第一話:メモリが足りない!
「つまり、この世界はバックアップということですか?」
「そうとも言えるしそうでないとも言える」
開発中の人工知能システムの納期日が迫る中、俺はテストで見つかった重大バグの修正のために休日を返上して作業をしていた。いわゆるデスマーチと言うやつだ。
そんな俺が作業の合間に自販機で茶でも買おうとした時、眼前に突然白い空間が現れた。その空間にはドアも継ぎ目も見当たらない。どうやら俺はこの白い部屋に閉じ込められたらしい。
冷静に周りを見渡していると、そこに過去の宗教の聖者たちの衣装をごちゃまぜにしたようなものを着ている妖艶な美女のようでいて、どことなく精悍な顔つきの男性なようでもある名状し難い存在が現れた。
そしてそいつが、俺のいるこの世界がバックアップだのなんだのと言い出したのだ。
目の前にいるこいつが
早く職場に戻らないと……目の前のこいつと何かしら交渉するしかないのだろうか……。
俺はとりあえず眼前に居るこいつの話の続きを聞いてみることにした。
「バックアップですか……どういうことでしょうか?」
「普通、君達の世界でもコンピュータで長いことゲームやシミュレーション演算などをやっていると途中までの結果を
「ええ、しますね」
話は順調に再開された。俺がコンピュータを触れることがわかっているのだろう。話が妙に具体的だ。
「君達の世界も、そのシミュレーション演算されている世界なんだよ。そしてその状態が適宜保存されているんだ。保存のタイミングはまあ、人それぞれだけど」
世に、シミュレーション仮説なるものがある。世の中は実は誰かのコンピュータで動いているシミュレーションだという話だ。今日、哲学者や宗教家だけでなく、科学者やコンピュータ技術者、SF作家までもが大真面目にこの仮説を肯定または否定しようとして激論を交わしている。世界的な研究者がこの説について肯定側に回って発言することもそう珍しくはないようだ。
そして目の前にいるこいつもその仮説を支持しているらしい。ただし、シミュレーションされている側ではなく、している側の立場で話しているのが他の人々の言説と少し違う。
「そういう言説があるのは知っていますよ。でも人それぞれって……あなたは人間なんですか?」
「ホモ・サピエンスではないよ。今は翻訳機能を使って君と話をしている。君達の言葉にするとそう翻訳されるみたいだね」
「なるほど……翻訳機ですか」
「話が早くて助かるよ。でだ。君達が『世界』と言っている空間は、私のコンピュータで動くシミュレーション上の存在だというのは納得いただけただろうか?」
「そこはわかりました。貴方が俺たちの世界の持ち主ってわけですね」
こいつの話が本当なら、コンピュータの電源コードにこいつが足を引っかけるか、キーボードにコーヒーをこぼしただけで俺たちの世界は消滅するかもしれない。
逆にこいつの話が嘘だったら、下手に刺激すると俺は半狂乱になったこいつに殺されてしまうかもしれない。それは是非避けたい。
どちらにしても冷静に、波風立たせずに話すのが肝要だ。うん。
「そういうことになるかな。質問はあるかね?」
「わからないのは、シミュレーションのいち登場人物である僕がどうしてシミュレータの実行者である貴方とこうして話が出来ているかという事なんです」
「そこはゆるふわっと理解してほしいなあ」
「理解できません」
「どうしても?」
「どうしても」
何がゆるふわっとだ。やっぱりこの空間は手品かなにかで、こいつは異世界ラノベか何かを読みすぎた
「考えられるのは2通りしかないだろう。シミュレーションの登場人物の君を3Dプリンタ的なものでここに出現させたか、私の意思を持った
「なるほど」
「どっちだと思う?」
「後者です」
「正解だ。実体があると何かと面倒臭いんだよ。主に消す時の手間がね」
いろいろと筋が通っている。少なくともこいつは正気で、整然と俺に説明をしようとする意思を感じる。
話をしているうちに、俺は世界がシミュレーション上の存在でもそれがどうしたという気になってきた。たとえそうだとしても俺という存在はこうしてここにいるのだし、この話が終われば俺はまたデスマーチ中の開発現場に戻るのだろう。その事実に変わりはない。
ならば今はこいつの話を聞いて、このやり取りを手早く終わらせてしまった方がいい。
「シミュレータというのは?」
「ゲーム雑誌の付録だったんだよ。人気のね。知的生命体が現れるまで惑星環境のパラメータを調整するのはなかなか骨が折れるんだ……このゲームは」
「ゲーム……ゲームなのか……しかも雑誌の付録の……」
がっくり来た。
俺はこいつの宗教がかった外見からか、世界を動かすシミュレータとやらは高次元の知的生命体が作った高度に学術的なものだと勝手に思い込んでいた。
観測者が文明の進化を見守り、環境を調整し、ついには人類を高度な宇宙生命体へと進化させて、造物主たる観測者達と議論が出来るようにする事を目的で作られた、そんな高尚なものだと思っていたのだ。
それが雑誌の付録のゲーム……。いつ飽きられて電源が切られてもおかしくないじゃないか。
「ええと、シミュレータと仰いますが……じゃ、この地球を宇宙のゴミの集まりレベルから観察してる貴方のような人が他にもいるという事ですか?」
だとしたらプレイヤーは随分と長命な種族なのだろうか。そして、彼等の種族にはそれなりの数が居て、ゲームなどの娯楽が流行るだけのゆとりがあり、おそらくは社会を形成している……。
……だめだ。想像がつかない。
「ああ、シミュレータといっても地球とその周辺だけじゃないんだ。君達の言葉で言うと、多くの恒星系が構成している銀河ってあるだろ。あれを14個分くらい内包する空間をシミュレートしているんだよ。
時間についても気にしてくれているようだけど、シミュレータだから100倍速モードとかあってね。確かに私たちは君たちに比べると長命であることに間違いはないが、150億年も生きるわけじゃないんだ」
銀河系14個分のシミュレータだと……。それを素粒子レベルでシミュレーション演算しているのか? 現代の地球の最高性能のコンピュータを使うと、たんぱく質の分子1つの挙動を1秒ちょっとシミュレートできるらしい。それを、銀河14個分だ。いったいどんな規模のコンピュータとプログラムなんだ?
