【前記事】
古くからある将棋の駒組「矢倉」は終わったの? それともまだ終わってないの?
最近、矢倉だけではなく、横歩取りもあまり見なくなりました。
A図は近年の横歩取りの基本図です。

先手は飛車先の歩を交換した後、2四の飛車を横に一つ移動させるモーションで歩を取る。これが横歩取りです。
将棋は先手の勝率がわずかにいいことは、過去も現在も変わりません。しかし平成の一時期、後手番の勝率が比較的上がったことがありました。それはA図で後手番を持って十分に戦えたからでした。
A図の後、プロの間でよく指されるのは△3三角と上がる形です。古くからある指し方ですが、昭和の時代に内藤國雄九段が採用して脚光を浴びたことから「内藤流」とも呼ばれます。その後は中原誠16世名人、中座真七段らによって後手番の指し方に工夫が加えられていきました。
平成の間、横歩取りの研究もまた飛躍的に進みました。そして現状は、やっぱりどうも後手番が苦しいという見解が一般的のようです。
近年はコンピュータ将棋がトレンドに大きな影響を与えます。そちらの見解でも、後手の勝率がよくないことが示されています。
A図からの進行の一例は△3三角▲5八玉△5二玉▲3六歩(B図)。

試行錯誤の結果、こう進むことが多くなりました。先手の形は青野照市九段にちなんで「青野流」と呼ばれます。
2019年5月の世界コンピュータ将棋選手権二次予選▲水匠-△やねうら王戦でこの形が現れた時、関係者の間からは「これは水匠、やったか?」という声が上がりました。青野流の優秀さ、勝率の高さは、よく知られているからです。結果、先手の水匠の勝ちとなりました。
第九回戦対やねうら王。昨日作成した先手横歩取り青野流定跡がヒットし、序盤のリードを保って勝ち切りました。これにて、水匠の二次予選は6勝3敗となりました!
この大会で最終的に優勝したのはやねうら王でした。それだけ強いソフトをもってしても、横歩取りの後手番を持つと負かされてしまった、というわけです。
コンピュータ同士で横歩を取られ、青野流を迎え撃つのは後手番の作戦としてちょっとキツイのでは、との評判でした 横歩取り青野流のこの局面、2018年初頭から昨日までのfloodgateデータベースだと先手が522勝102敗で驚異の勝率83.7%となっています。ただ、ソフトが搭載している定跡が偏っている面もあり(△2六歩は1局しかない)、現在は人間+コンピュータで色々と模索している状況と言えるかもしれません。
佐藤天彦九段(前名人)は横歩取りの後手番を得意として高い勝率を挙げ、名人位獲得などの実績を残しました。しかし、2019年名人戦七番勝負第1局(千日手指し直し局)でB図の後手番を持ち、先手の豊島将之挑戦者(現竜王・名人)に敗れています。
A図から必然的にB図に進んで、それで後手がダメということであれば「横歩取りは終わった」ということになってしまうのでしょうか。
もちろんそれは長いスパンで見る必要があり、軽々に結論は出せません。しかしこの先、時間が経ってみても「横歩取りはやっぱり先手がよかった」という結論が覆らない可能性もまた、高いのかもしれません。
「横歩取りは先手よし」と見た先駆者
1図はA図とは少し違う形です。

後手は飛車先の歩を交換せずにすぐに△2三歩と打ち、先手が▲3四飛と取る。これを見て「懐かしい」と思う方も多いことでしょう。かつては1図の横歩取りもさかんに指されました。
結論から先に述べると、現在では1図は「先手よし」という評価がほぼ確定しています。1図から少し進んだところで、昭和の終わり頃に森けい二九段によって指された手法が、ほぼ決定打となりました。それでどうも後手が苦しい。
1図でダメならば、A図ではどうか。これが横歩取りの歴史の大きな流れです。つまり1図に続いてA図も決定的にダメとなれば、「横歩取りは終わった」というわけです。
ただし、将棋四百年の長い歴史の中においては、かつて1図は先手よしとは見られていませんでした。むしろ後手よしと見られていた期間の方が、よほど長かったのです。
「横歩三年の患(わずら)い」
という言葉があります。これは横歩を取る側がよくない、という見方を端的に示したものです。先手は歩を1枚得する実利を得るものの、飛車が不安定な形となります。もしまた手数をかけて元の位置に戻ることができても、その間に後手の方に有効な手が続いて「手損」になってしまう。だから横歩取りはよくないのではないか、とされてきました。
ところが昭和のはじめ、横歩取りは先手がいいのではないかと思った若者が現れます。それが木村義雄(1905-86)です。
1930年▲木村義雄八段(25歳)-△金易二郎八段(39歳)戦。木村八段は強敵の兄弟子を相手に、横歩取りを採用しています。
(前略)昔から俗に「横歩三年の患い」といって取ったほうが悪い。わずか一歩の得をするために、その影響で形勢を悪くし、ひいては敗勢を招来もする。これが、いままで言われていた通念だが、私はなぜ一歩を得して悪いか、取ってその歩を活用することができないかと疑問に思った。
当時、木村八段は連戦連勝。実力制名人戦が始まる以前のことで、まだ名人位に就いていたわけではありませんが、実質的にはこの時は既に、実力日本一だったようです。
1図からは△8八角成▲同銀△2五角(2図)と進みます。

