WIRED VOL.35 DEEP TECH FOR THE EARTH WIRED VOL.35 DEEP TECH FOR THE EARTH

「人類の絶滅は避けられないと思います」──MoMAキュレーターのパオラ・アントネッリ、地球の修復を目指すデザインを語る

第22回ミラノ・トリエンナーレでキュレーターを務めたパオラ・アントネッリ(MoMAシニアキュレーター)は、そのテーマに「Broken Nature」を掲げた。「人新世(アントロポセン)」の時代において、わたしたちが壊してしまった「自然」をいかに回復できるか──。アントネッリは「人類の絶滅は避けられないと思います。もはや、絶滅するかしないかではなく、どのように絶滅するかが問題です」と語り、地球の修復をめざすデザインの重要性を訴えた。(『SPECULATIONS 人間中心主義のデザインをこえて』より転載)

PHOTOGRAPH BY WIRED JAPAN

大量生産・大量消費、バイオテクノロジーの急速な発展、自然環境問題の深刻化──。複雑化する「意地悪な問題」を多く抱える現代において、デザインがもつ力とは何だろうか? パオラ・アントネッリは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)建築・デザイン部門のシニアキュレータとして、社会と技術の激しい変化に応じた新しいデザイナー像を提示する展覧会を数多く手がけてきた。

彼女は2008年、記念碑的な展覧会「Design and the Elastic Mind」の企画趣旨で、これからのデザインに必要な理念についてこう述べている。

「ビジョンをもつ者たちはかならずしも大衆を代理するわけではない。大衆が未来へと踏み込むためにはデザインを必要とする。適応能力(adaptability)は人間にとって本来的かつ特有のものだが、今日の変化を捉えるにはそれよりも強力な何かが必要だ。すなわち、しなやかさ(elasticity)が」。

加速度的に進む技術革新にたやすく自らを当てはめるのではなく、偏見や狭量な視野、思い込みに挑戦する「媒介」としてデザインを活用する試みへの誘い。彼女が約20年間のあいだに手がけてきた展覧会を振り返りつつ、これからありうべきオルタナティブなデザインの可能性について聞いた。

──デザインとモダニティの関係性について質問します。あなたは、1990年代後半から2000年代前半のいくつかの展覧会*1で、大量生産・大量生産のためのデザインについて考察しています。近代を形成したありふれたモノたちを批評することにはどのような意味があると考えていますか。

わたしは批評にそこまで興味があるわけではありません。むしろ、日常生活に身近な会話だったり、ありふれてはいるけれどまったく気づかれていないような謙虚なモノにとても関心があるんです。これまでのキャリアを通して、自分が信じるデザインの力を展覧会として形にするために努力してきました。デザインはわたしたちの周りのいたるところに存在し、わたしたちのために創造されます。デザインは、生活を便利にすると同時に、わたしたちに問いを投げかける存在でもあるのです。デザインがもつ後者の力もわたしは観客に伝えたいとこれまで考えてきました。

モダンデザインが示したのは、デザインはある「意図」のもと設計され、最終的には独自のアイデアを表現するものだ、ということです。たとえば、ポストイット、ペーパークリップ、〔Johnson & Johnson社の〕バンドエイド、〔Bic社の〕ペンをみてみましょう。これらのデザインは、家庭や研究室、オフィスといった「モダン」であるとされる多様な状況で、あなたが有意義に働くことができるよう意図されて設計されているわけです。このような文脈において、「スーパーノーマル」*2は、日常生活におけるデザインプロセスの役割を表象するものとして、大きな潜在的な力があると思っています。

──大量生産・大量消費時代におけるデザインに対する異議申し立てのなかで、RCAのデザイン・インタラクション学科においてクリティカル/スペキュラティヴ・デザイン( 以下CSD)が提唱されました。あなたは、「Design and the elastic mind 」(2008年)、「Talk to Me: Design and the communication between people and object」(2011年)*3といった一連の展示企画を通して、CSDに関連する作品を特集し、認知向上に寄与しました。当時どのような経緯でなぜ彼/彼女らの実践に関心を持つようになったのですか。また、CSDの現代における意義についてどうお考えですか。

