この儚い幻想世界にせめて紫苑の花束を

Kanata
Kanata
Dec 29 · 71 min read

Special Thanks: イワシクラスタのみんな

はじめに

デナムの歯磨──野のユリは労せず。紡がざるなり…… — レイ・ブラッドベリ「華氏451度」第2部

現代は速すぎる。何もかもが超スピードで「消費」され、あらゆるものが記憶の彼方に去っていく。去年話題になったことをどれほどの人が覚えているだろう。先月は。先週は。ともすれば昨日バズった内容さえ思い出せない。少なくとも僕は最近ずっとそんな感じだ。

暗号通貨、機械学習、XRといった新しい技術に興味を惹かれているうちに、道徳や倫理のような「あたりまえ」がすさまじい速度で書き換わっていく。これらの変化にすべてついていけている人は果たして存在するのだろうか。

テクノロジーは世界のサイズを小さくした。それ自体はいいことだ。インターネットがもたらした最大の恩恵は、概念の伝達速度を桁違いに引き上げたことだろう。長時間労働が悪だというのはもはや「あたりまえ」と化しつつあるが、このような社会全体の価値観の反転がここまで急速に進んだのは、ネットの力に依るところが大きいように思う。

だけど世界のサイズが小さくなったからといって情報量のサイズは変わらない。そして一個体としての人間のキャパシティも変わらない。現代では一人の人間が一日に受け取る情報量は、その処理能力をたやすく超えてしまう。「現代は速すぎる」と感じるのは、これが原因なんだろう。

このどこへ向かうともしれない濁流に身を任せるのもいい。予想もしないところへ連れていってくれるだろう。それはきっと楽しい。だけど僕はここで少し立ち止まって、一度深呼吸をしたいと思う。何もかもが洗い流されて、忘れ去られてしまう前に、記録すべきものを記録しておきたい。とりわけ、ここ数年僕が強く興味を抱いている、ソーシャルVRについて。

それからのVRChat

去年、「VRChat それは満天の星空のように」という記事を投稿したが、これはVRChat黎明期の空気を伝える史料として書いたものである。未来に希望を持たせる感じでこの記事は締められているが、あれから1年半経ったいま、実際のところどうだったか? 期待したような爆発的な盛り上がりはなかったな、というのが率直な印象だ。

SteamDBより

これはVRChatのSteamリリースから現在までのオンラインユーザー数遷移グラフである。オンラインユーザー数がコミュニティの盛り上がりを直接あらわすわけではないし、Oculusストアのユーザーは含まれていないので正確でもないが、ざっくりとした概観を知るには十分だろう。前回の記事で解説したように、2018年1月に爆発的なユーザー数増加があり、オンラインユーザーは一時2万人に達したが、その後すぐに落ち着き、1万人弱で安定している。ちなみに2019年7月のデータは不具合によるものなので無視してよい。

Google Trendより

こちらはGoogleの検索数遷移。2018年1月のウガンダナックルミームによって発生したバズが最大で、それ以外にも各言語圏で小規模なバズ(e.g. 2018年4月韓国2019年10月タイ)があったが、そうしたバズによる新規参入で筆者が知り合った人のうち現在もVRChatをプレイしている人はほとんどいない。体感としても新規プレイヤーは常に一定数いるのだが、そこから継続プレイヤーになる人の数と、これまで継続プレイヤーだったが離脱してしまう人の数が均衡する状態が続いている。

原因は参入から定着にいたるまでのハードルの高さだろう。筆者は個人的な理由から半年ほどVRChatの情報を積極的に追いかけることをやめていたのだが、その間、日本語圏でも英語圏でもVRChatの話題を目にすることはほとんどなかった。コミュニティの中にいると気づきにくいが、VRChatの盛り上がりは内に閉じたものであり、そこから一歩外に出ると観測範囲外になってしまう。中で何が行われているのか、何がそんなにおもしろいのか、外側からは想像しにくいのだということをこのとき改めて理解した。

VRChatはVR機器なしでもプレイ可能だが、非VRモードであったとしても快適にプレイするにはそれなりのマシンスペックが求められるし、最大限楽しもうと思えばやはりVR機器が必要になり、それなりの出費が求められる。そしてVRでプレイして最初の「おおすごい!」という感動から、「でもそれだけじゃん」の段階を超えて、自分なりの楽しみ方を見つける必要がある。違う文化圏・言語圏の人と交流して知見を広めることだったり、アバターのモデリングだったり、ワールド製作だったり。もちろん気の合うフレンドとダベるだけでも十分楽しいのだけど、そういった自分なりのプレイ理由を見つけるところまでいくのは、人によっては難しいのではないだろうか。「どこがおもしろいのか」がハイコンテクストすぎるのだ(UnityもBlenderもかなり難易度が高いアプリケーションのはずなのに大半のVRChatユーザーが平然と使いこなしているのがいまだに信じられない)。だから参入者数と離脱者数が均衡するのは、さもありなんという感じがする。

もう少し俯瞰すれば、VR市場の成長が予想より遅いというのが根本的な原因だろう。2019年末現在、VRが「きてる」か「きてない」かと問われれば、後者だと答えざるをえない。Oculus Questのような安価で完成度の高い一体型HMDの登場によって以前よりは身近な存在になったとはいえ、やはりまだまだマニアのためのガジェットだ。顔半分をすっぽり覆うHMD(ヘッドマウントディスプレイ)である限りこれは変わらないのではないかと思う。すでにVRにハマっている人は「HMDをかぶる手間 < VR内で得られる体験」であることを知っているが、性質上、個人の体験の域を出ることができないVRは、それを広告媒体等で伝えられないからだ。

先日、NrealLight(ARグラス)を試着する機会があったが、装着感のよさ・手軽さは非常にすばらしかった。SLAMがいけてないせいなのか表示オブジェクトがガタつくとか、熱がすごいとか、問題は多々あったにせよ、価格帯はスマホと同程度で申し分ないし、これがもっと洗練されて販売されれば、世の中がガラリと変わるんじゃないかとさえ思えた。VRもこれくらい、サングラスをかけるくらいの手軽さにならないと、一部の愛好家以外への普及は難しいのではないだろうか。現在筆者の部屋に転がっている超バカでかいPimax 5k+を見ていると、そこまでの道のりは非常に長そうだなあという感じはするが……。

VRChatに話を戻そう。前述したようにユーザー数それ自体はさほど増えていないものの、参入のハードルが高いせいなのか、いろんな意味で濃い人間が集まっており、コミュニティ内部の熱量はすさまじいものがある。たとえるなら、閉じた釜の中でぐつぐつと煮えたぎるマグマのようなものだ。このマグマが地を固め、きたるべきバーチャル時代の地盤になるだろうということは想像にかたくない。DJイベントや美術館ツアー等、毎日のようにユーザードリブンのイベントが開催され、もはや日本語圏内でさえ全容を把握している人間は誰もいないだろう。そしてユーザードリブンイベントの最たるものが、バーチャルマーケットである。

