世界中で嫌われている(らしい)リベラリズムの限界と未来について、萱野稔人さんと御田寺圭さんが考察するというトークイベントがあったので聴いてきた。
トピックハイライト
- 顔で選ぶと差別だが、頭で選ぶのは差別ではない
- 男女平等が大事なら、激務で過労死寸前の職場に女性を送り込むの? と聞くと、「そんなことは議論していない」
- SNSで偉そうな教授はCiNiiで検索される
- リベラリズムでは財の再配分ができない理由 ≒ 仲間意識の限界 ←ここがリベラリズムの限界
- 多様性を重視するなら「リベラルを拒絶する人」をリベラルは受け入れるべきだが、リベラルを拒絶する人が子どもをたくさん産んでいる(ex.フランスのイスラム教徒)
- 日本は一夫一婦制ではなく、非同期型一夫多妻制
- リベラリストとは「リベラルを共有できる社会を守りたいだけの集団」になってしまう
- リベラリストへの信頼が失墜しても、リベラルを捨てないために今できること
リベラリズムの現状
リベラリズムへの風当たりが強まっているという。
個人の自由は尊重されるべきだし、フェアネス重要、宗教や表現の自由も言わずもがな。財の再分配を目指し、貧困を解消するのは理想的な思想のはずなのに、世界中で嫌われているらしい……なんて言われると、私なんぞ「ホント?」と疑ってかかってしまう。
のっけからテンション高いのは萱野さん。哲学者という肩書だが、力強い物言い、主張に事実を添える話法は、気鋭の実業家のようだ。
リベラリズムが嫌われるのは、リテラシーの問題だという。ある主張を「ヘイトスピーチだ!」と糾弾するリベラルな人がいるのだが、その人自身がヘイトスピーチを無自覚にしているのではないのか? と問いを突き付ける。
たとえば、「〇〇は人間じゃない」とまで言い出すリベラリスト。それ、〇〇に「黒人」や「オバマ」を入れたら一発アウトになるのではないかという。自分が攻撃したいものだけをヘイトスピーチと言って、自分がやっていることには目をつむる鈍感さ、これがリベラリズムへの風当たりを強くしている例だという。
それを受けるのは御田寺さん。SNSの論者として有名だが、めちゃめちゃダンディ&ハンサムなお兄さんだった。
リベラリストの受けが悪いのは、その線引きに恣意性があることによる、ダブルスタンダードへの反発なのだという。差別問題ひとつとっても、差別がいけないというなら、あらゆる差別はいけないというべきなのに、そうでないご都合主義が問題になるという。
たとえば、ミスコン。女性の容姿を序列化して順位をつけるというイベントはダメだというが、じゃぁ学力による序列化はいいのか? となる。序列化による選別を批判するのなら、顔はダメで頭がいいというのは都合が良すぎやしないか? とツッコんでくる。差別はいけないのであれば、学習障害や知的障害があるけれど、学問をしたい人を受け入れなければならない。
顔で選ぶと差別だが、頭で選ぶのは差別ではない
さすがにこれは極端な例だと思う。
教育というリソース(教育者や設備・環境)が限られている以上、そこを希望する人全員を受け入れることができないのであれば、何らかの基準による選別が必要になるだろう。「差別はいけない」という主張と「能力に基づく序列化」は、どこかで折り合いを付けなければならない。
しかし、「差別はいけない」を先鋭化していくならば、「顔で選ぶと差別で、頭で選ぶのは差別ではない」という主張は、ロジックとしておかしいことは分かる。おそらく、御田寺さんは極端な例をもってくることで、折り合いをつける必要性を訴えたいのではないかと考える。
どこまで男女平等にする?
リベラルなダブルスタンダードの例として、医科大学の男女差別の話が出てくる。
女子の合格者数を意図的に抑え、差別的な扱いをしていた東京医科大学の例だ。公正に行われるはずの大学入試が歪められたとして、マスコミ各社から盛大に批判されていた問題だ。
萱野さんは、その報道側に注意を向ける。就活における男女の能力差について、新聞社の中の人に尋ねると、圧倒的に女子の方が高いという。適性試験や面接での評価、どちらを合わせても男は女に劣る。そのため、単純にテストで決めるなら圧倒的に女性の割合の方が多くなる。
しかし、新聞社の新入社員の男女比はほぼ 1:1 だ。なぜか?
