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だい

Author:だい
大阪で、日本軍「慰安婦」問題のことを考え、行動しています。

イアンフ・アクション・オオサカ、もりナビ(守口から平和と民主主義を考える会)の主催者のひとり。日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク、子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会所属。

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どの世界の片隅に?~映画『この世界の片隅に』現象を批判する

2020/01/03 16:58:00 | 映画の感想 | コメント:-件

 片渕須直監督作品・映画『この世界の片隅に』(2016年版)を観た。3年前に制作されたこの映画をこれまで観ていなかったのは、漫画家こうの史代のモヤモヤとする「あやうさ」に気付いていたからで、いまになってみようと思ったのは友人から「天皇家があの映画を観てえらいニュースになっとる」と知らされたからだ。その友人は映画の批判をしたがっているが、彼も映画を未見、私も未見。観ていないものをあれこれ批判するわけにもいかないので、自分の中に巣食う正体不明のモヤモヤを突き止めるためにも、これを機に観たわけだ。
  私はこうの史代の単行本『夕凪の街 桜の国』を発売時に読んでいて、電車の中にも関わらず号泣したという体験を持つ。しかし自分の涙の正体の中に少し引っ掛かるものがあったのも確かで、その後のこうの史代現象を見ると余計に「あやうさ」を感じないわけにはいかず、そして今回の映画『この世界の片隅に』現象である。いつまでも逃げてはいられないだろう。自分の気持ちの整理をするにも、いい機会だったと思う。
 なお原作マンガは未見。ネットで見るとずいぶん物語も端折られているようで、それは映画を観ただけでもずいぶん想像できるが(そして端折られているところがむしろ面白そうな気もするが)、この現象はアニメ映画に負うところが大きいので、映画だけを観て多くの人が感じたことを追うだけでも十分と思う。原作マンガは何かの機会があれば読みたいが、今すぐ読みたいとまでは思わない。

 私はアニオタなので、基本的にアニメ作品には評価が甘い。そして率直に言えば「とてもいい作品だった」と思う。
 まず主人公のすずのつくりがいい。「わしはぼうっとしとるけ」と言いながらも月日とともに屈折していくさまが、その屈折の度合いが見え隠れする体が、とてもいい。特に右手を喪って、戦時中に起こる様々な苦難に対して周囲の誰もが「(その程度ですんで)よかった」と声をかける時、主人公のすずはぼうっとして何も感じないように見えて心の底に鬱屈を溜め、「なにがよかったの!」と噴出する。戦争のことを淡々と描いているようで人の心をひっかく仕組みが、この主人公のキャラ設定にあるといっていい。とてもこうの史代らしい巧さだと、私は思う。
 その主人公の声を演じたのんも、とてもよかった。私は声優以外の者が声をあてるのを好まないが、この映画に関して言えば、のんの演技には素直に賛辞を贈りたいと思う。
 演出もいかしている。片渕須直監督らしい凝った演出で、よころびにも悲しみも怒りも極彩色の絵の具で彩られていく演出には感銘を覚えた。それに緊張と緩和の使い分けも絶妙にいい。これもさすが妙手・片渕監督である。他にも観客の気持ちを惹きこむ仕掛けが随所にあり、アニメ史に残るいい作品だと思っている。
 テレビで放映されていたら、また観るだろう。