バーチャルマーケットはその名の通り、バーチャル空間上の展示即売会だ。これまで3回(2018年8月、2019年3月、2019年9月)開催され、第4回は2020年4月に開催予定となっている。回を重ねるごとに着実に規模を拡大しており、初回は100に満たなかった出展サークルは、第4回では1400超えとなっている。おもな出展物はVRChat上で使用可能なアバターや小物等で、来場者はVRChat上の会場ワールドでそれらの商品を実際にVR内で見て、手にとって、試着してみて、気に入ったものがあればBOOTH上で購入する流れだ。アバターの価格は3000円~5000円程度が現在の相場となっているが、非常にハイクオリティなものが多く、しかもそのほとんどがカスタマイズ許可されているので、自分好みに改造してVRChat上で自分専用のアバターとして使用することができる。こういった改造可能アバター有料販売の流れは2018年6月に発売された「アークトラス」に端を発すると思われるが、バーチャルマーケットがその流れを大きく後押しした形だ。いままさに現在進行系で、バーチャル世界のアバター文化とそのエコシステムが構築されているのである。

筆者が現在使用しているアバターもバーチャルマーケット3に出展されていた「ミール」を改変したものだ。VRChatではアニメ調のキャラが好まれるが、アニメに寄りすぎず、かといってリアルでもない、絶妙なバランス感がいい。

ひとつだけ惜しいのはVR内で試着から購入までのフローを完結させられないことだろうか。VRChatは公式マーケットプレイスを持っていないので、どうしても購入部分は外部サービスに依存することになり、試着から購入までのフローがシームレスでなくなってしまう。このことによる機会損失は大きいように思われる。第3回ではVRChatクライアントから外部ブラウザのタブを開ける機能があったのでかなり改善してはいたけれども。余談だが、求人情報から察するにVRChat運営も本格的なマネタイズを考え始めているようで、数年後には公式マーケットプレイスをリリースする可能性が高いと個人的に予想している。

このようにユーザー側、運営側、双方ともに手探りの状況が続いているが、黎明期の混沌とした状況を思えば、未開の荒野が開墾され、整備され、少しずつ人の住める街になっていく風景を早回しで見ているような、そんな錯覚を覚える。VR世界は未踏の領域だ。最初は何もないし、誰もいない。法はおろか道徳さえない。だから前回の記事で解説したような混沌とした状況も当然のように発生する。しかし人間には高度な社会を形成する能力が備わっている。理性の力だ。それによって乱雑だったものが整然と、混沌が秩序に変わっていく。何がOKで、何がNGか。何がフェアで、何がアンフェアか。誰も気づかないうちに、誰もが参加する形で、その線引きがなされていく。そうして「公共」が形成されていく。ソーシャルVR上に、文字通り「社会」が生まれる。

悪意と負荷

2019年末現在の時点で最も成功したソーシャルVRプラットフォームがVRChatであることは間違いないが、もちろん何もかもが順風満帆なわけではなく問題も多い。アップデートのたびにエンバグするとか、ミドルウェアのメンテナンスをろくにしていなかったことが原因でセキュリティ上の問題が発生してコンポーネントを無効化せざるをえなくなるとか(ちなみにこのコンポーネントは日本語圏で非常に人気があり、死亡当日におそらくソーシャルVR初と思われるVR葬式が執り行われた)、そもそも基本的なソーシャル機能がまともに動いておらず、フレンドリクエストが届かないとか、フレンド承認しても反映されないとか、フレンドが勝手に外れてしまうとか、アカウントが完全に消失するバグがあったりだとか、筆者は実際にそれを踏み抜いてしまって「アカウント復旧できないならフレンドのIDリストをテキストファイルでくれ。1週間前のバックアップとかでもいいから」とサポートに連絡したら「え、バックアップなんてないよ?」と言われて、その時点で1000人近くいたフレンドを失ったりだとか、そんなのはVRChatをやっていれば日常茶飯事だ。SNSとしてひどすぎると思わなくもないがベンチャーの姿勢としては理解もできる。新機能の開発が最優先で、セキュリティや安定性が後回しになるのは、後者は投資家への訴求にならないからだ。運営資金が尽きればそもそもサービスを続けられない。それは誰も望まないだろう。しかし人間関係を毀損するような不具合が続けばユーザーは不信感を覚えるし、内部的にもそれらは技術的負債となって遅効性の毒のようにシステム全体を蝕む。その毒が閾値を超えたのか、2019年下半期はセキュリティと安定性の向上に注力していたようだ。

それらの改善も重要ではあるが、VRChatの最大の問題点は「悪意への対処と負荷への対処を混同してしまったこと」だと個人的に思っている。あらかじめ用意されているアバターをカスタマイズするような仕組みであれば、そこに悪意が入る余地は少ないし、クライアントにかかる負荷も制御しやすいが、VRChatはアバターの自由度が非常に高い。思いつくものは何でも実現できると言っていい。悪意を持って作れば人にダメージを与えられるし、たとえ悪意がなくとも考えなしにゴテゴテと装飾を重ねれば負荷の高いアバターになってしまう。VRChatは自由度の高さがウリなので制限をかけるとユーザーが離れてしまう可能性があるが、悪意を持ったユーザーによる攻撃や、負荷の高いアバターが集まることで引き起こされるFPS低下は、プレイ時の体験の質を下げ、それはそれでユーザーが離れる原因になってしまう。どのようにして自由を担保しつつ悪意と負荷に対処するか。これは非常に難しい問題だと言える。この問題に対してVRChatがどのように対処してきたか、時系列順に追ってみよう。

2017年はまだ人口も少なく平和だったので制限をかける必要性が低く、悪意や負荷への対処はほとんど考えられていなかった。やはり転機は2018年1月のウガンダナックルミームによる人口爆発だろう。あれですべてが変わってしまった。たんに人口が増えたというだけではなく、悪意が蔓延してしまったのだ。以前から4chan的な文脈はVRChat内にあったものの、そこには一定の理性がともなっていた。ウガンダナックルミーム以降はこのたがが外れてしまった。4chanのおもしろい側面だけではなく、煽ったり罵ったりといった負の側面も流入した。VRChatも4chanのようになんでもやっていい場所だという空気が醸成されてしまった。前節で述べたようにこの未踏領域には最初、法も道徳がなかったが、VRChatは無法地帯だという共通認識がここで生まれてしまったのだ。このとき運営が毅然とした態度を取っていればもう少し違った未来もありえたように思うが、SNSにおいて人口は正義なので運営側にあの人口爆発を抑える動機がなかったというのも理解はできる。しかしここで醸成されてしまった空気によって、その後ずっと悪意への対処に追われることになったというのもまた事実だろう。