新聞社の人に直接尋ねるとと、(目線をそらせながら)「それは、いろいろとありまして……夜討ち朝駆けとか議員さんのお宅に深夜にお訪ねするとか、若い女性だとほら、問題あるでしょ?」とゴニョゴニョとなる。
御田寺さんは、「それはどこまで平等にするの?」という問いに集約されるという。医科大学の話は、「医療科を選ぶとき、女性は楽な科に行きたがり、キツいところは人手不足になる」という現場の声を反映した結果だという。
もちろん、男女平等は大事だ。だが、キツい汚い仕事も、男女比を合わせるのか? という話になる。激務で過労死寸前の職場に、女性を送り込むのか? となる。そう問うと、リベラルな人は、「そんなことは議論していない」と返してくるという。
キラキラした、うま味のあるところだけ焦点があたって、ジェンダーギャップがどうのこうの言っているのは欺瞞ではないか。普遍的なところで平等化を目指す、労働者のためのリベラリズムなのではないか? ……このように御田寺さんは考えるのだが、そこはスルーされている。能力のない人へのまなざしは厳しい。
本を書く人はネットでも発信するべき?
閑話休題。ここでエゴサの話になる。
萱野さんはSNSで情報発信をしていないそうだ。ニュースなどで誰かのつぶやきを目にして、「twitter という世界がある」という程度の認識だという。いっぽう御田寺さんは、twitter などで活発に発信している。
なぜ萱野さんはネットをやらないか? その理由が生臭くて良い。萱野さんが最初の著書を出したとき、その評判が気になったという。出版社からの反応ではよく分からないので、よせばいいのに2ちゃんねるを覗いてしまったそうだ。
案の定というか、専用スレが立てられていて、執拗に徹底的に、木端微塵粉になるまで叩かれていたらしい。以後、恐れをなしてネットは見ない誓いを立てたそうな。
それでも萱野さん、やはりネットに興味があるようで、SNS言論の猛者ともいえる御田寺さんに「どうですかね? ネットの評判って?」と水を向ける。返答がこれ。
「ネットで言われていることを、知らないほうがいいですよ。(私は)なりゆきでこうなってしまったけれど、なれるものなら真人間に戻りたい……」
SNSで偉そうな教授はCiNiiで検索される
ちょっと話が逸れて、「言論の担い手の変化」になるのだが、これまた面白い。
ゲンロンといえば、昔は知識人・思想人のものだった。言論「界」という名は体を表していたという。90年代は、職業的な知識人のものであり、例えば柄谷行人が大きな影響を与えていた。
だが、今や「よくあんな議論が成立していたなぁ……」と隔世の感だそうな。思い込みだけで「思想」しており、誰も説得できないゲンロンが成り立っていたらしい。
今やSNSで言論が形成される時代になっている。これは、言論の民主化ともいうべき、喜ばしいことでもあるのだが、一方で、Google によって、いくらでもどこからでも反論・反証が取ってこれる時代になったともいえる。
昔は、大学の教授なんてほとんどお目にかかることもなく、ましてやコメントをやり取りするなんて方法もなかった。だが、今や「上野千鶴子にリプライが送れる時代」になった。偉い先生に「嘘つかないで、違うでしょ?」とメッセージを送り、それが衆目に晒される。
そして、偉い教授から反論が来たり黙殺されたりすることで、マウントの取り合いとなる。偉そうな教授がドヤ顔していると、CiNii で検索される。ご想像どおり、twitter に入り浸っているような教授は、まともに論文書いていないのがほとんどで、「論文書け」とバッサリ斬られる。
こうした丁々発止の中で、言論が形成されてゆく。こうしたオピニオンの民主化は、リベラリズムの成果なのかもしれぬ。
財の再分配は、どこまでするの?
萱野さんが、踏み込んだ議論をする。曰く、「リベラリズムでは、財の再分配はできないのではないか?」という問いだ。
象徴的な例として、EUにおける極右の台頭や、Brexit の動きを挙げる。その背景に、「自分たちの税金は、自分たちで使いたい」という思いがあるというのだ。
つまりこうだ。EUに所属していくために重い負担金がかかる。そのうえ、自分たちの財政を自国のために使えない。本当は自国の福祉政策に使いたいのに、EU本部のエリートの一存で、移民政策に割り当てられる。国民主権の思想からするならば、税金をどう使うかは国民が決めるのに、そうではない現実が揺れ戻しを招いている構図だ。
他の例として、貧困の救済が挙げられる。リベラリズムをグローバルに考えるなら、貧困問題を解消するために、日本の税金を最も効果的に使う場所はアフリカの貧しい人々だろう、となる。それは極端ではないかと思うが、ロジックとしては成立してしまう。
いま私が感じた「極端さ」について、萱野さんはこう問うてくる。財の再分配する範囲を決めているのは、文化や歴史を共有しているグループ(≒仲間)意識ではないかと。そこを超えて再分配しようとすると、反発が生じるのではないかと。そして、ここがまさにリベラリズムの限界なのではないかという。