ロジカルノーツ - logical notes

自分の言葉でものを伝えよう

【寄稿】美術作家になった経緯

こんにちは。はじめまして。

 

美術作家杉本圭助と申します。


この度、ロジカルノーツ様より寄稿の依頼があり、記事を書かせていただきます。

 

正直、文章を書くことはこれまで避けてきました。美術作家である以上、言葉より感覚が先立たなければならないという意識があるからです。ただ、ふと ‘書こう’ と思ったので書きます。

 

僕がどういう仕事をしているかは下記の展覧会のリリース展示画像を見てください。

 

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※ 画像をクリックすると、プレスリリース

 

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※ 画像をクリックすると、インスタレーションビュー

 

美術というのは社会に提示される物事の中で、一番最先端の感覚を司るものだと思っています。美術作品から始まり、デザイン思想と形をかえ、社会を形成してゆく。


その初めの部分を担う人間に僕はなりたいです。

 

僕は“仕事は社会への働きかけ”だと考えています。どんな仕事でもです。僕の場合は、作品を作り、人に見てもらうことで社会への働きかけを行っています。


このように考えれるようになったのはごく最近の事です。作るのが楽しかったというのが原点です。そして、作品を発表し、社会に働きかける事より高次の作品を作れるようになる。それがこの仕事を続けている所以です。

 

では、そのような考えに至った経緯をお話しできればと思います。

 

大学入学前

 

小学校、中学校地元の公立校でした。親が教育熱心だったこともあり成績は学年トップ、運動はあまりできない子供でした。習い事は嫌というほどさせられていました。書道、絵画教室、スイミング、地域のソフトボール、ドラム。この頃は美術に対して、そこまで意識することはありませんでした。どちらかというと才能があると言われたことは一度もなかったです。学校では学級委員などもし、どちらかというといい子キャラでした。いい子でいなきゃという意識が強かったからか絵を描くときも思い切りが良くなかったのかなと思います。

 

そして、高校大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎という長ーい名前の高校に入りました。いわゆるエリート進学校です。高校に入ってすぐのテストでは学年で20番ぐらいで、このまま行ければ京都大学や医学部に行けるような立ち位置でした。しかし、これまで1位を取り続けていた自分の自信は打ち砕かれました。大海を初めて知りました。そして、天王寺に電車で行くという誘惑だらけの通学路は僕を別の方向へと導いていきます。

 

まず、髪を染めました。そして、それまで細々と続けていたバンド活動や大好きだった洋服、地元のだんじり祭り女の子とのデート、それらを賄うためのアルバイトに僕の情熱は注がれていきます。学校のテストがある度に平均点は10点ずつ下がっていきます。そして点数表には赤い文字が徐々に増えはじめていきます。


絵はそこまで描いていませんでした。たまに無性に描きたくなり、小学校の時にお世話になっていた先生のアトリエに遊びに行っていたくらいです。中村淳子さんという先生なのですが、基本的には好きに描かせてくれます。自分の見たように、面白いと感じたように描くことが正しいという教室でした。

 

そして高校2年生の終わりになった頃、将来を考えるようになります。偏差値は38、学年でも下から10番程の席次でした。音楽や絵は続けていたので漠然と芸大面白そうと思っていました。そして親に、芸大にいきたいと言いました。もちろん大反対です。高校が進学校ということもあり、周囲の人全員に反対されました。多分、そこまで芸大への情熱がなかったのでしょう。なんとなくお洒落そうで格好良さそうな建築学科に行こうと決めました。そして目標を神戸大学にしました。無謀です。偏差値38ですから。

 

周りの友人から情報を集め、教科ごとに別の塾に行って勉強しました。自分は集中して勉強をするタイプです。勉強の合間に友達と遊びに行ったり、学校の文化祭音楽祭を頑張っていました。あと、芸大について調べていた時に画廊という存在を知り、息抜きに展覧会を見に行っていました。画廊はお店なので、無料で最先端の現代美術を見ることができたのがとてもありがたかったです。こんな画廊で展覧会できたらいいなあと思っていました。また美術に関する本をいくつか読み、憧れの人を何人か見つけることができました。

 

そして神戸大学建築学科に現役合格しました。

 

