ここ下関には他地域とは比べようもない交流史があります。何といっても、「関釜航路」の街ですから。今、ちょっと歩いただけで、たくさんの人たちが、日本語や韓国語で話しかけてきてくれました。旧知みたいな話しぶりです。ルーツの話をうかがったり、握手した私の手が冷たいからって韓方茶をすすめられたり。
 あ、そろそろお昼、モクチャ(食べよう)!

「下関で死にたい」と答えた私

 「ばか盛屋」さんでいただいた焼肉、チゲ、キムチにナムル……。どれもしっかりした味で、味覚だけは一足飛びに韓国気分。若主人の盧徹男さんは下関活性化に真剣に取り組んでいらして、共感することしきり。
 食後は長門市場へ。営業している店は数えるほどになってしまったそうです。「昔は下関の台所だったんですよ」と異口同音に語る皆さん。私としては「歴史ある下関を支えた市場」に、ぜひ昔のような活況を取りもどしてほしいと願わずにはいられません。
 通りにもどって、オープンまもない韓国グッズ店「邦楽座(ほうらくざ)別館」をのぞくと、地元テレビ局が取材中。記者の方に「特別出演」を要請されました。日韓に関わる者として、韓国文化流入の表玄関であった下関は要所です。下関の発展を祈って、もちろんOK。11年前、全国紙で「あなたはどこで死にたいか?」という企画があり、私は「下関」と答えたくらいです。寒い季節に、関門海峡をバックに撮影していただきました。
 ここのキャッチフレーズは「リトルプサン」ですか? ですが私は「リアルコリア」をめざしてほしい。なぜなら下関には他にない「日韓の歴史」が背景にあるからです。これこそ「下関特有の財産」でしょう。

憧れの関釜航路

 実はこの後、このまま関釜フェリーで釜山へ行きます。私のような東京人にとって、下関まで行ったら関釜フェリーに乗らない手はない、という心理が働きます。だって関釜航路は憧れの航路なんですから。日韓間に航路と航空路が数々あれど、戦前からの歴史があり、戦後40周年を超えた歴史あるこの航路は別格。関釜フェリーは韓国ファンにとって、一度は乗ってみたい「夢の航路」なのです。
 船旅って、飛行機の旅とは全然違う味わいがあります。出航時はドラの音を合図に船出します。一夜を船で過ごすことで、乗客はまさに運命共同体となるのです。それに関釜フェリーには、ポッタリさんたちの元気なにぎわいが加わります。
 私にとっての今回の旅は、釜山が終点ではありません。下船後は、釜山の知人を訪ねます。日本で暮らしたことのあるその老婦人は、日本の「かまぼこ」の味が忘れられないと日頃おっしゃっていました。今回は下関の美味しいかまぼこをたくさん仕入れて、お訪ねします。
 その後は、さらに地方をめざします。今回は慶尚南道(キョンサンナムド)の牛浦沼(ウポヌプ)という自然保護地区に選定されている韓国最大の沼へ。ここ10年余り、私は韓国の地方を旅して歩いています。下関の思い出を枕に、釜山沖の五六島(オリュクト)を眺めて朝が迎えられるなんて、幸せです。
 それではアンニョーン、ト マンナプシダ(さようならー また会いましょう)。

(写真)P5/邦楽座別館(12ページも参照)の前で。
(写真)P6/初対面のポッタリさん(釜山から下関を往来して商売する人たち。10ページからも参照)に抱きつかれて、破顔一笑(巴山商店)。
(写真)P7/ばか盛屋でスタミナをつける!
(写真)P8/憧れの関釜フェリーまで、あと一歩。「旅の結果はブログも見てね!」

黒田福美(くろだ・ふくみ)

1956年、東京都生まれ。77年、TBSポーラテレビ小説『夫婦ようそろ』でデビュー。2009年『ビバリーヒルズチワワ(吹き替え)』(Disney)、『ゼロの焦点』(東宝)、2010年『遠くの空』に出演。映画・テレビドラマなどで俳優として活躍する一方、芸能界きっての韓国通として知られる。テレビコメンテーターや日韓関連のイベントにも数多く出演、講演活動なども活発。韓国観光名誉広報大使、日韓交流おまつり実行委員も務め、2010年10月浦項(ポハン)市広報大使に任命。これらの功績により2011年5月、大韓民国より『修交勲章 興仁章』を受賞した。著書は『ソウルマイハート』『ソウルの達人 最新版』(いずれも講談社)など多数。
◎黒田福美ブログ http://ameblo.jp/kuroda-fukumi/

(写真)P8下/興仁章を受けて。左は当時の駐日本国大韓民国特命全権大使・権哲賢さん(6月に離任)。


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オソオセヨ!(いらっしゃい) リトル釜山が呼んでいる キムチの瓶、鉄板のステージ

今、シンボリックな「釜山門」が目をひくグリーンモール商店街。
すぐそこの港から関釜フェリーが出ているけれど、
居ながらにして韓国色が堪能できる
楽しい街として注目度急上昇中。
旅も、食も、人物も…すべてにこだわり、
深く観察する行動派ライターの小坂章子さんが、
2日がかりで街の魅力を極め尽くした。
さあ、カッチ・カジャ(いっしょに行こう)!

取材・文=小坂章子 撮影=大野金繁

(写真)P9/西山商店の西山貴子さんの笑顔と韓国食材に完全ノックアウト!

