2020年01月04日

彼が見たもの

私の依頼人カルロス・ゴーン氏は、2019年12月29日、保釈条件を無視して、日本を密出国した。同月30日付けワシントン・ポストによると彼は次の声明を出した:
私はいまレバノンにいる。もう日本の八百長司法制度の人質ではない。そこでは有罪の推定が行われ、差別がまかり通り、そして基本的な人権は否定される。これらは日本が遵守する義務を負っている国際法や条約に基づく義務をあからさまに無視するものである。私は正義から逃れたのではない。私は不正義と政治的迫害から逃れたのである。私はようやくメディアと自由にコミュニケートできるようになった。来週から始めるのを楽しみにしている。

彼が日本の司法制度についてこうした批判を口にしたのは今回が初めてではない。東京拘置所に拘禁されているときから、彼は日本のシステムについて様々な疑問を懐き続けた。彼は日本の司法修習生よりも遥かに法律家的なセンスのある質問をいつもしてきた。

「そんなことで公正な裁判(a fair trial)は期待できるんだろうか?」

彼はなんどもこの同じ質問をした。そのつど私は日本の実務について、自分の経験に基づいて説明した。憲法や法律の条文と現実との乖離についても話した。

「・・・残念ながら、この国では刑事被告人にとって公正な裁判など期待することはできない。裁判官は独立した司法官ではない。官僚組織の一部だ。日本のメディアは検察庁の広報機関に過ぎない。しかし、多くの日本人はそのことに気がついていない。あなたもそうだ。20年間日本の巨大企業の経営者として働いていながら、日本の司法の実態について何も知らなかったでしょ。」

「考えもしなかった。」

「逮捕されたら、すぐに保釈金を積んで釈放されると思っていた?」

「もちろん、そうだ。」

「英米でもヨーロッパでもそれが当たり前だ。20日間も拘束されるなんてテロリストぐらいでしょう。でもこの国は違う。テロリストも盗人も政治家もカリスマ経営者も、みんな逮捕されたら、23日間拘禁されて、毎日5時間も6時間も、ときには夜通しで、弁護人の立ち会いもなしに尋問を受け続ける。罪を自白しなかったら、そのあとも延々と拘禁され続ける。誰もその実態を知らない。みんな日本は人権が保障された文明国だと思い込んでいる。」

「・・・公正な裁判は期待できないな。」

「それは期待できない。しかし、無罪判決の可能性は大いにある。私が扱ったどの事件と比較しても、この事件の有罪の証拠は薄い。検察が無理して訴追したことは明らかだ。われわれは他の弁護士の何倍もの数の無罪判決を獲得している。弘中さんも河津さんも、著名なホワイト・カラー・クライムの裁判で無罪を獲得している。だからわれわれを信頼してほしい。必ず結果を出してみせる。」

私は思っていることを正直に伝えた。彼は納得してくれたように見えた。

しかし、手続きが進むにつれて、彼の疑問や不安は膨らんでいったようだ。一向に進まない証拠開示、証拠の一部を削除したり、開示の方法に細々とした制限を課してくる検察、弁護人に対しては証拠の目的外使用を禁じる一方で、やりたい放題の検察リーク、弁護人の詳細な予定主張を真面目に取り上げないメディア、「公訴棄却申し立て」の審理を後回しにしようとする公判裁判所、いつまでも決まらない公判日程、嫌がらせのようにつきまとい続ける探偵業者などなど。彼は苛立ちの表情を見せながら私に質問してきた。しかし、徐々に質問の頻度は減っていった。

とりわけ、妻キャロルさんとの接触禁止という、国際人権規約に違反することが明白な保釈条件が、どんなに手を尽くしても解除されないことに、彼は絶望を感じていた。

「これは刑罰じゃないか。一体いつになったらノーマルな家族生活を送ることができるんだ。」

この正当な問いに私はきちんと答えることができなかった。「努力する」としか言えなかった。

弁護人の事務所で弁護人立ち会いのうえでわずか1時間Zoomでキャロルさんと会話することすら認めないという裁判官の決定を知らせたとき、彼は力なく「オーケー」というだけだった。怒りの表情すらなかった。

それが12月初旬のことだった。

クリスマス・イブの昼下がり、島田一裁判官が1ヶ月ぶりに認めた妻との1時間のビデオ面会に私は立ち会った。二人はお互いの子どもたち、親兄弟姉妹その他の親族や友人、知人ひとりひとりの近況や思い出話を続けた。話題が尽きない。そろそろ制限時間の1時間が経とうとするとき、彼はノート・パソコンの画面に向かって言った。