実際に悪意がどのように発露されているかというと、形はさまざまだ。暴言、差別的発言、改造クライアントを用いて他プレイヤーのクライアントをクラッシュさせる、ポリゴン数の多いオブジェクトやパーティクル多用でFPSを落とす、シェーダーを用いて視界を歪ませる、視界全体にグロ画像を表示させる、等々。他のSNSと比べて没入度が桁違いに高いソーシャルVRでは、これらの嫌がらせはダイレクトに伝わり、やられたほうの不快感は非常に強いものとなる。2018年1月以降、ユーザー側から強く対策が望まれたのは当然のことだろう。

2018年4月、一時的にパーティクルの制限がかかったが、これはユーザーからの反発が強かったため、すぐさま撤回された(2018年6月に再実装されたときにはオプション扱いとなっている)。悪意への対策としては、2018年5月に実装された Content Gating が初めての有効打だと言えるだろう。これ以前はアカウント作成後すぐにカスタムコンテンツのアップロードが可能だったが、これ以降、しばらくVRChatをプレイしないとアップロード権限が付与されない形になった。これは非常に理にかなった施策である。ユーザー側もこれに関しては納得感を持って受け入れた。

その延長として2018年9月に Safety and Trust System が実装されたが、これについてはコミュニティ内で意見が割れた。簡単に説明すると、ユーザーを信用度に応じて6段階にランク付けし、そのトラストランクごとにボイスチャットやアバターの各コンポーネントのオン/オフを指定できるというものである。こういった仕組みの必要性は誰もが認めるところではあるが、非常に有用だと賛成する人もいれば、ランク付けされることへの忌避感から反対する人もいた。おそらくVRChat史上最も議論が紛糾した議題ではないだろうか。筆者もこの議論に参加した。主張は「高ランクを廃止せよ」という単純なものだ。オープンベータの段階では、Visitor/New User/User/Known User/Trusted User/Veteran Userという6段階だったが、この内、上3つは悪意への対処としては意味がないという主張である。この投稿はCannyの当該カテゴリで最も投票を集めたが、Veteran UserがFriendに置き換わっただけで、主張の論旨が理解されないまま正式リリースされた。そしてあれから1年以上経過したが、やはりこの主張は変わらない。実際問題として、Userが悪意あるユーザーである確率と、Veteran Userがそうである確率は、ほとんど変わらないからだ。Userになった時点、つまりあるていどプレイしている時点で、悪意の有無のスクリーニングは終わっており、それ以上の自動スクリーニングはできない。それ以降はモデレータが人力でやるしかないだろう。

この主張への反論として「ランクが高いユーザーほどアバター最適化の方法を知っているはず」という意見が多かったが、ここに「悪意と負荷の問題の混同」という真の問題がある。ランクが高いほど最適化の方法を知っているという前提の真偽自体があやしいが、仮にそれが真だとしても、それは Trust and Safety という名のシステムの目的からは明らかに外れている。この反論の主旨は負荷の問題であり、信用できるか否か(悪意の有無)、安全かどうかの問題ではないからだ。しかし現在のシステムメニューの Safety 内に Performance Options が存在するところを見ると、VRChat運営もここを混同してしまっているようである。

負荷の問題への対策としては、2018年12月に実装された Avatar Performance Ranking System があるが、これもコミュニティからの反応は渋かったようである(筆者はこのときVRChatから距離を置いていたので当時の空気感はわからない)。これはアバターのポリゴン数やマテリアル数をもとにパフォーマンスランクを算出して表示するもので、運営はこの機能がコミュニティに対してアバター最適化をうながすと考えていたようだが、さほど効果はなかったようだ。それも当然の帰結であるように思う。なぜならアバターが他人にどう見えるかはトラストランクに依存するのであって、このパフォーマンスランクはただのメタデータでしかないからだ。アバターを最適化するかどうかは良心ドリブン、罪悪感ドリブンであり、強制力はないし、インセンティブもない。そんな状況でアバター最適化の流れができるわけがない。悪意と負荷の問題を混同してしまったツケがここにまわってきている。2019年6月にパフォーマンスランクをもとにアバターをブロックする機能が実装されたので、これが負のインセンティブにはなりえるが、この機能はあまり使われていないようである。パフォーマンスランク機能リリース時に「このランクには意味がない」とユーザーに刷り込まれてしまったのが原因だろう。とはいえ、アバター有料販売が盛り上がっている最近は、パフォーマンスの高さを訴求ポイントにしているアバター販売者も多いので、徐々に状況は改善していくのかもしれない。

以上、悪意と負荷の問題に対してVRChatがどのように対処してきたかを大雑把に語った。これとはまったく違う史観もあるとは思うが、いま現在、全体としてVRChatの仕様が非常に難解になってしまっているというのは誰もが認めるところだろう。どうも運営はユーザーの選択肢は多ければ多いほどよい=高機能だ、と考えているふしがあるが、KISSの原則が教えてくれるように、仕様は可能な限りシンプルなほうが、ユーザーも開発者も最終的に幸せになれることが多い。たとえば、負荷の問題に関してはかなり簡素化できるように思う。ユーザーに選択肢を与えるのではなく、FPSが落ち始めたらダイナミックボーン等の重いコンポーネントを自動で順に切っていくのはどうか。どうせFPSが極端に下がればカクついてまともに動かないのだから自動で切られても納得感はあるだろうし、インスタンス内に人が少なければ負荷の高いアバターでも全コンポーネントを有効にできる。ユーザーには「どこまでFPS低下を許容するか」の選択肢だけがあればいい。あくまで一例だが、このようにユーザーの選択肢を絞りつつ弾力性を持たせる運用は可能なのだ。

コミュニティと運営の間の溝は深まり続けているように思う。なぜこうなってしまったのか? いくつか手がかりはある。2018年8月に実装されたフレンドのグループ化機能は、実は2018年6月のオープンベータでテストされていたものである。コミュニティ側から「ネームタグのお気に入りアイコン表示は人間関係上のトラブルを招く可能性がある」という指摘を受けて一度差し戻されたのだ。件のトラストシステムにしても運営はベータ版にすぎないと言っているが、このあたりにユーザー側と運営側の認識の乖離が見て取れる。たしかにVRChatはアーリーアクセスだ。まだまだ手探りで開発を進めている段階だろう。いろんなことを試して、実験するステージだと言ってよい。しかし、そこで「暮らす」人々は、もうすでにここにリアルな人間関係を築いてしまっている。この仮想世界に大切なものがたくさんある。それを軽々しく壊さないで欲しいと切に願っている。きっとその認識の違いが、すれ違いを生んでいるのだ。

別の可能性

では、他のソーシャルVRはどうだろうか。VRChatに関しては日本語でもそれなりに情報を手に入れることができるが、他のソーシャルVRは情報がほとんどないので、簡単に概要を紹介しつつ、コミュニティと運営の動き、どのような問題を抱えていて、現在どのような状況にあるかを追っていこう。ちなみにいまさらではあるが、筆者はVR研究者でもなければVR業界で働いているわけでもない一般ユーザーなので、本稿の正確性については各自で判断されたい。