たくましきポッタリさん 海峡を往ったり来たり

  ガイドブックの取材で何度か訪れた釜山を思い出しつつ、JR下関駅に降り立った。人工地盤か地下道で道路を渡れば、そこはすでに「グリーンモール」商店街。約800メートルの通りの両脇には、韓国の食材店や雑貨店、キムチ専門店、焼肉店、洋服屋など約200軒もの店がひしめきあっている。海峡の風にのって、頭上のスピーカーから聞こえてきたのは、ミスターチルドレンの昔の歌。ああ、何か好きだな、ここ。淡々と過ぎる日常、でもそこには底知れない熱いものが根を下ろしている、そんな期待がふくらむ。
 ふいに、釜山港で見かけたポッタリチャンサのことを思い出した。直訳するとポッタリが風呂敷、チャンサが商売という意味で、通称ポッタリさん。たくましいアジュンマ(おばさん)を中心とした“担ぎ屋”として、釜山と下関間を双方が必要な品物を持って、往ったり来たり。下関と釜山を結ぶ関釜フェリーは、そんなポッタリさんの生命線といえるだろう。
 下関に多く住む「在日コリアン」は、終戦直後いろんな事情から釜山に帰るフェリーに乗らなかった、もしくは乗れなかった人たちである。逃げ場がない中で、逆境をはねのけ、商魂たくましく生き抜いてきた人々。そのひとつの生業がポッタリさんであり、そこで稼いだ資金をもとに事業を展開し、大きな財をなした在日コリアンも数多い。
 ポッタリさんに会いたい! そう思い立った私は彼(女)らがよく買い物をするという「河上商店」へ向かった。広い店の奥や端には、キャリー付きの旅行バッグに大量の荷物を詰めているアジュンマの姿がある。時々、韓国語で「大丈夫」という意味の「ケンチャナヨ!」という言葉が聞こえ、歓声があがる。皆、仕事とは思えないくらいイキイキとした表情で冗談を飛ばしたり、弁当を広げたり……まるで遠足みたい。お得意さんのポッタリさんについて店主の河上悟さんに話を聞いた。
 「嗜好品関係が日本から輸入できなかった1970年代当時、下関の在日コリアンの方がインスタントコーヒーとか、瓶のままだとかさばるからビニール袋に移して釜山に持ち帰っていた時代があるんですよ。結果、それが商売にも結びついたようです」
 さらに遡ると、韓国人の船員が下関漁港に上陸した際、胡麻や胡麻油、みかんの缶詰、カレー粉の缶などを大量に買って帰っていたらしい。ちなみに、稼ぎは船乗りの給料よりはるかに良かった。
 釜山からのフェリーが到着する朝8時頃には、ポッタリさんを港まで迎えに行くのを日課としている河上さんだが、一人ひとりの名前までは知らないという。最近の傾向も話してくれた。
 「生活費を稼ぐというよりは、昔から続けてきとるから毎日船に乗りたいという意識が強いでしょうね。家でじっとしていても辛気くさい。その点、船に乗れば仲間と会えるし、ちょっとした小遣い稼ぎになるわけですから」

(写真)P10/グリーンモールでよく目にする斬新なデザインとまぶしい色づかいは、釜山でもおなじみの光景?
(写真)P11上/長門市場に残る食料品店。長年の習慣で今も店を開ける。
(写真)P11下/海苔とおぼしきポッタリさんの大荷物。

正直に、誠実に美味しい肉料理が生まれるワケ

 さて街を歩けば、おのずと張り紙やチラシが目に入る。その中で目に留まったのが、毎年11月23日(「いいプサン」に由来)にグリーンモールで開催される「リトル釜山フェスタ」。フェスタというだけあって、韓国の伝統音楽や食材を紹介する展示もあり、商店街は釜山一色になるらしい。見入っていたら、ある店の人が「下関コリアンフードフェスタ」も美味しいものがいっぱいあるんよ、と教えてくれた。歩行者天国の商店街には、在日コリアンの知恵と文化が息づいた下関ならではの味覚が勢ぞろいするという。あれこれ想像していたら、急にお腹がすいてきた。
 入ったのは、創業60余年の“頑固な老舗”「やすもり本店」。この店の肉は、自社のミートセンターで丁寧に処理される。
 「うちでは最高級の黒毛和牛肉を秘伝の熟成ダレで召し上がっていただきます。また国内産そば粉100%の手打ち冷麺も人気です」
 と教えてくれたのは、オーナーの蔡昌亮(チェチャンヤン)さん。蔡さん自身、年5回は釜山の国際市場に出かけ、自分の目で食材を見て選んでくる。「下関の焼肉店のレベルは全国でも高い」と言われるのも納得だなあと感心しながら、熱々の肉を白いご飯にのっけてほおばった。ああ、これだ、この味! またも釜山がよみがえる。
 お腹を満たした後は、ぶらぶらと腹ごなし。と、「肉の玉田」が目についた。「長門市場」に17年間あったこの店は、路面店になって1年目。美しいロース肉を手際よくさばく社長の玉田明水さんが、大阪で暮らす娘さんに送るための肉をせっせせっせとスライスしている。
 「うちの肉は、鹿児島県産黒毛和牛A5ランク。肉はね、やっぱり新鮮さですよ。どこよりも新鮮なものを売るってことですよ。キムチだって蒸し豚だって、こうやって全部自分とこで作る、それが一番安全やから」
 一番よく売れるのは、在日コリアンの暮らしに欠かせない、蒸し豚とキムチ。お盆や結婚式、結納の時などになくてはならない韓国の食文化として今でも受け継がれている。キムチは、白菜90キロを1週間で漬けるペース。ポッタリさんから仕入れる韓国産の唐辛子は、日本産より甘みがあって旨みがあるようだ。最近では、包丁を使わない世代が増えたため、切らなくてもいい細切れのキムチまで販売するなど芸が細かい。
 牛肉についてもう1軒、力を入れている店がある。「焼肉の優太郎」は、仕込みの真っ最中。調理場で新鮮なレバーの薄皮を切れ味の良さそうな包丁でていねいに剥いでいるのは、2代目の豊川優さんだ。キャップを目深にかぶった姿は凛々(りり)しく、赤く染まった指先の繊細な動きから目が離せない。妻の明菜さんとふたりが大切にしているのは、「正直に、誠実に、商売していくこと、そして継承していくこと」。その言葉に、ここも信用できると食指が動く。
 その夜は、リトル釜山のソウルフードと呼ばれる「とんちゃん鍋」を求めて長門市場近くの「赤提灯」へ。とんちゃん鍋は、戦後の食料難にあっても手に入りやすかった新鮮で安価なホルモンと、その時そこにある野菜をぐつぐつ煮込む庶民のスタミナ料理。はじめは山盛りの野菜しか見えないが、だんだん下から飴色の泡がわいてきて、食欲をそそる香りがただよい始める。ホルモンの旨みが溶け出た鍋は、脂ギッシュ! でも本能か、はたまた遺伝子が欲するのか、箸のスピードはまったく落ちない。具材が終わった後は、ご飯で締めくくり。濃厚なそれをちびりちびりとなめちゃあ、冷たいビールをキュッ。気がつけばビールが3本あいていた……。店の人がワタオニこと「渡る世間は鬼ばかり」のテレビに夢中で、いい具合にほったらかしなのも釜山と同じ感じがする。
 ふくれたお腹を落ち着かせるため、高架下をくぐりホテルまで散歩。暗闇を貨物列車がゴーッと駆け抜け、たちまち去っていく。映画のセットのような夜道を浮遊しながら、グリーンモールと自分の距離感がだんだん近くなっていくのが快い。