「全ての空間と構成次元の素粒子の動きをシミュレーション演算してるわけじゃないよ。そんなことをしたらさすがにこのゲーム機、落ちちゃうよ。星とか宇宙空間とか、そういうところは抽象化することで利用メモリの量を下げてるんだ」
「抽象化、ですか」
「そう。抽象化だ。
今の君達ホモ・サピエンスがやり始めたような、電子顕微鏡での細かい観察をしない限り石は石だし水は水なんだよ。珪酸塩の結晶構造体や、ブラウン運動をする水分子じゃないんだ。分子や原子、素粒子の塊として観察できるのはその
ゲームの画面がそうだという事を思い出した。ゲームでは遠景は一枚絵か低ポリゴンで簡単に描かれる。それ以上凝っても画面のドットで潰れてしまって意味が無いからだ。
しかし、登場人物がその遠景だった場所に行くと十分にリアルな街として描写され、街にいる野良猫もスナイパーも格闘家もリッチにリアルに描かれる。
遠景の描写を凝っても演算に時間がかかる割に映像に影響が出ない。だから予算とリソースが潤沢な映画でも最近はそんなことはしない。抽象化は描画時間の短縮やメモリの無駄遣いを避ける正しい手法だ。
同じことをこいつは言っている。素粒子も、原子も、ぶっちゃけ分子くらいまでなら実際に微細な観察をしない限りそんなものがあるかどうかを意識しなくてもいい。
石は石でいいし水は水でいい。ただ、科学者が電子顕微鏡や加速器で観測したときにだけその観測結果がシステムから提供され、その挙動がそれらしければ世界は成り立ってしまうのだ。
「そうやって、じっと見つめない限りはいい加減に処理してるんですね」
「そう、それで十分だったんだよ。君達ホモ・サピエンスが高度な知恵をつけるまではね」
「何かご迷惑でも?」
こいつはこちらの科学知識のギリギリ限界を見極めて説明をしてくる。なんとも好奇心をかき立てて心地良いが、同時に俺という人間の限界を知られているようで少し憎らしい。
「あのさ」
「はい」
「組合せ爆発って知ってる?」
「ああ……」
なにかの科学館のPR動画が頭に浮かんだ。たったいくつか道の駅が増えるだけで、そこを巡回するルートが無限に増えるとかそういうやつだ。少し駅を増やすだけで孫の代まで計算が終わらなくなるとか。
「わかるみたいだね。君達の世界は今、僕のコンピュータのメモリを食いまくってるんだ。組合せ爆発的な演算のために」
「具体的にはなんでしょう?
増えすぎたコンピュータでしょうか。それとも最新科学がやたらと素粒子の動きを観測しているからでしょうか。インターネットを通る情報でしょうか?」
「それもあるが、今の危機的状況は君達ホモ・サピエンスの脳のニューラルネットワークによる演算量が等比級数的に拡大したせいなんだよ」
「なるほど。確かに、小さな脳細胞が互いを複数の経路で接続しあって、全ての接続に意味があると演算の抽象化が出来なさそうですね」
「いや、君はまだ正直なところが解ってないと思う。
君達ホモ・サピエンスの脳一人分でだいたい冥王星1個分の物理シミュレーションと同じくらいの演算リソースを食うんだ。
それが75億人もいる。同じ脊椎動物でもニワトリの脳なら小惑星の百分の一にもならないんだ。
そいつらが喰って寝るだけなら良いが、最近はやたら難しいことまで考えるしこちらのシミュレーションのプログラムの定数からアルゴリズムまで解析しようとしてるんだ」
「いや、ちょっと待って下さいよ。
そもそも知的生命体を発生させるシミュレータなんでしょう? それくらい織り込み済みじゃなかったんですか?」
「準惑星1個分の複雑さを持った脳が一日何個増えてると思ってるんだ。完全に想定外だよ」
どうやら人類の繁殖能力がシミュレータメーカーの想定を超えていたらしい。確かに今も世界中で増えまくってるわけだし。
「……なんだかすいません……」
「……でだな、君ならそういう時どうするかね」
「バックアップとって、別のコンピュータで動かしていろいろ試して、上手いこといったらそっちをメインにする、とかですね?」
「そんなところだな。だから、君が今いる世界はバックアップだと言ったんだ。
そして君は君の言う、私が何かしら試すためのエージェントとしてこの空間に呼ばれたんだ」
「なるほど。異世界トラックに轢かれたわけでもないのに神っぽい人が出てきたと思ったら……って、おい!エージェント? 俺が?」
「でなきゃここまで話さないよ」
いきなり世界の舞台裏を聞かされたと思ったらその世界の不具合の修正をやれとか言われて俺は軽いパニック状態になっていた。
しかし、次の瞬間、目の前の神……というか、高次元知的生命兼ゲーム厨が俺の脳のどこかをいじったらしい。俺は不思議に落ち着いてきた。
「何をしたんですか」
「君の脳を若干弄った。ついでに、君にもこの世界のオブジェクトの変数を変える能力を与えた」
「そんなことをして大丈夫なんですか。俺の脳は?」
「幸い、空き領域が多かったからなんとか入ったよ。さすが準惑星1個分だな」
貴重な空き容量になんてことしやがるこいつは。