CSDについて話すにあたって、フィオナ(・レイビー)とトニー(アンソニー・ダン)について話さなくてはいけませんね。2人には、わたしのキャリアの早い時期に出会いました。デザイン分野のあり方を大きく変えたダン&レイビーの仕事にとても大きな尊敬を感じています。CSDは、批評的であると同時に詩的でもあり、理論と実践もうまく融合させました。建築、インダストリアルデザイン、社会学、そしてサイエンスの知見をうまく使って、先端技術の政治的、倫理的問題を取り巻くさしせまった検討事項を世間に提示してきたのです。

現在の社会・技術的状況を踏まえると、これまで以上にCSDは未来について考えるための重要な資源だと思います。現在の社会的および政治的な情勢のなかでCSDを担うデザイナーは、より多くの人々にオルタナティブな可能性を提案するために、政治家や産業主義者に対して批判的な目を向けていく必要があります。

「United Micro Kingdoms(UmK):A Design Fiction」*4は、大量消費・大量生産の現代において、とても重要な作品です。UmKは、テクノロジーがわたしたちの社会的な行動や政治的組織に与える影響について考えるための強力な声明だと思っています。

──あらゆる人工物がデザインされている現代において、デザインは社会善に貢献する反面、事故や危機、対立などを生み出す一面もあることは事実です。「SAFE:Design Takes On Risk 」(2006年)*5や「Design and Violence」(2015年)*6では、9.11以後のリスク社会、あるいは監視から管理社会への移行、政治的対立の表面化をふまえ、デザインの負の面が強調されています。「暴力」や「リスク」の観点から、なぜデザインをあえて批判的に捉える必要性があるのかについて教えてください。

9.11の前後にニューヨークにいたので、テロが社会に与えた影響や変化を感じていました。緊急事態に連帯し、協働する必要性を多くの人たちが感じていたと思います。他方で、ハイレベルの監視と管理の体制が整備されつつありました。 それに伴い、少なくともアメリカにおいては、デザインも別の方向へ進んでいったと考えています。

「3Dプリント銃」が2012年に発表されたとき、デザインがもつ「善の力」を信じるひとりとして、大きなショックを受けました。デザインの暗黒面を垣間見たような気がして、自分の素朴さに身震いするような感覚を持ち、戸惑ったのです。理想主義と進歩主義にもとづくデザイン概念からすると、とても複雑な問題です。

3Dプリント銃は殺傷能力がある武器であるのにもかかわらず、ネット上で設計図やプリントデータを自由にダウンロードできる状況でしたよね。とても危険でありながら、民主的でもあるという二重性を抱えていました。わたしは正直なところ、従来の楽観的なオープンソース運動に対して疑問を持たざるを得ませんでした。こうして「Design and Violence」を進めることになったのです。

──ナノテクノロジーやバイオテクノロジーは、CSDにおいて積極的にテーマとして扱われ、とりわけ遺伝子組み換えに関する技術は美術館を超えて議論を巻き起こし、ジェノハイプ(Geno Hype)という現象も生み出しました*7。CRISPR/Cas9の出現など加速度的な進化を遂げるバイオテクノロジーの進歩が私たちの生活に与える影響について、あなたはどのような考えをお持ちですか。

CRISPR/Cas9のような合成生物学に関する新しいツールの出現は、人間の未来にわくわくする可能性をもたらすと思います。 しかしながら、しばしばそうであるように、急速な科学的進歩は新しい倫理的基準を必要とします。

そうした状況下でデザイナーは科学者と協力することで、スペキュラティヴ(思弁的)なアプローチや思考実験、そして新しいビジュアライゼーション方法、研究者コミュニティとデザイナーのコラボレーションを促進するようなガイドラインをつくることができます。それだけではなく、科学的な発見を一般市民が理解可能な方法で伝えることもできます。

──「人間中心主義の限界」というアイデアについてご意見をいただければと思っています。ビアトリス・コロミーナとマーク・ウィグリーは彼女/彼らの著書『我々は 人間 なのか?』において、デザインは多かれ少なかれその歴史のなかで耐えず人間の思考や動作領域を拡大するポストヒューマン的特性をもつことを明らかにしています*8