(写真)P12右/「肉の玉田」のショーケースを飾る新鮮なホルモン。
(写真)P13/「焼肉の優太郎」のレバー。薄皮を剥ぐ下処理の妙技に唸らされる。
(写真)P14上/早朝の長門市場に並ぶ漁師直送の魚介。いずれも地物ばかりで驚くほどの安さだ
(写真)P14下/とんちゃん鍋のあとは ご飯を入れて、焼き飯風に。
(写真)P14,15上/下関で売り出し中の「とんちゃん鍋」(1人前700円。注文は2人前から)。最初は野菜オンリーに見えるが、その下には……。(赤提灯)

■韓流ファンの新たな聖地、誕生! 邦楽座別館

2011年4月29日(昭和の日)、グリーンモール商店街に、韓流雑貨やグッズ、食品や化粧品などが幅広くそろう「邦楽座(ほうらくざ)別館」がお目見えした。昭和30年代までこの地で親しまれた演芸ホール「邦楽座」の名前をひっさげ、全国の韓流ファンの熱いハートをつかむべく、期待を集めている。中でも韓流スター「東方神起」関連のグッズは、常に売り上げナンバー1。店長自らが関釜フェリーを活用し、釜山やソウルに出かけて仕入れてくる選りすぐりの商品構成とコストパフォーマンスはさすが。一日中ここにいたいという熱狂的なファンで、店は連日あふれかえっている。喫茶コーナーもある。
下関市竹崎町2-1-11/Tel:083-224-5523/10時30分から18時30分/木曜休み

(写真)P12左/韓流スターのポスターもいっぱい。

チマチョゴリを試着して両手いっぱいにお土産ゲット

 翌朝4時。早起きして長門市場へ。最盛期は互いの肩があたって歩けないほどにぎわっていたというが、今はかろうじて5軒の店が営業中。漁師の女房が獲れたての鮮魚を広げた露店を眺めていたら、え、そんなに!というほど安い。ビニール袋にぎっしり魚を入れて、気まぐれのおまけまでついて1000円からお釣りがくるのだから太っ腹。目先の利益より一人ひとりとの信頼を大事にするというこの精神は、チャガルチ市場の前で魚を売って生計を立てる、辛抱強いアジュンマたちとだぶって見えた。

 かつての長門市場といえば、野菜から生活道具から何でも揃う、百貨店のような存在だったが、今は残念ながら淋しいものだ。わずかに営業中の店を見てまわると、あれ、どの店先にもひからびた栗のイガが一個、二個……。こりゃあ、一体何だ、おまじない? 釜山の市場でよく見かけた明太と呼ばれる干しダラを裂いているおばあちゃんに聞いたら、何と猫よけだという。
 そんな私を見ていた向かいの「肉の和田金」の店主が、インスタントコーヒーを飲みながら、「うちは跡取りもいないし、いつでも店を閉める覚悟はできとる」。と、そこへ男性のポッタリさんが登場。「和田金」の前の一画を荷物置きとして使っているムン・ソンミョンさんは、背筋がしゃきっと伸びた1935年生まれの76歳。今でも細々と歯磨き粉や薬、シャンプー、コーヒーなどその年に売れるものを釜山と下関で往き来させている。私の質問に短く答えると、すぐ自分の仕事に戻っていった。
 今日は、買い物もかねてキムチなどの食材屋を中心に巡ろうと決めている。まずは、韓国食材店「チャングム」へ。赤いパッケージの辛ラーメンを指差し、人気ですよねと言うと、「辛ラーメンは昔の流行り。今はじゃがいもの麺のラーメンとか、ざくろジュースが人気なんよ」と店主。キムチは、袋入りで100円から。オリジナルの焼肉ダレ、韓国の大根で作ったチョンガキムチ、カクテキ、青唐辛子の味噌漬けなどが冷蔵ケースにぎっしり。胡麻油の香りが食欲をそそるキムパッ(韓国式海苔巻)を食べやすいように切り分けてもらっていると、いつか釜山取材で通訳をしてくれた女性が「帰りの船で食べて」とキムパッの包みを持たせてくれたことを思い出した。ちょっと小腹がすいた時に、南浦洞(ナムボドン)のPIFF広場でもよく食べたなあ。
 ちなみに一番のヒットは、ニンニクの甘酢漬け(2個200円)。「食べたそばから元気が出たから、また買いに来たよ」とごっそり買い込む女性に触発されて、私も負けじと声を上げる。財布の紐は、さっきからゆるみっぱなしだが気にしない、気にしない。
 いろんな人が漬けたキムチが食べたくなって、開店4年目の「西山商店」にはしご。胡瓜の間に千切りの人参を挟みこみ、昆布や赤唐辛子をたっぷりきかせたオイキムチがはじけるように瑞々しかったので4本購入。1本100円で本場の味を楽しめるのだから安いものだ。ついでに八百屋でエゴマの葉を買い、韓国産の香辛料を手に入れた。完成品の見本として、「本場キムチ屋」の美人店主が作るエゴマのキムチを購入。さらには座布団サイズ(厚さも5センチ)の採れたて青海苔も1000円でゲット。友だちにちぎって分けてあげたら喜ばれるはず。プロの料理人も買いに来る卸価格というのが、また嬉しいじゃないか。遠方から来る客もいれば、チジミやキムパッなどの軽食を注文する近所の常連客も。観光客向けの店が連なるのではなく、こうして地元の生活に根付いた店で買い物できるのが嬉しい。
 ここで思いついた、記念にチマチョゴリの試着をしようと。訪れたのは、結婚相談所も兼ねている衣料品店「同和商会」。最近の結婚式では、生粋の日本人もお色直しで着るケースがあるという。私もそういう日がいつかきた暁には考えてもいいかなあーなんて。いつかという言葉がちょっとむなしいなと感じながらあずき色に手を伸ばすと、店主が「えっ!? これはハルモニ(おばあさん)が着る色よ」と言い、代わりに目のさめるようなピンクを合わせてくれた。
 チマチョゴリを着たのは2度目だったけど、実は、こんなに多くの在日コリアンと短期間で言葉を交わしたのは初めてだった。昨日と今日、2日間に及ぶ散策の間に、顔見知りになった人もちらほら。ニコッと挨拶しながら店の前を通れば、あれもこれもと欲しい物が目に飛び込んできて、鞄は今にもはちきれそう。だけどグリーンモールを訪れ、この空気の中で顔と顔を合わせ言葉を交わし買い物をする、それはモノを手に入れる以上の満足感を抱かせてくれた。アジュンマやポッタリさんたちのエネルギーが注入されていると思えば、なおさらである。
 夢中で買い物した後は、安くて量も多くて美味しいと評判の韓国家庭料理店「シオン」へ。「ウゴジクッ(鰯のスープ)」(600円)を注文。韓国では二日酔いの朝に食べる胃にやさしいスープである。店主の洪恩淑(ホンウンフク)さんによると、頭と腹をとって身だけにした鰯でサッとだしをとった後、別に茹でておいた菜っ葉と骨をとった鰯とを、よく手で揉んでなじませるというひと手間がポイント。「人間の手から直接伝わるものが大事。やっぱり料理は食べる人のことを思って手をかけなければね」との言葉に、誰かを思ったり食べ物を大事にしたりする気持ちは、普遍的なんだと痛感した。どの国に行こうと、食文化から学ぶものはやっぱり計り知れない。
 釜山に一番近い日本、下関。その恵まれた立地条件により、唯一無二の個性を発揮する関門海峡沿いのリトル釜山が、ますます大好きになった。今後、さらなる進(深)化を目指し、下関のコリアタウン構想は加速していくだろう。次に訪れる時は、また違った顔を見せて欲しいし、見せたいと思う、私も。