大学入学、悩み、そして休学へ


大学に入ってからは思い描いていた大学生活とのギャップに悩みました。


まず、建築学科なのですが、神戸大学には当時、デザイン専門の先生がいなかった。工学中心でクリエイティブな部分があまりなかった


淡々とそれなりに授業を受ける日々が続きます。2回生になる頃には大学に多くを求めないようになりました。ここで僕の徘徊癖が目を覚まします。高校生の頃からなのですが、あてもなくブラブラ色んなお店に行ったり街をあるいたりします。主に骨董屋本屋服屋画廊が対象です。買い物もせず、遊びに行って話をする。このようなことを繰り返していました。


ある時、とある方にクラブイベントフライヤーのデザインをやってくれないかと言われました。それなりにデザインソフトが使えた僕は(今思えば、子供の遊び程度の技術しかなかったです)やりますと即座に返事をしました。怒られたりもしながら少しづつ勉強し、無事やり遂げました。先日この時の仕事を見たのですが、ひどい出来でした。よくお金をもらえたなと思います。仕事をする、お金をもらうことに関して詰めが非常に甘かったです。それで調子に乗った僕は徘徊で得た人脈を使い、小銭稼ぎをするようになります。


学校の授業への興味はどんどん薄れていきます。設計の授業でも何か面白いことはできないかとプレゼンに工夫をこらせてみるも、どれも設計の本筋から外れているからか良い評価はもらえませんでした。デッサンの授業では好きに描くが故、いつも落第点でした。

 

中村先生アトリエの鍵をくれていたので、暇なときはそのアトリエで絵を描いていました。

 

また、大学入学以降、休みの度海外旅行に行っていました。2ヶ月の休み最初の1ヶ月をアルバイト残り1ヶ月を海外旅行といった具合です。特別な目的を持っていたわけでなくただ単純に海外の美術館でみる絵画建物が面白かった、知らない街を徘徊して何かを探すのが楽しかったです。


そして、スッキリしない2回生を過ごす中で、将来のことをゆっくり考えるために1年間の休学を決意します。

 

休学中


この期間にやろうと思っていたことは主に2つです。

 

  1. 自分が作りたいと思っている絵や立体の作品をとことん作ってみる
  2. 海外旅行に行く


その2つをこなす中で、本当に建築を仕事にするのかどうか考えようと思いました。

 

この1年は自分の人生の中で非常に重要でした。


まず、人生初の丸坊主。親にこの子は大丈夫かと泣かれたのを覚えています。

 

そして1年の休学期間を過ごし、建築をもうちょっとがんばってみようと思いました。

 

復学後

 

ただ、復学した僕は前述したジレンマに悩み、悶々と自分を律する日々が続きます。


建築学の影響というのは僕に色濃く残っていると思います。大学で美術を学んでいたらどうなのかというのははっきりわかりませんが、他の作家と話をしていると経験の種類が違うなと思います。今でも建物は好きですし、海外を旅行する際には都市計画建物といった空間を見るために場所を選ぶことが多いです。建物たくさんの人が関わって作られるものですし、政治的な影響力も多大に受けているものだと思います。大学の授業は3回生からちゃんと受けるようになりましたが、建物に触れるきっかけを作ってくれたというぐらいです。自分が興味を持って勉強しようとするかどうかが大切なのではと思います。

 

そして21歳の頃、とある方に“人生の半分以上仕事だよ” “芸術家は自分が芸術家と思って作品を作り続けていれば芸術家になれる”と言われたことをきっかけに現代美術作家になろうと腹を決めます。

 

大学も辞めようかと思ったのですが、まだここで学べることがあるなと直感的に思ったのとこのままやめればキャリアとして普通だなと思ったので在学しながらやれることをしようと思いました。


そこから、美術の目線でどのように空間を作るかという事に意識が向きます。在学中にすべき事が見えました。


4回生の頃に厳夜祭という神戸大学の深夜の文化祭に参加しました。ここで、教室を丸々1つ借り、一晩でペインティングを施し、空間芸術とする作品を作りました。この時はたくさんの同級生が手伝ってくれました。僕の無茶振りに対しても、我を出さず、逆にこちらの意図を汲み取ってくれようとする、最高の仲間だったと思います。