Rec Room

Rec Roomはミニゲーム主体だが、VRChatに次いで大きなコミュニティを擁するソーシャルVRである。2チームに分かれてペイント弾を撃ち合うペイントボール、レーザー銃を撃ち合うレーザータグ、PUBGのようなバトルロイヤル、RPG風クエストゲーム、等々、クオリティの高いゲームが揃っているので未プレイの人はぜひプレイしてみて欲しい。

ゲーム自体もおもしろいが、Rec Roomの真にすばらしいところはそのUI/UXだろう。最初からVR専用ゲームとして開発されているので、非常に細かいところまで配慮が行き届いており、プレイしていてストレスを感じることがない。腕時計を見るように手首を返すと表示されるメニュー、「押した感」の強い凹凸のあるボタン、絵文字や簡易テンプレ文を即座に入力できるのもいいし、ゲーム内で撮った写真をアップロードすれば写っている人が自動的にタグ付けされて相手に通知がいくのは本当に便利なのであらゆるソーシャルVRが実装するべき機能だと思う。

絵文字や簡易テンプレ文はスマホのフリック入力のように上下左右に手を動かすことで入力できる。ちなみに “GG” は “Good Game”(いいゲームだったね)の意。”XD” は英語圏の顔文字。90度傾けると X が目、D が口になって、笑っているように見える。

2017年頃はVR市場全体でVR内の移動方法を模索していたように記憶している。シームレスな移動はVR酔いを誘発するのでテレポート移動が主流だったが、開発側に酔いを回避する知見が溜まってきたのと、ユーザー側に耐性がついてきたこともあって、2018年3月、Rec Roomにも歩行移動(Walking)が実装された。しかしこのあたりからコミュニティ内に不和が生じ始める。Rec Roomのようなアクションゲームでは移動方法というのは非常に重要だ。特にPvPでは「一方にアドバンテージがある」という論争になりやすい。特定の移動方法が有利にならないようかなり調整されてはいるのだが、熟練のテレポート使いがいると “Cheating!”(ズルだ!)と言われているのをゲーム内でよく聞くし、RedditやDiscordでもいまだにこの話題が定期的に上がる。

2018年8月、スクリーンモード(VRChatでいうデスクトップモード)が実装されたが、ここでもさらに不和が生じた。古参プレイヤーたちから「VR専用ゲームだったからこそ没入感があっておもしろかったのに……」という声をよく聞いた。2018年11月に実施されたユーザーアンケートにAndroid/iPhone/iPadといったモバイルデバイスが並んでいるのを見て、コミュニティの不安はさらに大きくなる。リンク先のRedditスレッドに当時の空気感がよく出ているの読んでみて欲しい。そしてこのアンケートが示唆した通り、2019年11月、iOS版のRec Roomがリリースされた

公式サイトから Virtual Reality って言葉が消えてる」というスレッドが2018年11月に投稿されているので、この頃にはすでにVR専用ゲームという立ち位置からFortnite的な立ち位置(マルチプラットフォームでのクロスプレイ)へと方針転換し始めたようだ。リリースから3年以上が経過してもユーザー数が一向に増えないので当然といえば当然の方針転換ではあるのだが、それでもたいして人は増えていないというのが現状である。

High Fidelity

High Fidelityは、オープンソース・非中央集権のソーシャルVRだ。同名企業が開発・運営しているが、GitHubでコード管理されているので誰でも開発に参加できるし、非中央集権なので自分でサーバを立てれば公式の規約に縛られることもない。VRChat以上に自由度の高いソーシャルVRだと言えるだろう。

2018年に何度か負荷テストが行われていたが、10月に行われた負荷テストでは423人が同時・同一のVR空間に集合した。しかもアバターの簡略化なしで、だ。おそらくこれは世界初の快挙だったはずである。

上のツイートは負荷テストから半年後のものだが、このツイートが小バズするまで、日本語圏ではHiFiの存在はほとんど認知されていなかったようである。これが最後の負荷テストイベントになってしまったのは残念だが、400人以上がVR空間に集合するというのは非常に刺激的な体験だった。特にHiFiは音にこだわりがあるようで、これだけの人数がまわりで喋っていても、目の前にいる人との会話は問題なくできたし、たくさんの人の声が重なったガヤガヤ感は、現実のイベント会場そのものだった。

余談だが、この負荷テストは参加するだけで10USDもらえる(人数が多いほど金額も大きくなる仕組みだったので実際は20USDになった)というイベントだったのに、それでも数百人程度しか参加者がいなかったという事実は、ソーシャルVRに人を集めるのがいかに難しいかを示していると思う。

しかしHiFiはユーザー数こそ少ないものの、異常なまでにハイスキルな人たちが集まっていて、このソーシャルVRをよりよいものにしていこうという気概に溢れていた。運営とユーザーの会合なんかも定期的に開催されていて両者の関係は良好だったが、ある時期を堺に不和が生じ始める。

最初の亀裂は2019年4月に発生した。運営が突然「24時間以内に一部を除いて自社ドメインをすべて停止する」と発表したのだ。ドメイン=サーバ+ワールドと考えて問題ない。つまりはユーザーが集まれる空間のことだ。HiFiは非中央集権なのでコミュニティ形成やコンテンツ製作はユーザーに任せ、自分たちはその基盤となるクライアント/サーバプログラムの開発に専念する、という方針転換である。それ自体は納得できる決定だったものの、告知から実行があまりに性急だったせいで、コミュニティからの不評を買うことになった。

そして2019年5月、再度唐突に行われた告知は、前月に植え付けられた不信感をさらに増大させた。一般ユーザー向けサービスから企業向けサービスへの方針転換と、それにともなう1/4の従業員のレイオフがCEOのブログ記事で発表されたのである。HiFiのフォーラムではコミュニティマネージャーが「新規機能要望はもう受け付けない」とも告知した。「VR市場の成長速度が予想よりも遅く、いまのままでは生き残れない」というCEOの説明は理解できるものではあったが、前月の件もあってコミュニティの反応は冷ややかだった。2019年4月に行われた会合と、2019年6月に行われた会合の参加者数を比べてみれば、それは一目瞭然だろう。

正直、筆者もこの方針転換は筋悪だと思っていたが、予想通りというか、2019年12月、事実上のプロジェクト終了が告知された。SteamおよびOculusストアから撤退、マーケットプレイスや公式フォーラム等すべて停止、GitHubリポジトリは非公開に、開発チームを縮小(=レイオフ)して新規プロジェクトに取り掛かっている……ということだが、この状況ではあまり期待しないほうがいいだろう。