(写真)P16/大量の白菜でキムチの下ごしらえ中。韓国には「手の味」という言い回しもある。
(写真)P17/真っ赤に染まったキムチ。見た目ほど辛くなく、甘みと滋味がある。
(写真)P18/「チマチョゴリを着ると即、コリアンのDNAと息吹が注入されたみたい」と小坂さん。

めくるめく華やかな異国情緒 「しものせき馬関まつり」の朝鮮通信使行列再現

朝鮮通信使とは、朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節団で、室町時代から江戸時代にかけて17回行われた。特に江戸時代には12回来日しており、朝鮮王朝と徳川幕府は、通信使によって両国の友好関係を深めた。漢城(現在のソウル)を出発した通信使一行は、釜山や対馬を経由し、本州最初の上陸地、下関(宿所は阿弥陀寺、引接寺など)をめざす。毎年8月に開催される「しものせき馬関まつり」の中で、この朝鮮通信使行列が再現される。関門海峡をバックに、約250名の下関・釜山両市民が繰り広げる幻想的な歴史絵巻は、海峡の潮流とともに見る人の心を遥か遠い時代に誘う。
問合せ=下関市市民文化課/Tel:083-231-4691
 

(写真)P15/ひとときタイムトリップ感覚を味わえる。

知らなかった、もうひとりの力道山 韓国曹渓宗・光明寺の力道山像

神田町の丘の上、山口朝鮮初中級学校と隣接する光明寺は、山口県で唯一の韓国寺として知られている。その集会所に、かつて子どもから大人まで日本じゅうを沸かせ、39歳でこの世を去ったプロレスラー力道山(日本名=百田光浩 朝鮮名=金信洛(キムシルラク))の木像が安置されている。約10年間かけて制作された樹齢500年の桜の木の力道山像は、ほぼ実物大。最期はひとりの韓国人(力道山の故郷は現・北朝鮮の咸鏡南道(ハムギョンナムド))として韓国寺に安置させたいという力道山の妻と弟子の希望によって実現した。「これも何かのご縁でしょう」と語る住職の金鎮度(キムジンド)さん。往年の力道山ファンには必見のスポットだ。「平和の梵鐘」も見もの。
下関市神田町2-9-11/Tel:083-231-6691/9時から17時
 

(写真)P17左/丘の上の路地に建つ光明寺。
(写真)P17下/右は筋骨隆々の力さん像。

小坂章子(こさか・あきこ)

1974年、長崎県壱岐市生まれ。
山口県立大学(旧・山口女子大学)文学部卒業。福岡市を拠点に活動するフリーライター。手仕事や伝統工芸、インテリア、旅、路地裏、暮らし、人物などをテーマに取材。著書に『徒然印度』、『福岡喫茶散歩』、『九州喫茶散歩』(いずれも書肆侃侃房)。
下関コリアタウンMAP

オソオセヨ!韓国情緒をたっぷり味わおう

●同和商会
●チャングム
●本場キムチ屋
●西山商店
●韓国家庭料理シオン
●長門プラザ
●肉の玉田
●河上商店
●やすもり本店
●邦楽座別館(グリーンモール商店街振興組合事務局)
●巴山商店
●赤提灯
●肉の和田金
●焼肉の優太郎
●ばか盛屋
●釜山門

(地図)下関コリアタウンMAP(横川功)