そして大学の卒業論文と絡めた形で空間芸術の作品を作ろうと思い立ちます。この頃、僕らの学科では、有志で卒業設計の展覧会をすることが常になっていました。その場を借りて、自分の意志を示せたらなと思いました。


同級生の他のメンバーとは揉めました。やはり卒業設計展なので本筋から外れることをするのはコンセプトに反するのではという意見が出ていました。話し合いを重ねてなんとかみんなに受け入れてもらうことができました。この時のメンバー達の懐の深さには本当に感謝しています。


展覧会での反響はありました。とある教授が“これも建築なんだよ”と言ってくださった事が印象に残っています。

 

大学卒業後

 

そして、大学を卒業した僕はいくつかアルバイトを掛け持ちしながら作品制作に打ち込みます。わずかながらの作品資料を持ち、画廊や美術関係の方々に話を聞きにいきます。基本的には門前払いです。これは後から知った事なのですが、僕のような美術教育を受けてない人の作品アウトサイダーアートという文脈に分類され、一般的な美術の目線ではあまり語られる事のないものでした。


しかし、2000年代に社会ではアートという言葉美術だけでなくファッションインテリアなど、別の業界と交差していく潮流が起こり始めます。

 

大学時代に徘徊する事で得た細い人脈を利用し、何人かの人とお話をします。


貸し画廊等でお金を払い、展覧会をする事もできましたが、あまりそこに意義を感じませんでした。やっぱり人に認めてもらい、展覧会をする事に重要な意義を感じていました。


その中で、当時本屋業界に旋風を巻き起こしていたユトレヒト江口さんと出会いました。


ちょうど東京青山ギャラリー兼、本屋さんをオープンするところで、そこで展示をしてみないかとお話をいただきました。それが自分にとっての初めての個展です。ノウハウも何もありません。ちょうど100万円ほどの貯金はあったので、それを全てつぎ込み、やりたい事をとことんしました。江口さんに申し訳ないぐらいに全然売れなかったです。ただ様々な方が来てくれて、感想や意見を聞く事ができました


その後、別のご縁で群馬エスティーカンパニー(アパレル)環さんという方とお話をしていた時に、“使っていないスペースがあるのでそこで何かしてみない?”と言っていただきました。地元のお祭りと絡めて展覧会をしました。たくさんの人に見ていただけてよかったですが、特段に作品が売れたわけでもなく、悔しい思いと申し訳ない思いが残りました。


“まだまだ作品の力が足りない”と制作に没頭する日々が続きます。


ヨーロッパパフォーマンスをしに行ったり、思いつく限りのことは全てしました

 

そうして1年ほど経った頃、大学時代の同級生から連絡があります。いつも展覧会や作品の映像を撮っていただいていた友人です。大阪堀江PULPというギャラリースペースをオープンするそうで、こけらおとしに展覧会をしてくれないかという事でした。ちょうど未発表の作品もたくさんあったので引き受けました。場所柄もあり多くの方に見に来ていただく事ができました


展覧会をする度に、いくつかの画廊には招待状を送っていました。門前払いだろうなと思いつつですが。そして、この時の展覧会を見に来てくれていたのが今、お世話になっている児玉画廊児玉さんです。招待状の絵を見て、何か気になったとおっしゃっていました。この画廊、僕が高校生の時に訪れていまして、いつかこんな所で展示をしたいなと思っていた場所です。この時、これまでの自分の作品の資料をお見せし、一生懸命説明したのを覚えています。それから何度かお話をし、児玉画廊さんで展示をさせていただける事になりました

 

メッセージ


簡単ではありますが、これが今の僕にいたる経緯です。

 

美術生活であり仕事です。皆さんにとっても仕事がそうであるように、別に特別なことではありません。

生きるならとことん生き尽くしたいというのが僕が大人になる過程で出した結論です。


そのためには安定を求めない事が大切だと思います。安定という言葉はこの道を選ぶにあたり耳がタコになる程、様々な方に言われた言葉です。糞食らえです。不安定を求めろと言っているわけではありません。僕は安定=退屈と思っています。人間は退屈(=安定)を嫌うものだとも思います。僕にとって、退屈せず熱くなれる仕事美術です。


そして、自分に素直に仕事をする事自分が納得いくまで仕事を突き詰める事、これらが僕が継続していくべき姿勢です。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

 

 (美術作家 杉本圭助)

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