また環境破壊はまさに行き過ぎた人新世が引き起こしたものだと捉えられますし、合成生物学は人間の存在を根本から変化させうるかもしれません。デザインという営みのなかで人類という概念自体がアップデートされうるという議論について、あなたのご意見をお聞かせください。

バイオテクノロジーの行く末と、環境問題に関わる政治的、社会的政策を注意深く見ていくことはとても重要ですね。でも「ポストヒューマン」という概念は少しバズワード的になっているとも思っています。デザインは常に人間と関連をもち続けると思っているところがあるんです。

でも同時に、わたしたちは今よりも他の種に対して思慮深くなるべきだとも考えています。これからのデザインは、人間中心主義的なアプローチを超えて拡張し続け、人間を巨大な生態系の中におけるひとつの種として扱うようになるでしょう。

建築やランドスケープ、エンジニアリングを担うデザイナーは、他種との共生をめざす戦略を市民に対して提案していくことが求められると思います。ただ単に、人間の自己破壊的な行動や自然環境の悪化を説明するのでは十分ではありません。普通の人間でも、テクノロジーを使って自分の能力や判断力を拡張できるようにデザインは利用される必要があります。

──あなたがキュレーションを担当した第22回ミラノ・トリエンナーレ「Broken Nature: Design Takes on Human Survival」(2019年)*9では、人類が生産する人工物が地質学的なレベルで地球環境に悪影響を与えているという人新世に関する議論に対するデザイン側の応答として、自然とデザインの関係性にフォーカスしています。これからのデザイナーには、人類の生存のために(あるいは絶滅を回避するために)どのような行動や態度が求められるでしょうか。

人類の絶滅は避けられないと思います。もはや、絶滅するかしないかではなく、どのように絶滅するかが問題です。他方で、先ほどからお話ししているように、デザインは、さまざまな意思決定プロセスのなかで生態系や他の種に対する配慮を促進することができます。そうすることで、人類は自然の恵みに対してこうべを垂れて感謝することが可能になるでしょう。

さて、このように自然との共生関係を構築するためには、デザイン概念を拡張することが重要です。デザインストラテジーと呼ばれる分野を学際的な形で応用する必要があります。アーティスト、建築家、経済学者、社会学者といった多様な専門家がデザインを起点に力を合わせなくてはなりません。地球の修復をめざすデザイン(restorative design)を通して、わたしたちはより美しい終末にむかって、償いの道を歩み始める必要があります。

「Broken Nature」の展覧会カタログでも述べたように、わたしたちは、人類が絶滅したあとに地球を支配するであろう「次の優れた種」が人間にほんの少しでも敬意を抱くように未来を形づくる必要があります。賢くはないにしても、少なくとも威厳があり、思いやりがある存在として尊敬を得るために。


『SPECULATIONS: 人間中心主義のデザインをこえて』
(川崎和也・編著/ビー・エヌ・エヌ新社・刊)
とまらないグローバル・データ資本主義の背後でテクノロジーがフェイクも欲望も消費も加速させる時代に、わたしたちはどこに立ち、何に着目すれば持続可能な世界をつくることができるのか―“ユーザー”“人間”のその先を見据えた幾多の思索とコンテキストが照らし出す、デザインと社会、理論と実践の接地面。最前線のデザインリサーチ99事例を紹介!

[脚注]1.パオラ・アントネッリがありふれたデザインを扱った「Humble Masterpieces」(2004年)、「Objects of Design」(2004年)といった一連の展覧会は、近代デザインを、歴史、素材、工法、機能、形態といったより包括的な観点から批評的に捉えることを目的としていた。インターネットによる自律分散協調的な創造性の勃興によって、近代デザインの大量生産・大量消費システムが生産する「普通」のデザインの振り返りが実施されるに至ったのである。他方、「What was Good Design? MoMA’s Message 1944-56」(2011年)、そして「This Is for Everyone: Design Experiments for the Common Good」(2015年)では、オープンソース運動やデジタルファブリケーションなど、テクノロジーやデザインの民主化を前提とした新たな「普通」のデザインが特集された。