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下関→釜山→光陽→下関 W航路を最大活用して地球回りの韓国ツアー

今、下関には2つの韓国航路が就航している。
戦前からの航路が1970年に復活した
関釜/釜関フェリー(下関から釜山を毎日1便)と
2011年1月に新就航した
光陽(クァンヤン)フェリー(下関から全羅南道光陽)だ。
まさに国際都市(下関から中国青島・太倉との航路もある)の面目躍如。
下関発着だから可能なW航路を最大限に利用する旅を試みた。

文=福田章(本誌・編集人) 撮影=橘野栄二

(写真)P20上/釜山港外で朝を迎える関釜フェリー「はまゆう」。左端の島は、五六島。
(写真)P20左/「はまゆう」で出航のドラを鳴らす主席事務員の渡邉晃さん。

老舗航路の貫禄、関釜フェリー「はまゆう」で釜山へ

 関釜航路の歴史は古く、日韓新条約を機に山陽汽船が明治38年(1905)9月、「壱岐丸」を就航させたのに始まる。第二次大戦後に航路は廃止されたが、日韓関係の正常化にともなって復活の機運が高まり、昭和45年6月に復活。現在は日本側・関釜フェリー所有の「はまゆう」と韓国側・釜関フェリー所有の「星希(ソンヒ)」が相互に往来している。
 不肖私はかつて、「ナグネ大島」という筆名を併用していたことがある。ナグネは韓国語で「旅人」の意、大島は長崎県の故郷の島の名前。1984年夏、私は初めての海外旅行で韓国へ独り旅した。次第に興味が深まり、韓国を素材に文章を書くことも増えて、敢えて別名を使いたくなった。環日本海、及び東シナ海の民が日韓間をさまよっていると、国境が曖昧になってくる。そんな錯覚をおぼえたのも、最初の交通手段が関釜フェリーだったからかもしれない。出発前誰かに、「バナナを買っていくと釜山で高く売れる」とアドバイスされ、にわかポッタリさんの真似事もした。暑くて、一晩で真っ黒けになり、あまり商売にならなかったのは、ほろ苦きよき思い出。
 やはり、この航路にはドラマがある。しばらくは悠然と関門海峡を行く。争うようにしての一番風呂も、船旅の楽しさか。薄闇が次第に濃くなり、星がまたたき始める。ポッタリさんたちは、二等船室を我が家のようにして、弾けるパーティー。携帯電話も、まだいっときは日本のまま通じたりして、妙な問いを自分に投げかけている。「チグム オディエ イッソヨ?(今、どこにいるの)」
 今回、特別に操舵室を見学させていただいた。石川好茂船長の熟練の技。ただ窓越しに行く手を眺めているだけで誇らしい気分になってくるのも、こうした操舵室の、はたまた国際航路の魔力だろうか。2010年6月には、「関釜航路40周年記念シンポジウム」が下関市内で行われた。その中でパネリストの一人、女優の黒田福美さん(4ページから参照)から花束を贈呈されたのが石川船長。「あれは、いい記念になりました」。
 夜半2時くらいには、釜山港外へ到達。数時間後に白々と明ける中、釜山市街やタワーが目に飛び込んできて、「朝の鮮やかな国」の素顔が浮き上がってくる。下船したら、さっそく釜山名物の市場へでも行こうか。

最新航路の光陽フェリーで下関へ。麗水EXPOも期待大

 釜山から高速バスなどで西へ西へ。明るい風光の港町が続く。慶尚南道(キョンサンナムド)から全羅南道(チョルラナムド)に入った最初の街が光陽(クァンヤン)である。市街地へ入る前に蟾津江(ソムジンガン)という韓国有数の大河を渡った。
 光陽は白雲山(ペクウンサン)に見守られた人口約15万人の港湾都市。一貫製鉄所としては世界最大級規模のPOSCO光陽製鉄所で知られる一方、梅の一大産地でもある。
 あのぺ・ヨンジュン氏がお気に入りという「青梅農園(チョンメシルノンウォン)」を訪ねた。オーナーの洪雙理(ホンサンリ)さんはカリスマ農婦として全国的に有名らしく、大自然と梅の実への尊崇や愛情を、雄弁に詩的にユーモラスに語る。壺から出したてのものを試食させてもらった。甘酸っぱくて、あっさりしている。光陽は炭焼き牛肉も名物なのだが、その牛にもたっぷり梅の実を食べさせて飼育しているのだという。おかげでその日は、梅酒に梅風味の漬け物に梅育ちの焼き肉……と梅尽くしの一夜となり、ウメー(おいしい)を韓国語で連発した。「マシッソヨ」
 光陽よりさらに南側の半島にあるのが人口約30万人の港町麗水(ヨス)。文禄・慶長の役で朝鮮水軍を率いて日本軍と戦った李舜臣(イスンシン)将軍の本拠地だったところで、佐賀県唐津市と姉妹都市関係を結んでいる。この麗水では2012年5月12日から8月12日、海をテーマにしたEXPO「2012麗水世界博覧会」が開催される。躍進韓国の最先端テクノロジーを取り入れた楽しいイベントになりそうだ。これを機に同年5月、光陽と麗水の間に2260メートルの壮大な橋が架かる。その名も李舜臣大橋。最強の将軍がにらみを利かせる韓国南岸で、いずれ劣らぬ豊かな港町がタッグを組めば、新しい観光の目的地になるだろう。
 帰りは、そんな斬新な韓国旅行を演出しはじめた光陽ビーツ号に乗った。新航路かとばかり思っていたら、実は100年近く前に下関との間に航路があったという噂を小耳にはさんだ。全羅南道といえばいにしえの百済(ペクチェ)であり、日本とも特別にゆかりの深い地域。さもアリラン、いやありなんである。
 日本のどこかで見たような多くの人と出会い、美味美酒に酔って、古代を懐かしみ、未来を夢見たW航路満喫の旅が終わろうとしている。朝になり、船の舳先と関門橋が重なってくる。何か忘れ物したような気にもなったけれど、釜山だって光陽だって、下関からまたひょっこり訪ねりゃいいんだから、ケンチャナヨ(ノープロブレム)。