HiFiは完全に死んでしまったように思えるが、幸いこれはオープンソースである。既存のゲームエンジンを使わずほぼフルスクラッチで開発されているので難度は高いが、誰でもフォークして新しいプロジェクトを始められるのだ。実際、HiFiベースのプロジェクトはいくつか立ち上がっている。Tivoli Cloud VRProject AthenaKitely、どれもまだ稼働はしていないので可能性は未知数だが、名前を覚えておいて損はないだろう。

VR Winter is probably coming, but like the title says, we’ve been literally working from a volcano in the Canary Islands. It’s keeping us warm and fired up. […] When VR Spring rolls around, the tulip bulbs we’re planting should be positively beautiful, and one sunny day, we’d like to have you join us in the garden for tea and fancy little biscuits. — Hello! We’re building a spatialized metaverse from a volcanic island
VRに冬が訪れようとしているのかもしれません。しかしタイトルにもあるように、私達はカナリア諸島の火山島で開発に取り組んでいます。この場所は文字通り私達に熱を、活力をくれます。(中略)VRに春が訪れる頃、私達が植えたチューリップの球根は美しく花を咲かせることでしょう。その庭園で、いつかの晴れの日、お茶会を開きましょう。紅茶と特製クッキーを用意してお待ちしています。 —
こんにちは! 私達は火山島でメタバースを開発しています

Lavender

LavenderはVRChatと同じくUnityベースのソーシャルVRだが、最も大きな違いは最初から “Massive” 大規模な利用を想定して開発されていることだろう。開発者は1000人が同一空間に集まれるレベルを目指しているようだ。2019年末の現段階ではまだアルファ版と言っていい荒削りさなので、そこまでの道のりは非常に長いと思われるが、筆者はこの “Massive” というところに惹かれてPatreonでこのプロジェクトのパトロンをしている。

HiFi同様、筆者のツイートが小バズするまで日本語圏ではほとんど名前を知られていなかったようである。

Lavenderが実際にどの程度のものになるかはアーリーアクセス開始直後の現段階では判断できないが、このプロダクトの興味深いところはインディー製作だということだろう。VRChatやHigh Fidelityのようにベンチャーキャピタル等から巨額の投資を受けているわけでもなく、大きな開発チームを抱えているわけでもなく、Unityのクライアント・サーバ担当とWebサーバ担当のたった2人で細々と開発しているのである。

そして非フリーミアムだというところもユニークだ。これまで見てきたように、High FidelityもRec RoomもVRChatも運営とコミュニティの間に不和が生じているが、その根本的な原因は資金の問題である。フリーミアムのプロダクトは初期段階では投資家にどう訴求するかが重要なので、細かいUIの使い心地やUX、セキュリティや安定性はおざなりにされてしまうし、事業計画通りに収益化できなければHigh Fidelityのように強引な方針転換の末に破綻してしまう。SNSはフリーミアムがあたりまえだと思われがちだが、そこからマネタイズ方法を模索し、利益を生み出せるように事業を進めるのは至難の業なのだ。それとは違うアプローチという意味でも、Lavenderの施策は「あり」だと思う。フリーミアムではユーザー増加はコストでしかないが、Lavenderのようにクライアント・サーバプログラムそれ自体が収益源になる構造ならユーザー増加=利益=運営資金になるし、ソーシャルVRの価値に多くの人が気づき始めているいまなら、良質な体験のために20USDくらい支払う人は多いと思われるからだ。人が人を呼び、いい流れができれば、爆発的ヒットになる可能性もゼロではない。そのためには人を惹きつける魅力あるプロダクトにしていかなければならないが、Lavenderが今後どのように進化していくか、パトロンの一人として見守っていきたい。


筆者が主に注目している(いた)ソーシャルVRは以上の3つだが、他にも可能性を感じているソーシャルVRはいくつかあるので、ざっとさらっておこう。

NeosVR はVRChatと同じくUnityベースのソーシャルVRだが、自由度の高さやシステム・UIまわりを見る限り、現時点では完全にクリエイター向けだと言っていいだろう。開発者とコミュニティの関係が良好で、フィードバックとアップデートのサイクルがとてもよくまわっている。ただ筆者は独特のUIに慣れることができず、あまりプレイしていない。

VR版Second Lifeのポジションを狙っている SansarSinescape はどちらもユーザーの獲得に苦戦しており、前者は2019年11月にライブイベント向けプラットフォームに方針転換している。後述のバーチャルキャストと対照をなしていて興味深い。

ChilloutVR はドイツの小さなゲームスタジオが開発しているUnityベースのソーシャルVRだ。筆者はクローズドベータに参加しているが、VRChatクローンと呼んで差し支えない印象を受けた。2020年3月リリースとなっているが、現在の開発状況を見る限り少し厳しいかもしれない。

Oasis — 绿洲VR は2019年12月にアーリーアクセス開始した中国のソーシャルVRである。デモ動画を見る限りこちらもVRChatクローンと呼んでよさそうだ。アカウント登録に中国国内の携帯電話番号が必須なので、グローバルな展開はなさそうである。

日本勢の ambr はモバイルファーストで、2019年4月~10月のクローズドアクセスではOculus Goにしか対応していなかったが、2020年2月~のオープンアクセスではPCVRへの対応を予定している。その後はOculus QuestやPSVRへの対応も考えているようだ。

同じく日本勢のバーチャルキャストはこれまで配信用プラットフォームとして成長してきたが、バージョン2.0への大型アップデートを皮切りにソーシャルVR方面に舵を切っていくようだ。リンク先の記事で言及されているVRタイムシフトはclusterのアーカイブイベントの拡張といった感じで、かなりおもしろい概念だと思う。

俯瞰してみると、ソーシャルVR界隈は盛り上がってはいるものの、やはりその盛り上がりは内に閉じており、どこも苦戦しているのが現状だ。多くの人が言うように、VRに冬が訪れようとしているのかもしれない。ただ、上で挙げたものの他にも、UnityやGodotといった優れたゲームエンジンを使ってソーシャルVRを個人開発している人を何人か知っている。そういった種火がある限りは、雪解けのときはいつか必ず来るだろう。


以上で最近のソーシャルVR動向まとめは終わりである。次節以降は筆者の個人的な趣味・思想について脈略なく延々と語るつもりなので情報収集だけが目的の人はここで読むのをやめたほうがいいかもしれない。

コラージュの先のリアリティ

僕はサーバーサイドエンジニアとして飯を食っているが、最近はGo言語のコードをよく書いている。ここ2年くらいはもうGoしか書いてないと言っていいくらいの勢いだ。この言語を気に入っている理由はたくさんあるのだけど、そのうちのひとつが「パッケージシステムが非中央集権」だというところだ。Goでは外部パッケージのインストール・インポートは以下のような流れになっている。