 では私のモヤモヤとはなにか。「あやうさ」とはなにか。それもこの映画を観て、はっきりと自覚できた。
 映画にしても小説にしても、物語を紡ぐときにどんなキャラクターをすえて、どんな舞台設定にするか、それは作り手の思想の表出である。ストーリーだけが思想ではない。一見いい物語のように見えても、それが閉じられた世界観の中での「いい物語」であれば、おのずと限界があるのではないか。
 このすずの物語は、呉という閉じられた世界での物語である。軍港であり、夫は海軍の軍法会議の書記官、義父は広海軍工廠の技師、周囲も何かしらの軍関係者である。敵は海の向こうの空からやってきて、爆弾を落としたり機関砲を撃ってきたりする、一方的で顔の見えない存在だ。戦争に行って石になって帰って来た兄さえ、そこで何をしていたか知りようがない(知ろうとしない)。主人公のすずは鬱屈し歪むが、それは自分のいる世界観の否定にまでは、絶対に行きつかない。
 「絶対に行きつかない」ということが重要なのである。なぜならそれが受け手(観客)の安心につながるから。
 この世界観の登場人物は、戦争反対の意志を示して憲兵に引っ張られて拷問されることもない。教育勅語を覚えられないために殴られる子どもも登場しない。もちろん呉や広島に大勢いた朝鮮人・中国人も登場しない。だれも戦争の責任を追及しない。閉じられた、ゆるい世界観。ゆるさを破られるのは空襲だけ。そうしてその空襲にすずは手を引いていた姪っ子を喪うが、その死にだれも責任をとらなくていい世界観の中で、主人公は生きている。どんなに痛切につらいシーンでも、世界観は破られることがない。受け手はそのゆるぎない世界観の中で、安心して涙を流す。
 唯一世界観を破られるのが、終戦直後、裏山に高く上がった太極旗の存在だ。何の説明もなく表れたそれは、はっきり言ってなくてもよかったと思う。なくても物語は何の支障もない。ウィキを見ると 《裏山の畑からふもとに太極旗がひるがえるのを見たすずは、それまで正義の戦争と信じていたものの正体が、ただの暴力に過ぎなかったことに思い至り、「何も知らないまま死にたかった」と独白し泣き崩れる》とある。私はマンガを未見なので、その判断は保留したい。映画を観ていた時に私は「何も知らないまま死にたかった」というのは、戦争によって自分が歪んでしまったことへの怒りなのだと受け止めた。そしてそれでも太極旗の画を挿入したのは、片渕監督の「世界観を破りたい」という意図の表われなのではないかと勝手に想像している。もちろんそんな画一枚で、世界観は破れなどしないのだが。
 話はそれたが、その閉じられた世界観が「あやうさ」の正体である。
 登場人物たちは戦争の犠牲者ではあるかもしれないが被害者ではない。そこに加害者は存在しない。それどころか登場人物の誰もが、少しずつその戦争に加担している。終戦後、広海軍工廠に勤める義父が、多くの書類を焼くシーンが出てくる。もちろんそれはその時日本や植民地の各軍各役所で見られた光景だが、登場人物たちはそれを当然のこととして受け止め、粛々と遂行する。みんなでひとしく支え合うことで成り立った戦争なのだ、ここにあるのは。
 みんな等しく受難し、みんなで支え合い、みんなで復興する。最後に受け手は感動し、安心する。世界観は絶対に壊れはしない!

 これが今の日本の、嫌味でも皮肉でもなく「最良」の戦争映画である。多くの人がこれを観て、戦争のことを考えるが、どう考えているのかは知れたものではない。
 昨日読んだ北村小夜さんの著書にこんな言葉があった。
《「反戦の意図で見れば反戦画に見える」ということは「戦意高揚の意図を持ってみれば戦意高揚が沸き立つ」ということである。》
 この映画はそういう映画である。反戦の意図を持ってみれば反戦映画に見えるけれども、簡単にナショナリズムに絡めとられるだろう。なぜならこの映画は閉じられた世界観であり、他者の目がどこにもないから。ポスターの文句にもある通り「日本中の想いが結集!」したかもしれないが、その通り、日本中の想いしか結集していない。
 反戦平和を訴える人たちが、この映画を自主上映するのを見たりもする。反戦の意図を持ってみれば反戦映画に見えるからだ。しかし現実はそうではない。この映画に反戦の意志はない。すずという一人の女性の、戦争によって鬱屈し歪んだ心を、日本人の中で共有し、日本人にとっての閉じられた世界観に心地よく浸り安心するための映画である。
 これは映画に問題があるというよりも、この映画が反戦映画がに見える人に問題があると言わざるを得ない。この映画が「最良」である社会の方がおかしいのだ。
 閉じられない世界観での映画が必要だと、切に思う。「違う世界の片隅」があるということを、多くの日本人は知らなければならない。そういう映画が生まれる社会を実現できなくては、結局は、すずのように右手や姪や、兄(戦死)、父母(原爆死)を喪う社会を、私たちは再来させてしまうことになるだろう。

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