コンピュータを使っていて、アプリケーションのバグに遭遇することはあまりにも日常的で、バグに出会わないで一日終えるなら、それはラッキーである。アプリケーションではなくOSにバグがあることもあり、あるいは、CPUの命令セットのマイクロコードにバグがあることがある。人間が作っているのだから仕方ないのである。
それではと、こういう設定を考えてみた。私が人生の問題に悩んで、気の置けない友人に相談に行く。そして、いろいろい悩みを打ち明けていると、突然友人がこういうのである。「仕方がないだろ、人生のバグだよ。俺は忙しいんだから、行くね。」と言われたら、私は呆然として、しばしそこに佇むだろう。
そこであんな奴もう友達なんかじゃないと悪態をつくのだが、ちょっと気持ちが落ち着くと、さて人生のバグとは何だろうと沈思し始める。
一番わかりやすいのは、人生のバグとは社会制度の欠陥であると考えることである。そのため、ルソー、サン・シモン、ロバート・オウエン、バクーニン、クロポトキン、マルクスなど、私の限られた知識ではあまり思いつかないのだけれども、多くの思想家が、社会制度の欠陥を人生のバグとみなした。
それでいいのかというと、当然に私は納得しないで、今度は仏教に至る。そこでは、人間の煩悩そのものが人生のバグであって、バグを少しでも減らすことが悟りへの道である、ということになる。
いやいや、とさらに思索は続く。物理法則の近似性によると、どんな法則も真実の法則の近似に過ぎないので、それがバグ(というよりも近似誤差)になる。
ただ、物理法則の近似性というとき、それは何か完全なもの、すなわち定義的な神を想定し、そのからの差分を考えている、ということになる。
しかしである、不完全さが宇宙の、神の本質だったらどうするか、と変な考えが浮かんだ。すなわち、バグそのものが法則に内在していると考えるのである。
それは、完全性の概念への挑戦であり、完全性と不完全さの対立を止揚することを意味するのだが、それは単なる不可知論と何が違うのかと、私の粗雑な頭ではこれ以上なにも考えられなくなってしまうのであった。
>人間の煩悩そのものが人生のバグ
同意。
日々煩悩に悩まされっぱなしです…
煩悩なんて気にせずもっとストイックに生きたいですね
4年半前の記事にいきなりコメントしちゃってごめんなさい(・_・;)
6Bさん
> 4年半前の記事にいきなりコメントしちゃってごめんなさい(・_・;)
コメント、ありがとうございます。
なんか私自身もこんな記事を書いたのを忘れてました。