$ go get github.com/jinzhu/gorm

上記コマンドを発行すると $GOPATH/src/github.com/jinzhu/gorm にリポジトリがクローンされる。これを自分のプロジェクトでインポートするにはコード最上部で以下のように指定する。

import "github.com/jinzhu/gorm"

おもしろいのは $GOPATH/src/ は外部パッケージ専用のディレクトリというわけではなく、自分のプロジェクトもここに配置するということだ。自分のプロジェクト、つまり自分のGitリポジトリも同様のルールに従って、$GOPATH/src/mydomain/myproject/ のように配置し、ここでコードを書いていく。そして自分が作成したパッケージも外部パッケージと同様の方法で読み込む。

import "mydomain/myproject/mypackage"

Goは特定の中央集権的なパッケージシステムを持たない。インターネット上のアクセス可能なGitリポジトリすべてがインポート可能なパッケージとなりえる。$GOPATH/src/ 以下にあるのは、その膨大なパッケージ群の部分コピーにすぎない。Goの世界観では、インターネット全体が巨大なパッケージ保管庫なのだ。Goのコードを書いているとき、自分と自分のコードが世界に繋がっていると強く感じることがある。それはこの仕組みによるものだろう。自分が書いているコードは「膨大なパッケージ群の部分コピー」の一部でしかないからだ。僕はこの感覚がとても気に入っている。

仕事ではもうGoの案件しか受けないくらいにはこの言語を気に入っているが、趣味の開発ではまだNode.jsを使うことが多い。自分ひとりだけの開発では動的型付けのほうが楽でいいというのもあるが、一番の理由はパッケージの多さだ。他の言語に比べてnpmの規模は群を抜いている。玉石混交なので有用ではないパッケージも多いが、「さすがにこんなパッケージないよな……」と思いつつ検索してみるとあっさり見つかって「マジかよ……」となることも多い。

現代ではプロダクトをフルスクラッチで開発することなんてほとんどないと言っていい。誰かが作ったフレームワークの上に、誰かが作ったモジュールを組み合わせて、自分は自分がフォーカスするべき問題のみにフォーカスし、実装したい機能を開発していくのが主流だろう。フレームワークやモジュールをいかに使いこなすかが年々重要になってきていると感じる。

その最たるものがUnityUnreal Engine等のゲームエンジンではないだろうか。一昔前なら高度な数学的知識を持ったエンジニアがチームを組んで開発していたようなゲームを素人が個人開発できるようになっている現状は驚嘆に値する。これらのゲームエンジンは可塑性が高く、どんなゲームでも形成できる。ビジュアルノベルからガチガチの物理演算3Dゲームまで。そしてPhotonのようなバックエンドサービスを使えばマルチプレイヤーゲームも簡単に開発できる。こういった汎用ゲームエンジン・汎用バックエンドサービスが登場したからこそ、VRChatのようなソーシャルVRが次々と生まれているのだと言っていいだろう。しかしその汎用性の高さゆえの限界もあるのではないか、と感じたのが前節で紹介したHigh Fidelityの負荷テストのときだ。

High FidelityベースのソーシャルVR、Tivoli Cloud VRの開発者であるCaitlynも同様のことをブログで語っている。

Game engines weren’t designed to create an elegant spatialized metaverse. […] This is a computer science problem, not a game development problem. — Hello! We’re building a spatialized metaverse from a volcanic island
ゲームエンジンは洗練されたメタバースを作れるようには設計されていません。(中略)これはゲーム開発の問題ではなく、コンピュータサイエンスの問題なのです。 —
こんにちは! 私達は火山島でメタバースを開発しています

上記記事のセクションタイトル “Not-ready Player One” が簡潔に現在の問題を一言であらわしている。レディープレイヤーワンの世界はまだ遠く、そこに至るには「汎用ゲームエンジン」では無理なのではないか、という話だ。実際に、現在のUnity製ソーシャルVRでは、あの映画の最終決戦のようなシーンは絶対に再現不可能だろう。汎用的だからこそ世界中の企業・個人開発者から知見が集まり、巨大なエコシステムが形成される、その利点が大きいのは事実だが、同時に汎用的であるからこその限界もあるのだ。

話変わって、Fortniteは2億人超のプレイヤーを抱えるバトルロイヤル・マルチプレイヤーゲームである(ちなみにUnityではなくUnreal Engine製)。そのゲームを舞台に2019年2月、Marshmelloという世界的な人気DJが10分程度の短いライブパフォーマンスを行った。Marshmello自身のツイートによると、このイベントには数百万人が参加 “millions of people in attendance” したそうだ。BBCも括弧付きではあるが “Millions attend” と報じている。しかし実際の映像を見てみると、数百万人も参加者がいるようには思えない。

Fortniteは100人参加のバトルロイヤルゲームだ。別視点(一般プレイヤー視点)の動画を見る限り、このライブイベントも100人ごとの「別インスタンス」に分かれて数百万人の参加者がいた、ということのようである。参加者の総数自体はすごいのだけど、わざわざBBCが報じるほどのことなのだろうかと思ってしまう。同時接続者数1000万人超のゲームで、そのユーザーたちがいつも通りに「別インスタンス」で、その各インスタンスに配信される3Dライブ映像を見た以上の意味はないように思えるのだ。

バーチャルマーケットに対しても同様の感覚がある。第3回は延べ来場者数約70万⼈となっていて、その数自体はすごいのだけど、盛り上がりを実感できるのはTwitter等の外部においてでしかなく、VRChat内部では感じられなかった。参加者は別インスタンスに分かれているからだ。パブリックインスタンスでは見知らぬ人との接触もあるが、負荷の問題で1インスタンスに30人を超えるようなことはまずないし、プライベートインスタンスでは基本的に知り合いしか集まらないので、いまいち「お祭り感」に欠ける。巨大なテーマパークに自分と友達数人だけしかいないような物寂しさがあるのだ。現状では、レディープレイヤーワンもソードアートオンラインも遠いと言える。

VRのSNSとはまったく違うので比較するのは意味がないかもしれないが、Twitterがなぜスケールできるかというと、コミュニケーションが非同期だからだ。限りなくリアルタイムに近づけてはいるが、リアルタイムであることは必須ではないのでいくらでもシステムをスケールできる。そしてユーザー側にとっても非同期であることは利点がある。その時間その場所にいる必要がない、あとから読める、あとでも見られるというのは実はすごいことで、そのことによってフォロワー数の少ないアカウントでも数万リツイートされるようなレベルのバズが発生する。テクノロジーの梃子によって無名の人間が現実では不可能なほど大勢の人間にインタラクトできる。それがただの “15 minutes of fame” にすぎないとしても、だ。