2.スーパーノーマルとは、2006年にプロダクトデザイナーのジャスパー・モリソンと深澤直人によるキュレーションで開催された展覧会におけるテーマである。ありふれた「ふつう」のプロダクトの価値を問い直し、グッドデザインの条件を導き出すことを目的としていた。

3.「Design and the Elastic Mind」(2008年)は、CSDの作品群の総決算と言うべき展覧会である。インターネットが前提となり、ナノテクノロジーやビッグデータといった新しい技術革新が進行しつつある現代において、人間にとって新しい倫理観やイデオロギーが生まれつつあるとアントネッリは指摘している。社会-技術的大変革に対して、デザイナーは、しだいに不可視になっていく技術を目に見える、触れられる、あるいは聴取できるような、単なる「かたちを与える者(form giver)」から「本質の翻訳者(fundamental interpreter)」へと、その新しい役割を変えるべきであるとされている。「Elastic Mind」の続編とも呼べる展覧会である「Talk to Me:Design and the communication between people and object 」(2011年)では、バイオテクノロジーやスマートシティ、ビッグデータとのあいだに存在するインターフェイスとしてデザインを捉えつつ、インタラクションデザインの拡張を特集した。

4.ダン&レイビーによるスペキュラティヴ・デザインの作品。架空のイギリスを技術のイデオロギーによって4つに分断し、「デジタリアン」「バイオリベラル」「無政府進化主義者」「共産核保有主義者」それぞれの統治形態、経済、ライフスタイルをデザイン・フィクションとして表現した。デジタリアンが利用する想定で制作された「デジカー」は、コンピュータ制御の自動運転技術であり、課金すればするほど速度や優先度が上がるという効率化や最適化を優先したサービスによって成り立っている。彼らはその利便性を手に入れる代わりに、監視システムなどを許容している。このように、モビリティというテーマのもと、共産主義+原子力エネルギー、社会民主主義+バイオテクノロジー、ネオリベラリズム+デジタル技術、無政府主義+身体拡張技術、の4つに分割された地域を描き出した。

5.災害、疫病、テロといった「危険」に関わるデザインをキュレーション対象とした展覧会。特に、9.11を経たばかりのアメリカは「危険」や「リスク」といった問題に対して非常に敏感だったのである。ダン&レイビーによる「ファラデー・チェア」(1995年)、「プラシーボ・プロジェクト」(2001年)、「原子爆弾のキノコ雲型抱き枕:プリシラ」(2004-05年)といった、テクノロジーに対する「恐怖」や「不快」などネガティブな感情や現象を露悪的に扱った初期クリティカルデザインの作品群を扱った。また、危険への対応の名目で進行する監視・管理社会の進行が、わたしたちの身体を標的として管理・統制を及ぼす生権力を強化するとして、ウルリヒ・ベックによるリスク社会も念頭に起きつつ警鐘を鳴らしている。

6.パオラ・アントネッリとパーソンズ・スクール・オブ・デザインのジャーマー・ハントによるオンライン展覧会プロジェクト。テロや戦争、暴力に利活用されうるデザインを集め、その意味や意義について考察することを目的としている。アントネッリが強調するように、デザインの民主化を強調するかたちで生まれた3Dプリントの暗黒面として生まれた「3Dプリント銃」を特集した他、戦車のデザインや地雷除去マシン、暴動に使われた催涙スプレーなどが紹介された。

7.ジェノハイプとは、遺伝子組み換えの倫理的問題に対して、宗教的抵抗感などから議論が紛糾した現象のことである。

8.ビアトリス・コロミーナ,マーク・ウィグリー『我々は 人間 なのか?:デザインと人間をめぐる考古学的覚書き』牧 尾晴喜訳、小社刊、2017|Beatriz Colomina, Mark Wigley, Are We Human?: Notes on an Archaeology of Design, Lars Mueller, 2017

9.「Broken Nature: Design Takes on Human Survival」は、2019年イタリアのミラノで開催された第22回ミラノ・トリエンナーレであり、パオラ・アントネッリがゲスト・キュレーションを担当した。切迫する自然環境の悪化にデザインが対応するべく、自然とデザインの共生関係を提案するような作品を特集した。展覧会の企画にあたって、人新世やブリュノ・ラトゥールによるアクター・ネットワークセオリー、ティモシー・モートンによるハイパー・オブジェクト、ダナ・ハラウェイによるサイボーグ宣言、伴侶種宣言など、自然環境と人工環境を問い直すような思想的言説も多く引用されている。