(写真)P21右上/再開第1便のフェリー関釜と見送る人々(1970年6月16日)。
(写真)P21右下/光陽港で出航間近の光陽ビーツ号。バックの橋は建設中の李舜臣大橋。
(写真)P21左上/関釜フェリー「はまゆう」の特別室。(写真提供=関釜フェリー)
(写真)P21左下/光陽ビーツ号のロイヤルスイートルーム。
(写真)P22上/光陽から蟾津江対岸の河東にある映画ロケ地、崔参判宅で見つけた顔出し看板。
(写真)P22中上/光陽の市場は10日に1回、移動式に開催される。梅売りのおばさんもいる。
(写真)P22中下/釜山の繁華街PIFF広場でVサインする女の子。
(写真)P22下/釜山の名所、チャガルチ市場。下関の唐戸市場と姉妹市場でもある。
(写真)P23上/「農業は作品、食卓は薬」と語る梅づくりのカリスマ、洪雙理さん(右)。
(写真)P23中/「2012麗水世界博覧会」の弘報館。
(写真)P23下/光陽ビーツ号で、まもなく下関入港。海峡ゆめタワーが見える。

関釜フェリー(毎日運航)

問合せ=関釜フェリー株式会社/Tel:083-224-3000

光陽フェリー

問合せ=サンシャインフェリー株式会社(日本側代理店)/Tel:083-228-6300

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民家でスロー&ディープに味わう 韓国料理

白いご飯が欲しくなる海の辛味。
「韓風おうちレストラン てじょん」のカレイの辛煮

 呉東出(オドンチュル)さんと金玉順(キムオクスン)さん夫妻、娘の明美さんと麗美さんは、家族そろって美男美女。加えて築20年のお宅に上がった途端、「ただいまぁ!」と口走ってしまいそうになる、この和みムード。さっそく座敷で常連の顔して、マッコリと「カレイの辛煮」を頼む。メニューに載っていないのに毎回「ある?」と聞かれて作るうちに定番となったという一品は、ほっくりした白身が香辛料と相まって滋味深い。肉厚な韓国風のお好み焼きパジョンも人気だ。リクエストをすれば、明美さんと麗美さんの伽耶琴(カヤグム)と杖鼓(チャンゴ)の生演奏が聴けるかも。ジーンと心にしみますよ。場所は下関短期大学正門前。

韓風おうちレストラン てじょん

下関市神田町2-13-3  Tel:083-223-2124  17時30分から23時  日曜休み

(写真)P24上/写真はカレイの辛煮1,050円。他にてじょんパジョン1,050円、イカキムチ420円など。

青唐辛子の衝撃と素材の旨みに開眼。
「Restaurant李's」のきのこたっぷりポソッチョンゴル

 石畳の短い坂道を上ると、趣のある一軒の邸宅と手入れのいきとどいた庭園が現われた。腰を落ち着けると、下関の夜景が目に入る。この贅沢なロケーションに緊張してメニューを開いたら、その良心的なお値段にびっくり! いちおしの「きのこたっぷりポソッチョンゴル」は、しめじやまいたけなどキノコ4種と野菜、味付肉がたっぷり入ったヘルシー鍋。「上の青唐辛子を取り除いてもいいのですが、それでは花火のない夏祭りのようなものですから」という中川賢虎オーナーの粋なアドバイスに従い、客のほとんどが青唐辛子入りで楽しむとか。杯がすすむサッパリ味の韓国鍋をつつきながら、この雰囲気に酔いしれたい。

Restaurant李's(れすとらん りーず)

下関市貴船町1-8-15 Tel:083-250-8696 17時から22時(オーダーストップ 21時30分) 火曜休み

(写真)P25上/写真は、きのこたっぷりポソッチョンゴル1,800円。他にプゴクッ(干しだらのスープ)380円、コースプラン3,000円から(要予約)なども。


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ツツウラウラ発おたより劇場

映画好きなので「映画の都」特集に飛びつきました。こんど下関でたくさん映画を観たいと思います。金子みすゞの記事も教科書以来でしたが、興味深かったです。改めて詩集を読むつもりです。
(18歳 女性 横浜市緑区)

東日本大震災後のテレビCMでよく聞いた金子みすゞさんが下関に関係のある人だと、『083』で初めて知りました。次回帰省する時は本誌で紹介された場所を訪れたいと思います。「下関ぶんか人物伝」の企画に感謝します。
(36歳 男性 川崎市高津区)

彦島生まれの長府育ち。故郷を離れて下関の素晴らしさを実感します。これほど魅力的な街は日本、いや世界広しといえど、なかなかありません。御誌も垢抜けたお洒落な雑誌です。初めて見る映画館「山陽倶楽部」の偉容にも圧倒されました。
(58歳 女性 千葉市花見川区)

第8号表紙が昔の映画のポスターのような手描きの絵だったことに感動! グさんの記事はとてもエネルギーをもらいました。
(28歳 女性 和歌山県有田町)

毎号楽しみにしています。機内で必ず読み、自宅へ持ち帰ります。家族(実家が福岡)も愛読しており、「もっといろんな場所においてあればいいのに」と申してました。
(34歳 女性 東京都葛飾区)

下関を離れて半世紀以上、下関の友人が『083』を送ってくれ、一気に読み通しました。味わい深い街です。これから電子ブックでバックナンバーも読みます。
(71歳 男性 千葉市緑区)

すばらしい雑誌です。下関にぜひ行ってみたくなる誌面です。私は大道芸人をしているので、必ず行きますね。覚えておいてください。
(46歳 男性 三重県鈴鹿市)

林望先生のファンです。鹿児島住まいで下関や広島へ行く時、御誌を手に入れて読みます。歴史的事件や人物史などの記事も載せて下さい。
(89歳 女性 鹿児島県南さつま市)

私は第8号に出ていた「花音」にエキストラで出演しました。通ってる長成中学校が写っていてうれしかったです!
(14歳 女性 下関市)