ひるがえってソーシャルVRは同期コミュニケーションである。その時間その場所にいなければコミュニケーションを取れない。一人の人間がインタラクトできる人数は現実とたいして変わらない。テクノロジーの梃子は働かない。そして同期コミュニケーションであるがゆえにシステム側もスケールが非常に難しい。前者はどうしようもないにしても、後者は非常に惜しいと感じる。技術的な問題でしかないからだ。そしてこの問題を解決すれば、いろいろなことが変わっていくのではないかとずっと思っている。現在のVRChatは1インスタンスに50人程度が限界だ。50人を超えるようなグループはそうそうないので、仲のいい人たちだけで集まるだけなら特に問題ないだろう。しかし僕はここに非常に限界と制限を感じる。本来あるべき異文化衝突が失われてしまっているとさえ感じる。

Twitterが流行った理由の一つは、あのガヤガヤ感にあると思う。積極的に情報を集めなくても自分の興味外の情報が否応なしに入ってくる感じ。エコーチャンバーの問題はあっても閉じているようで閉じていない感じ。タイムラインが予定調和で終わらないからこそTwitterはおもしろいのだ。それと比べて、VRChatは閉じているように感じる。自分から積極的に外に出なければ、すべてが予定調和で終わってしまう。その原因はインスタンスのスケール感にあるのではないだろうか。1万人とは言わないまでも1000人が同一インスタンスに存在できたとしたら? あのJapan Town(※日本の街を模したVRChatの有名ワールド)に1000人、さまざまな文化圏、さまざまな言語圏の人間が集まり、いろんなところでいろんな話をしている。あちらは韓国語、そちらはスペイン語、もちろん共通語は日本語だ(※ここに集まる海外ユーザーは英語よりも日本語が得意な人が多いので日本語が共通語になりやすい)。あちらで歓声があがったので目を向けてみるとアバターパフォーマンスをやっている人がいる。なんだなんだと人が集まり始める。「その技術すごいね、どうやってるの?」とか「これってあのアニメのキャラだよね」とか、自然にあちこちで交流が始まる。1000人も同一インスタンスにいれば、そんなインタラクトがそこかしこで発生する。みんなが好き勝手に行動していて、距離感は密すぎず、好きなグループに好きなときに混じれるような、そんな「街」が欲しいと思う。50人程度のスケールでは交わらなかったはずの人たちが交わる世界線がそこにはある。予想外のものが生まれるのは、往々にしてそんなカオスからである。僕がソーシャルVRに求めるのはそういう「異なる文化圏・言語圏が衝突したときに生まれる何か」なんだと思う。

考えてみれば普段追いかけているものもそうかもしれない。Spotifyは年末、その年に聞いた曲の統計情報を教えてくれるが、2019年のトップジャンルはOtacoreだった。いやOtacoreってなんだよと思ったけど、おそらくNightcore系の曲と、AmaLeeをはじめとしたアニソンの英語カバーをよく聞いていたからこうなっているんだろう。2019年一番の個人的ヒットは “I’m glad you’re evil too” というボカロ曲の英語カバーだ。ラストの “Though both of us will die one day / Though this life is useless anyway” から “It’s just a song, you idiot!” のセリフまでの流れが原曲のよさを完璧に引き出していて本当にすばらしいのでぜひ一度聞いてみて欲しい。普段意識しないけどたしかに自分はこういうの好きだなと改めてわかるのでSpotifyの統計情報はおもしろい。

VRChatで一番感銘を覚えたのは「転生したらスライムだった件(英語版)」の朗読会だ(詳細は増田の記事を参照)。そこで知り合った人たちとはいまでも交流があり、先日、初代サクラ大戦の非公式英語化パッチがリリースされたことを教えてもらって、これもすごいと思った。初代サクラ大戦が発売されたのは1996年、もう20年以上も前のゲームだ。これを教えてくれた海外フレンドは1980~1990年代の日本のアニメ・ゲームマニアで、それなりにオタクの僕でもたまについていけないことがある。「マリカ 〜真実の世界〜」とかカルトゲームすぎるやろ……。Vaporwaveのようなムーブメントとはまた違った文脈で、こういうオールドオタク文化を愛好する人たちがいるのだ。

カルトゲームと言えば、2017年9月にリリースされたDoki Doki Literature Club!はVRChatの人口が増え始めた時期と重なって、そのミームは当時のVRChat内にも浸透していた。僕もVRChatで知り合った人に教えてもらってDDLCをプレイしたのだけど、その頃は日本語化パッチが存在しなかったので原語でプレイした。先日、日本人のフレンドがプレイ動画を配信しているのを見て、日本語化パッチの完成度の高さに驚いたのと同時に、脳への負荷の低さにも驚いた。日本語だとほぼゼロ抵抗で内容が頭に入ってくるのだ。リリース直後にプレイしたときの苦労はいったい……。VRChatプレイヤーが母語のグループに閉じこもり気味になってしまうのもわかると思った。

だけど翻訳ではどうしても抜け落ちてしまうものがある、ということも最近よく実感する。たとえばRWBY Volume 1のラスト。

ここでワイス(白髪のキャラ)は “Not some…” といったん言いよどんでから “Someone else” と言っているが、このセリフのニュアンスは字幕や吹き替えでは絶対に伝わらないだろう。対象が単数の場合の Some は「どうでもいいけど」みたいな投げやりなニュアンスが含まれることが多い。そしてVol.1時点のワイスはファウナス(獣人)に差別意識を持っており、サン(金髪の獣人)のことを Riffraff とか Rapscallion(どちらも「ろくでなし」の意)とか呼んでいた。そういったコンテキストに鑑みて、このときも “Not some” のあとに見下す言葉を続けてしまいそうになったと考えるのが自然だ。しかしブレイク(黒髪のキャラ)に “He’s a person!” と言われたことを思い出し、”Someone else” とサンを対等の存在として扱う言葉に変えているのである。そしてワイスの変化に気づいたブレイクも、ワイスが言ったことを水に流し、チームメイトとして認める、というシーンだ。僕はRWBYを全シーズン10回以上見ているが、これに気づいたのは英語力がある程度向上した後である。こういう感じで取りこぼしてしまっている細かいニュアンスが他にもたくさんあるんだろうなと思うと、非常に悔しい。VRChatでは日本語を熱心に学習している海外ユーザーによく出会うが、彼らのモチベーションも同じところにあるのだろう。そんな執念が言語の壁を打ち砕き、ミームが言語圏・文化圏を越えたとき、どうなるか。僕はそこに一瞬のスパークを見る。シナプスを流れる電流のような。その火花が集まって巨大な花火になったとき、何か、これまで存在しなかった新しいものが生まれるのではないか。そんな空想をしてしまう。

2014年の春から夏にかけて僕は福島で除染作業員をしていたが、その後しばらく北海道をブラブラと旅した。そのとき釧路の古書店で買った本にこんなことが書かれていた。

ギリシャ人が獲得した異国の知識は権威に対する懐疑的態度を助長する上に非常な影響を与えた。自分の国の習慣しか知らない場合にはそれらの習慣が極めて当たり前のことに見えるために、我々はそれを自然に生まれたものと思うのである。ところが、もし我々が外国を旅行して全く異なる習慣や行動の規準が行われているのを見ると、我々は習慣の力なるものを理解しはじめる。そして道徳や宗教が結局は緯度の問題であることを発見するのである。 — J.B.ピュアリ「思想の自由の歴史」pp.19–20