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もはや人類は地球上の支配的なアクターではなくなる:デザイン理論家ベンジャミン・ブラットン、「ポストアントロポセン」の可能性を語る(後編)

アルゴリズムによる統治、人間排除区域、逆転する不気味の谷──デザイン理論家ベンジャミン・ブラットンがモスクワで教鞭を執るプログラム「The New Normal」では、この3つの急進的なテーマが研究されている。彼が2016年に提唱した「The Stack」という理論をひも解いた前編に続き、後編では3つのテーマと「ポストアントロポセン」の可能性について、スペキュラティヴ・ファッションデザイナーの川崎和也が訊いた(『WIRED』日本版VOL.35に掲載したインタヴューの完全版)。

PHOTOGRAPHS BY SHINTARO YOSHIMATSU
INTERVIEW BY KAZUYA KAWASAKI
TEXT BY KOTARO OKADA


ベンジャミン・ブラットンへの単独取材が終わったのち、Gallery IHAにて講演も行なわれた。

前編から続く>

The New Normalが探求する3つのテーマ

──あなたがStrelka Instituteでプログラムディレクターを担当しているThe New Normalでは、いくつかの研究テーマを設定していますよね。それについて教えていただけますか。

今年の研究テーマはAlgorithmic Gorvernance(アルゴリズムによる統治)、Inverse Uncanny Vally(逆転する不気味の谷)、Human Exclusion Zone(人間排除区域)の3つです。まず、Algorithmic Gorvernanceについて説明しましょう。それは、さまざまな文化的背景のなかで、自動化(Automation)とは何を意味するのかを問うことから始まりました。

また、わたしたちが考えている以上にテクノロジーと政治は密接に結びついています。テクノロジーには政治的な価値観があったり、政治がテクノロジーを監督するかもしれない状態になっています。だから、ガヴァナンスについて考える必要があります。

アルゴリズム・プラットフォームは、ガヴァナンスの一形態として機能します。その所有者は国家でもあり、私有のものもあり、両者が混合しているものもありえます。また、わたしたち自身を支配しているアルゴリズムをどうやって支配するか。そのためには、中央集権的か分散的か、国家か公共かという二項対立ではなくその組み合わせが重要になります。

わたしは以前、エストニア政府のデジタルアドヴァイザーを務めるMarten Kaevatsと話をしたのですが、エストニアではアルゴリズム賠償責任法(Kratt Laws)の制定の話が進められており、アルゴリズムによる統治の観点においてもユニークです。

──Inverse Uncanny Valleyについても教えてください。Uncanny Valley(不気味の谷)とは、ロボットが人間に近づけば近づくほど、ある閾値を超えると気持ち悪く感じるという現象のことですよね。それを逆転させるとは、どういうことでしょうか?

機械の眼を通して、あなた自身を見ることです。自分が思っているようには映らずに、ぞっとしてしまいます。自分が想像しているのとは違う姿で現れますから。Inverse Uncanny Valleyは、顔やカモフラージュ、コンピューターヴィジョンにまつわる問題です。重要なのは、このような視点により人間の認識をどう変えるのか?ということです。

浮かび上がってくることのひとつは、それが人間か非人間かという考え自体が間違っていること。人間とAIは常に混ざっており、融合しています。なぜなら、AIの背後には通常、人間または人間のトレーニングがあり、人間の背後には常に一連のテクノロジーがあるからです。

ベンジャミン・ブラットン|BENJAMIN BRATTON
デザイン理論家。カリフォルニア大学サンディエゴ校の視覚芸術学教授兼「The Center for Design and Geopolitics」ディレクター。ストレルカ・インスティチュートにて「The New Normal」ディレクターを務める。同校にて「地球のテラフォーミング」に関するプログラムを準備中。単著に『The Stack』、共著に『Dispute Plan to Prevent Future Luxury Constitution』など多数。