姉妹都市締結35周年イベントのお知らせ

下関市と釜山広域市は仲のよいチング(友だち)です。

どちらも天然の良港をもつ下関市と韓国・釜山広域市は1976年10月11日、姉妹都市の盟約を結んだ。35周年の節目の今年、下関駅前グリーンモール商店街付近に「釜山門」も新設された。さる7月末には韓国プロ野球の「釜山ロッテジャイアンツ」応援ツアーに多くの市民が参加し、同球団の本拠地「サジクスタジアム」で中尾友昭市長が始球式を行った。下関市民による「よさこい演舞」も拍手を浴びた。

◇海響マラソン:11月6日(日曜日) 釜山広域市民代表団を招待。
◇リトル釜山フェスタ:11月23日(祝日)
同市から文化芸術団体を招待。場所はグリーンモール商店街。
◇韓国語スピーチコンテスト:11月30日(水曜日)
成績優秀者は釜山市長賞を受け、同市に招待される。
下関市立大学で開催。
※すべて2011年

 

(写真)P26左/釜山サジクスタジアムで始球式をする中尾友昭下関市長(左端)。
(写真)P26右/試合開始前、「馬関奇兵隊」による元気な演舞も大喝采を浴びた。


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下関ぶんか人物伝 第3回 松田優作

圧倒的な個性と演技力で
1970から80年代を駆け抜けた俳優、松田優作。
身にまとう謎めいた魅力の源泉を求めると、
故郷の下関の海がひらける。
濃厚かつ撩乱たる俳優人生の幕があいた港町の路地を歩き、
母校を巡って、消えぬ面影を追う。(敬称略)

構成・写真=編集部

(写真)1976年、映画『暴力教室』(東映)に主演した頃の松田優作 (写真提供=共同通信社)

松田優作

1949年9月、下関市生まれ。72年、文学座演劇研究所に第12期生として入所。翌年、テレビドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ)に「ジーパン刑事」としてレギュラー出演し、不動の人気を得た。主な出演映画に『龍馬暗殺』、『蘇る金狼』、『野獣死すべし』、『家族ゲーム』、『ブラック・レイン』など。89年11月、膀胱癌のため東京・西荻病院で死去。
超倍速で駆け抜けた40年

 たとえば『太陽にほえろ!』(53話から111話に「ジーパン刑事」こと柴田純役で出演)の一場面。港から逃走するモーターボートを追いかけて、長い防波堤を走り続ける。もしかして追いつき、追い越すのでないかと思わせる。驚異の長足と脚力が、異次元級の走り幅跳びを予感させるのだ。あれを思い出すにつけ、松田優作往年の名演その舞台が、ふるさと下関の漁港に移り変わる。ここを走らせたかった。いいや実際、何ものかに憑かれたように、そこらの海岸を走っていたに違いないから。長い足で駆け抜けるには短過ぎる40年だった。
 昭和52年(1977)秋、角川映画『人間の証明』公開に先立つインタビューに際して、地元のある新聞記者はマネージャーから、下関時代のことは聞かぬようにと釘をさされたという。だが案に相違して優作は、自ら故郷の思い出を懐かしむように語った。ここに世間でよくいう「故郷への愛憎」を看るとするなら、優作の「憎」はどこにあるのだろう。最初の妻、松田美智子による評伝『越境者 松田優作』に次の一節がある。
 <部屋の掃除をしていた私は、床に落ちていた黒い定期入れを拾い上げた。古びた二つ折りの定期入れを開くと、片方には名刺が数枚入っていて、もう片方に は優作の顔写真の下に、「金優作」という文字がプリントされた、免許証のようなカードが入っていた。常時携帯が義務付けられている外国人登録証明書だった。>
 同書によれば、優作は「在日」という出自(1973年、日本国籍を取得)を存在の、あるいは生命の根幹に関わるほど気にしていたことがうかがえる。余人が軽々に評すべき事柄でないことは承知のうえで言えば、後年の輝かしい足跡は、差別を乗り越え、区別をも無化して余りあるだろう。

海を見ていた天才俳優

 グリーンモール商店街(4ページから、9ページから参照)からJR山陽本線のガードをくぐって今浦町へ。小誌でも紹介したことのある銭湯「えびす湯」や居酒屋「まんなおし」などが並ぶ付近に、「のはら写真館」がある。店主の野原むつ美は、少年時代の優作の姿をよく憶えていた。ひときわ目立つ大柄。それにしては、見せていただいた神田小学校の卒業写真では、隣の女子児童と変わらない。これについては、なぜか一段下に立っているのだろうとの推測で落ち着いた。
 その下関市立神田小学校を訪ね、次に上新地町の丘の上に立つ同市立文洋中学校を訪ねた。平日の夕方近く、運動場や体育館ではクラブ活動の真っ最中だ。のちの天才俳優の面影が少しずつ濃くなってくる。彦島大橋を渡り、同41年4月に入学した山口県立下関中等教育学校(当時は下関市立第一高等学校)へ回った。小・中・高と優作の母校を経巡れば、次第に海が近づく。ホップ、ステップして優作は高2の秋頃、ジャンプ一番母の強いすすめで渡米し、サンフランシスコの高校に編入した。第一高校時代の同級生だった関門汽船・顧問の植田泰史は、優作の実家にもよく遊びにいったという。
 「何事にも真摯ないい男で、将来の夢を語り合いました。松田は当時から俳優志望でした。しかしアメリカ行きは突然で、驚いた記憶があります」
 前掲の『越境者』にも同校の同級生3人(重井修二・本木俊行・吉田豊)が登場し、優作への愛情に裏打ちされた深い交遊の思い出を語っている。死なない優作が、いつまでも友の胸に住んでいる。