「君との関係は、子供や友人では置き換えることはできない。君はかけがえのない存在だ。愛してるよ、Habibi。」

私は、日本の司法制度への絶望をこのときほど強く感じたことはない。ほとんど殺意に近いものを感じた。

「カルロス、とても申し訳ない。本当に日本の制度は恥ずかしい。一刻も早くこの状況を改善するために私は全力を尽くすよ。」

返事はなかった。彼は私の存在などないかのように、次の予定を秘書と確認していた。

その1週間後、大晦日の朝、私はニュースで彼がレバノンに向けて密出国したことを知った。まず激しい怒りの感情がこみ上げた。裏切られたという思いである。しかし、彼がこの国の司法によって扱われてきたことを思い返すと、怒りの感情は別の方向へ向かった。実際のところ、私の中ではまだ何一つ整理できていない。が、一つだけ言えるのは、彼がこの1年あまりの間に見てきた日本の司法とそれを取り巻く環境を考えると、この密出国を「暴挙」「裏切り」「犯罪」と言って全否定することはできないということである。彼と同じことをできる被告人はほとんどいないだろう。しかし、彼と同じ財力、人脈そして行動力がある人が同じ経験をしたなら、同じことをしようとする、少なくともそれを考えるだろうことは想像に難くない。

それは、しかし、言うまでもなく、この国で刑事司法に携わることを生業としている私にとっては、自己否定的な考えである。寂しく残念な結論である。もっと違う結論があるべきである。

確かに私は裏切られた。しかし、裏切ったのはカルロス・ゴーンではない。

*これは私の個人的な意見であり、弁護団の意見ではありません。


コメント一覧

1. Posted by 諦めない   2020年01月04日 12:47
5 この国では刑事被告人にとって公正な裁判など期待することはできない。裁判官は独立した司法官ではない。官僚組織の一部だ。日本のメディアは検察庁の広報機関に過ぎない。
そう、特に日本のメディアの偏った報道にはうんざり。政治も検察も腐ってる。
この国は落ちるところまで落ちないと分からないらしい。
正論いい続けたって何も変わらない。なら壊す事から始めるべき。諦めず行動する姿勢、応援しています。
2. Posted by やっら   2020年01月04日 13:04
5 「裁判所の門をくぐるものは一切の希望を捨てよ」(『絶望の裁判所』瀬木比呂志)魔女裁判が生きている日本。
3. Posted by 高野先生へ   2020年01月04日 14:05
5 先生の想いに激しくうたれました。何度も読み返し、涙を流しました。泣きたい訳でなく、勝手に溢れてくるのです。

先生の心の叫びを感じ、想い、そして泣きました。

同時に、最後まで先生を含め弁護団を信じる事が出来なかったゴーン氏に多少の怒りを感じました。勿論、彼の置かれた状況を想えば狂っていてもおかしくありません。しかし、やはり最後まで信じて欲しかった。

ゴーン氏が最後に「返事はなかった。彼は私の存在などないかのように、次の予定を秘書と確認していた。」というのは非常にショックでした。もし自分が同じ状況なら、そうしたかもしれないにも関わらず、それでもショックでした。

何故なら、先生の文章は最後まで弁護人としての使命を全うしていると思えたからです。ゴーン氏の態度に複雑な想いもあったでしょう。

それでも先生は最後まで弁護人であり続けたのですね。
本当に、本当にお疲れさまでした。
4. Posted by 違和感あります   2020年01月04日 14:11
3 何か違和感があります。
ゴーン氏は、15年以上日本に関わっており、
日産自動車という企業のCEOまでやった方
が、日本の司法に対してこの程度の認識しか
ないのですか。
そういった国で、長々とビジネスと行わず
早めに撤退するべきだったのではないでしょうか。
5. Posted by Dr.PS13kai   2020年01月04日 14:24
3 昨年10月の「無罪となる可能性のある証拠の保全棄却」が決め手と思われます。再審の壁は厚く、刑期満了後関わった司法関係者の死去もしくは、更迭(失脚)となってから「無罪となる可能性のある証拠」が採用され冤罪が解消されるこの国が変われるのか一縷の望みでした。欧米の司法制度がゴールとは思いませんが、現状の問題点を解決する努力は継続する決意をお持ちなんだなと捉えました。支持する人々の大多数は「サイレントマジョリティー」(無関心な人々も白紙委任しているとして混ぜていいと思います)なので、非難する人は歯牙にかけないでください(釈迦に説法かな)。高野さんや弘中さん等々及び、それらの方々を支えるスタッフ各位を応援します。
6. Posted by tet   2020年01月04日 14:58
5 いわゆる上級国民だけは欧米並の待遇を受けられているのかな?元農水次官が保釈されたり、元院長が逮捕されなかったり。
7. Posted by はてなブックマークの   2020年01月04日 15:15
本記事に対するコメントへのご意見をお伺いしたいです。
https://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/plltakano/archives/65953670.html

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