──なるほど。Inverse Uncanny Valleyは、機械の眼から人間を再解釈する営みなんですね。ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環世界」の概念を連想しました。

そうですね。マシンランドスケープのような概念とも関係しています。AIはときには自律的で、実用的な方法で共同研究者のようなものになるかもしれません。AIと協力して何かを行なうように。AIはあらゆる種類の知性の拡張になりうることを意味します。世界には、さまざまな知性が存在します。動物、人間、イルカ、カラス、タコ、野菜、ミネラルなど、知性はさまざまな形で存在します。そしてAIは共同研究する知性がどのようなものかは気にしません。人間以外の知能が人工知能をもつようになったという考えは、非常に面白いです。

──面白いです。

もう少し踏み込んで話せば、コンピューターやAIは、アフリカ大陸のある地域から採取した岩石でつくられ、中国で組み立てが行われ、石炭を燃やしたりロシアの天然ガスを圧縮したりして、それに電力が供給されます。すべては地政学的なプロセスであり、コンピュテーションは地政学的な事象なんです。では、そのAIを何に使うべきか。わたしたちの生命を存続させるために、この知性の爆発を気候変動のような差し迫った問題に対処するために使わなければなりません。

(写真右)聞き手を務めた、スペキュラティヴ・ファッションデザイナーの川崎和也。取材後に発売された編著『SPECULATIONS』にて、ベンジャミン・ブラットンが提唱した「The Stack」や「The New Normal」のプロジェクトを紹介している。川崎へのインタヴューはこちら

──なるほど。地球の資源を使ってAIをつくることが環境に負の影響を与えつつも、それ自体が気候変動に対応するツールにもなりうるということですね。Human Exclusion Zoneについても教えていただいてもいいですか。先ほど話されていたように福島第一原子力発電所のように人間が住めなくなった土地はそれにあたりますよね。

それだけではありません。「自動化」された機械にとって最も快適な環境は、工場の内部にあります。特に高度に自動化が進む工場では、人間とロボットは非常に分離されています。それは人間がKUKA[編註:ドイツの産業用ロボットメーカー]に斬首されるのを防ぐためであり、KUKAにプログラムされた動きが人間によって混乱させられるのを防ぐためです。動物園で虎を人から遠ざけるように、ロボットを飼育する仕組みになっています。

工場や農地は自動化の最もインテンシヴな形態のひとつですし、それはかなり普通なことです。しかし、それが都市規模で普及するにとれ、工場の論理はどのように都市に浸透し、Human Exclusion Zoneが出現するのか、を解き明かそうとしています。工場では移動させる箱を決め、箱を取り外して移動させますが都市はこれとどれほど近いのか。

この力学を小規模、中規模、大規模、超大規模と定義し、空間領域プログラミングの論理を適応しようとしても、この問題に関する重要な理論的研究は存在しません。その理由のひとつは、この種の建築の多くが本物の建築だとは考えられていないからです。かつての美術館建築などとは対照的に、単なる産業建築として片付けられていましたから。


 

工場における自動化の論理を、都市の規模に拡張してみましょう。2018年、米国のアリゾナ州でUberの自律走行車が、車道を横断しようとした歩行者に衝突する死亡事故がありました。これを防ぐために、都市での生活を「人々が行くことを許されている区画」と「クルマが行くことを許されている区画」に切り離すこともできるでしょう。都市の多くは人間の立ち入り禁止区域になり、残りの場所に人々が住むことになるのです。

より大きな規模で考えれば、Human Exclusion Zoneは都市の規模ではなく、国土の規模で考えられます。いくつか例を挙げましょう。SF作家のブルース・スターリングが提唱した「Involuntary park」という言葉があります。これは環境、経済、政治上の理由で、、人間の居住区が非意図的に野生の状態に戻ることを指しており、チェルノブイリや福島第一原発のような場所がそれに当たります。


 

また、生物学者のエドワード・オズボーン・ウィルソンは『Half Earth: Our Planet’s Fight For Life』にて「人類の文明が生きのびるためには、地球の半分を自然保護区にせよ」と主張しています。地球の半分が回復と再野生化に戻れるように、そのプロセスを慎重に行なう必要があると。それにより、進化が続き、野生動物のコリドーが続き、川の流域が回復するかもしれません。SF作家のキム・スタンリー・ロビンソンも『ガーディアン』誌への寄稿で同様の主張をしていますね。