人々の胸に生き続ける、それぞれの優作

 人間・松田優作とは別に、あの無限に幅の広い演技力、人間のすべてを集大成したかのような表現力をもつ俳優・松田優作を憧憬し、敬慕する同業者や後進は多い。水谷豊、桃井かおり、古尾谷雅人、仲村トオル、香川照之、伊勢谷友介、松山ケンイチ……、まさに枚挙にいとまがなく、親愛の連鎖というものが感じられるほどである。
 小誌創刊号と第2号の表紙イラストを手がけたリリー・フランキーは筋金入りの心酔者といえる。例の「なんじゃこりゃあ!」ごっこができる自作画のTシャツもつくった。2006年5月には、NHK教育テレビ『知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』で4回、「松田優作 アニキの呼び声」の題で語った。最終回は『探偵物語』で優作と出会い、のちに結婚した女優、松田美由紀(長男は俳優の松田龍平、次男は同じく俳優の松田翔太)との対談で構成されていた。そのテキストからハイライトで。
 リリー 優作さんをリアルタイムで知らない人でも、優作さんをもっと知りたいっていう人が増えている。(中略)僕も小学生の頃から松田優作ファンで、一度もお会いしたことはないけれど、なにかあると叱ってくれる松田優作的なものが心の中に宿っていました。それは他のファンの人にも均等に棲みついていて、影響を与えていると思います。
 美由紀 たまに優作のいないところに隠れたくなるけど、どこに隠れても必ず優作はいるのよ(笑)。(中略)優作のように映画を愛した人はいなかったと思う。でも優作は、映画の中の優作よりも美しい人だった。
 冒頭近く、<短過ぎる40年>と書いた。しかし、それは正しくないようだ。濃く生きて、深く人々の胸に残る。時間の長短では測りがたい、撩乱たる松田優作劇場。その幕が開いたふるさと下関へ、こんどはそこまで命削らずに帰郷し、懐かしい路地の銭湯や居酒屋でゆっくり、ゆっくり、過ごしてほしい。

主な参考資料

『松田優作全集』(松田美由紀編著/幻冬舎)
『越境者 松田優作』(松田美智子/新潮文庫)
『知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』2006年4月5月火曜テキスト(NHK出版)

(写真)P28/現在の神田小学校
(写真)P29右/現在の文洋中学校
(写真)P29左/現在の下関中等教育学校(彦島大橋より)
(写真)P30/下関駅前の地下道へ続く階段


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リンボウ寸言 次号予告 アンケート&プレゼント

リンボウ寸言『もうひとつの懐かしさ』

林 望
 いつか韓国へも旅行をしてみたいと思うけれど、未だ実現しない。しかし、下関にリトル釜山があるのであれば、これはぜひ見参せねばかなうまい。もっとも、体の都合で最近は脂っけのあるものは食べられないので、旨そうなコリアン料理を見るだけというのは哀しいかもしれぬ。そもそもが、日本と朝鮮半島とは、往昔から深い深いご縁があって、日本文化だと思っているものが、実は半島からの渡来文化だったなどということは珍しくない。日本語の基本語彙のなかにも、ハングル語由来のものは結構ある。それ故、一時不幸な関係にあった両国の歴史が、いまはすっかり善隣友好の絆に結ばれているのは嬉しいことで、その絆の結び目に下関がある。

アンケート&プレゼント

 『083』は今これを手に取られたあなたのための情報誌です。つねに深い眼差しを心がけて、皆さまの役に立つ情報を、ワンテーマ方式で下関市から発信してまいります。第9号についてのご感想、及び今後特集してほしいテーマやとっておきのお知らせなどを、綴じ込みハガキでお寄せください。アンケートに回答いただいた方の中から抽選でA.「スターフライヤー」の北九州から東京羽田間ペア往復航空券目録を1名様に、B.モデルプレーンを5名様に、C.12ページで紹介した「やすもり本店」のとんちゃん鍋セット(3人前)を3名様に、D.12ページで紹介した「邦楽座別館」から韓国製 It's skinスキンケア5点セット(ポーチ付き=写真)を3名様にプレゼントします。応募締切は平成24年2月29日消印有効。当選の発表は発送をもって代えさせていただきます。なお、応募はお一人様1号につき1通に限らせていただきます。複数応募は無効となりますので、ご注意ください。

次号予告(2012年3月1日発行予定)
決闘の聖地

歴史の転換点に必ずといってよいほど表舞台となる下関。
2012年は巌流島での宮本武蔵vs佐々木小次郎決闘から400年。
NHK大河ドラマは『平清盛』が放映される。
その他、重要な出来事とその背景を「決闘」というアングルから描きだす。

下関の情報を航空機内で 本誌『083(ゼロハチサン)』を配布

 本誌『083』は北九州空港と東京羽田空港を結ぶスターフライヤー便の機内でも配布されています。北九州空港を発着する航空便は、東京便が3社で1日16往復と、わが国の国内定期路線では最も朝早く飛び立ち、最も夜遅く終着を迎える路線として関門・北九州地域の観光、ビジネスの足となっています。 また、下関市内から北九州空港までは、連絡バスや乗合いタクシーが運行されています。2つの韓国航路をもつ国際都市として観光に力を入れる下関市では自然、歴史、文化をはじめとするすばらしい地域資源をひとりでも多くの方に知っていただくため、株式会社スターフライヤーの協力を得て、同社の北九州から東京羽田線の機内で本誌『083』を2010年1月から乗客の皆さんに配布しています。

083 ゼロ ハチ サン うみ やま たいよう VOL.9

2011年9月1日発行
編集人=福田章 ディレクター=大野金繁 デザイン=山田一成
編集委員=林 望
発行=下関市 〒750-8521 山口県下関市南部町1番1号  Tel:083-231-2951(総合政策部広報広聴課)
制作統括=サンデン広告株式会社 印刷=株式会社アカマ印刷 協力=下関市の皆さん
アドバイザー=
下関フィルム・コミッション 常任委員長 冨永洋一
九州芸術学館山口校 代表 伊藤丈年

○バックナンバーのご希望は、下関市までお問い合わせを。
創刊号、第2号、第3号、第5号、第7号は在庫切れです。
Tel:083-231-2951(総合政策部広報広聴課)
○下関市ホームページからも電子ブックで『083』が読めます。
http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/083/

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