ここから木村八段は▲3六飛と▲3二飛成の2つの手段を徹底的に研究しています。
▲3六飛は1987年NHK杯▲羽生善治四段-△谷川浩司王位戦で、羽生四段が指したことでも有名です。現在は当時の映像がAbemaTVで公開されているので、もし未見の方は、ぜひご覧ください。
第37回 NHK杯将棋トーナメント 2回戦・第13局 谷川浩司王位 対 羽生善治四段(1987/11/8放送)
この▲3六飛が現れた時、どれぐらい驚かれたかは、解説の中原誠名人と、聞き手の永井英明さんの反応を見ればおわかりいただけます。結果は若き羽生四段の勝ちでした。
実は▲3六飛についても、羽生四段が指す六十年近く前に、木村八段は研究していました。その上で、▲3二飛成(3図)の方が「はるかに勝っているように思う」という見解を持っていました。
(前略)金と飛車の交換は、損のようだが、全体の駒の配置、そういうものを考えると後手陣は金がなくなることによって、左右の駒の力のバランスが、いくらか崩れる意味がある。そういう点をねらったのが、3二飛成である。

木村八段の新趣向は見事に功を奏しました。従来の定説を破って強敵の金八段から勝利を挙げました。木村八段、後の木村14世名人はこのことを大変な誇りと思っていたようで、実戦集のあとがきで改めて、次のように強調しています。
ところで私はここでどうしても読者に申し上げたい一事がある。それは、私が平手将棋で横歩三年の患いといわれている「横歩取り」を敢行した将棋である。横歩取りなどという奇想を、尊敬していた金さんとの対局で実行するとは如何にも無謀との批判を蒙るかも知れないが、それまで棋道の鉄則のようにいわれていた横歩取りは俗に「三年の患い」として誰も指していない、私はこの「三年の患い」に疑問を持って自分なりにひそかに検討していたのだ。
木村八段はこの横歩取りによっても、多くの勝ち星をあげていくことになります。一方で、木村八段の先輩にあたる当時の一流棋士たちは、横歩取りが本当に先手よしなのか、しばらく経ってもまだ疑問に思っていました。実力制名人戦が進行している段階、1936年時点での土居市太郎八段(後に名誉名人)の声を引いてみましょう。
「木村君は横歩取りの奇謀でこれまで度々成功してゐるが、それは以下の手段がよいためか或は相手の手段に誤りがあるためか、私は疑問にしてゐる。私としてはどうもこの横歩取りは最善の策とは思へない。なぜなら如何に歩ドクでも結果は飛金交換となつて、その損失は甚大であるからだ」
旧来の人々にとっては、それが常識的な見方でした。
このあたりの事情について、はるか後進の米長邦雄永世棋聖(1943-2012)は以下のように記しています。
木村さんが全盛時代には「横歩三年の患い」といって、悪いほうに評価されていたものでした。
ところが、木村さんは花田長太郎九段という当時のライバルと指すと、横歩をあえて取るのです。対局が終わった後の感想戦では、木村さんは勝ったにもかかわらず、けっして楽観的な言葉を吐かない。
「花田さんにここでこう指されていたら、自分のほうが悪くなっていたのだけれど」といった控えめな言い方をする。(中略)
ところが、これは木村さんの本音ではなかった。というのも、ある時、木村さんが突然「横歩は取ったほうが必ずいい」と言い出したからです。(中略、横歩取りが先手よしと)みんながわかってくるまで、木村さんは黙ってしらばくれていた。その間に10年の歳月が経っていました。
専門家の目でも見分けがつかないほどの微差を、その「ほんの少しいい」というところを、早く気がついた者が主導権を握るのです。そして、その差が大きく広がっていく。こういう恐ろしさは、将棋の世界以外にもよくあることではないでしょうか。

1図の先、どう変化しても先手よしとほぼ結論づけられたのは、木村14世名人が指してから六十年以上後のことでした。4図での▲1六歩は森けい二九段の指した手で、これが現状、先手よしの決定版となりました。

この▲1六歩は、さすがの木村14世名人も指していません。しかし、横歩取りは先手よしと認識し、他の手で勝っていたことに違いはありません。やはりその先見性は素晴らしかったとしか、言いようがないでしょう。