つまり、人間の小さな居住区の外に自動化ゾーンがあり、さらにその外に自然がある状態です。これは極端な例ですが、人間排除区域を考えるときには、超高密度の巨大都市の倫理的必要性と、地球を回復させるための議論が必要になってきます。もしわたしたちが住む都市が自動化されたシステムに基づいたものだとしたら、人間が暮らすアパートの中のような場所以外の地球の半分は、Human Exclusion Zonesとなるでしょうね。

未来はキャンセルされていない

──あなたはThe New Normalにて「The Future Has Not Been Canceled(未来はキャンセルされていない)」というメッセージを掲げていますよね。なぜこの言葉を選んだんでしょう?

わたしたちは都市を非常に短期的な視野でデザインする傾向がありますよね。もっと長期的な視点で課題やさまざまな方法を見ていくべきです。

また、このメッセージは悲観的な物事の見方に対するレスポンスだったと思います。例えば、1960年代の文学を見ると、2000年や20世紀に対するアイデアは多く出てきます。2016年には、2100年のことについて悪いニュース以外の話は出てきません。

それはロシア未来主義にも関係していると思います。このオフィシャルな未来主義が長い間存在し、この共産主義の未来はかなり古びたものになっていたからです。そして、それはキャンセルされたばかりでした。だからこそ、このメッセージを掲げる必要があったのです。

──「中華未来思想」に対する、あなたの考えを聞かせてください。

中華未来思想にはいくつかの解釈があると思いますが、そのひとつは西洋が中国をみて、想像を膨らませていることです。それは自分自身に対する恐れを中国に投影し、それを逆側から観ていることであり、中国が西洋に取って代わるような未来を想像する行為です。しかし中国における中華未来思想と、SFとしての西洋が考える中華未来思想は関連性はあるにしろ、まったく同じものではありません。


 

──あなたは「ポストアントロポセン」という言葉を使いますよね。人類が地球環境に影響を与える時代を定義しようとする言葉を「アントロポセン(人新世)」と呼びますが、そのあとにやってくる世界はユートピアでしょうか、ディストピアでしょうか。

ユートピアでもディストピアでもなく、そのあらゆる範囲が可能だと思います。人間中心の時代であるアントロポセンは永遠に続くわけではありません。アントロポセンへの反応とは、できるだけ早くアントロポセンと呼ばれる時代から抜け出すことだと考えています。ポストアントロポセンとは、どのような状態であれど、人類がもはや地球上で支配的な地質学上のアクター(行為者)ではないという時代です。

しかし、人間が絶滅してAIゴキブリがあとを継ぐような状況だけではなく、さまざまな可能性が考えられます。人間がまだ認識可能なかたちで存在しているかもしれませんが、ほかの何かが支配的な種となり、地質学上のアクターになっているかもしれない。あるいは、人類は自分たちをもはや人間と認識していなく、異なるものに進化しているかもしれません。それもポストアントロポセンの可能性のひとつです。

──最後に、あなたが次に取り組むプロジェクトを教えてください。

The New Normalの次にわたしが取り組むのは「The Terraforming」というプロジェクトです。テラフォーミングという言葉は、人為的に惑星の環境を変化させ、人類の住める星に改造することを意味します。地球ではなく火星などの他の惑星への入植という意味で使われることが多いですが、わたしはテラフォーミングを異なる意味合いで使います。これまで地球は人間によってテラフォーミングされてきましたし、気候変動が深刻化して地球に住めなくなる土地が増えるなかで、再び地球をテラフォーミングするにはどうすればいいのか、を考えます。ロシアはロシア宇宙主義や宇宙開発の歴史がある土地です。このロシアで、テラフォーミングという言葉を使いながら、その未来を探るのです。

──ありがとうございます。あなたの話には希望をもらいました。

必要なものはすべて揃っているんです。問題は解決可能ですが、パースペクティヴや惑星規模での生化学の大きな転換が必要とされているのです。

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