住んでいる部屋を引き払って、住所不定無職になって、1か月とか半年とかのスパンで旅に出たりすることもちょくちょくあるが、僕は基本的にひきこもりである。できれば外に出たくないし、人に会いたくないし、部屋でひとり静謐な時間を過ごしたい。誰に文句を言われることもない気楽な天涯孤独の身なので実際にそうすることも可能なのだけど、自分の中にある焦燥感がそれを許してくれない。「言語の壁を壊せ」と、「距離に抗え」と責め立てられる。その正体は、前回の記事に書いた「生命のプログラム」なんだろう。そのプログラムがビルドされてから数十億年が過ぎ、A.D.2020を前にしても僕らはいまだ距離と言語に縛り付けられているが、Oculusのミッション “Defy Distance” が言うように、ソーシャルVRがその壁を壊していくはずだ。だから僕はここに未来を見ている。

幻想世界の住人

HMDをかぶり、ソーシャルVRのプログラムを起動する。視界は暗転し、しばらく待つと、電子の世界が目の前に広がる。見慣れたいつものホームワールドだ。視線を下に落とすとアバターの手は自分の意図する通りに動いている。……こうして現実とは異なるもうひとつの世界に降り立つとき、人はソードアートオンラインや攻殻機動隊の電脳空間のようなイメージを抱きがちだ。ネット上のどこかに巨大な仮想世界が構築されていて、自分も他人もそこに「ダイブ」しているのだと。しかし実際はそんなものはどこにも存在しない。僕らはみんなそれぞれのローカルPC上で実行されるプログラムの中に囚われている。

我々は並行して決して交わることのない空間で他者の幻影を見ているにすぎない。これはバーチャルマーケットで技術スタッフとしてギミックを担当していたhatsucaさんの金言である。VRChatのワールド製作はこの視点を持つことが最低条件、ここがスタートラインだと言っていいだろう。そして現代のソーシャルVRの本質を理解する上でも重要な視点である。

この視点を理解するには実際に簡単なワールドを作ってみるのが早い。まずは床と踏み台と確認用の鏡を配置する。

これをアップロードし、クライアントAでワールドを開く。そしてクライアントBでそのインスタンスにJoinしてみる。

当然ながら両者とも同じ光景を見ている。今度はさっき配置した踏み台を消してワールドを再アップロードする。

そしてBがいったんインスタンスを抜けて再Joinすると、ワールドデータが再読み込みされて最新の状態になるので、当然ながら踏み台が存在しない。しかしAのプレイヤー位置は変わらず、Bから見たAが宙に浮いてしまっている。

なぜこうなるのか? いまAは古いワールドデータを読み込んでいて、踏み台のあるワールドをローカルPCのクライアント上で再生している。Bは新しいワールドデータを読み込んでいて、踏み台のないワールドをローカルPCのクライアント上で再生している。その上で同じインスタンスにいる(=プレイヤーの位置同期が行われる)ので、Bから見たAが宙に浮いて見えるのだ。ワールドデータも、アバターデータも、プレイヤー位置も、プレイヤー音声も、実はまったく別々の要素で、それらをうまく同期させて同じ世界にいるように「見せかけて」いるにすぎない。上の例では違うワールドデータを読み込ませてみたが、このように再生するデータが少しズレただけで、プレイヤー間でまったく違う光景を見ることになるのだ。

僕らはネット上のどこかにある電脳空間にダイブしているのではなく、ローカルPC上で実行されるプログラムの中に他者の幻影を見ているだけだ。みんなそれぞれのローカルPC上で孤独に別々のゲームをやっていて、たまたまワールドやアバターや位置や音声が同期するから、同じ世界にいるように錯覚してしまうだけなのだ。その錯覚、幻想が、現代のソーシャルVRの正体である。僕らはそんな幻想世界に生きている。

しかし考えてみれば現実世界も似たようなものかもしれない。色弱の人はそうでない人とは違う色合いの風景を見ているだろう。教養や知識量の違いは日頃のニュースの聞こえ方を千差万別にするはずだ。みんなそれぞれのローカルPC、脳で違う現実を再生しているにすぎない。なのに僕らは同じひとつの現実世界を生きている。

たとえば一万円札は物理的には福沢諭吉のブロマイドでしかないのに、どこに持っていっても一万円分の価値を持つものと交換可能である。日本国内ではこのブロマイドにはそれだけの価値があると誰もが思い込んでいるからだ。海外ではただの紙切れ、よくわからないおっさんのブロマイドでしかないのに。おもしろいのはそうではないシチュエーションもあるということだ。僕は半年ほど海外をブラブラと旅したことがあるが、そのとき米ドルの基軸通貨としての強さを思い知った。自国通貨の信用が低い国では、米ドルのようなより信用できる通貨のほうがありがたがられることが多い。なぜ他の国の通貨が使えるのか? その国の人たちがそこに価値があると思い込んでいるからだ。貨幣の価値は、人々の思い込み、幻想によって担保されている。

法や国家といった概念も同じだ。なぜ裁判所の判決は人の行動を制限できるのか。その根拠、力の源泉は何か。民族も言語も主義も信仰もバラバラな人々が、国家という共同体を運営できるのはなぜか。人々が、国家という存在があると思い込んでいるからだ。同じ幻想を見ているからだ。それ以上の理由はない。数百万人、数千万人、数億人が同じ幻想の中に生きている。ただそれだけの話なのだ。

貨幣や法や国家といったものは、自然現象とはあきらかに違う。現実世界に必ず物理的な影響を及ぼす法則ではなく、人々が信じなくなればあっさりと消え失せるしろものだ。しかしこれらはたしかに現実世界に影響を及ぼしている。たしかにこの世界に顕現している。惑星規模で。人類史が始まってからずっと。僕らが生きるこの基底現実も、そんなあやふやなものでできている。

ソーシャルVRも、そこにログインする人々がみな同じ幻想を見るなら、この世界に顕現するのだろうか? それは本物になるのだろうか? 僕には少し懸念がある。この仮想世界にはとある魔法が存在するのだ。それが良い魔法なのか、悪い魔法なのか、僕はまだ判別しかねている。

2017年頃から勃興し始めたVTuber文化は声なき者に声を与えた。かつて初音ミクが名もなき作曲家を発掘したように、アバターをまとわなければ世に出ることがなかったであろう才能を発掘した。アバターはルッキズムを回避すると同時に、人間のより内面のほう、本質的な部分に焦点をあてる効果がある。VTuber界隈でもVRChat界隈でも、性別の概念はあやふやだ。初期の頃はよくネタにされていたが、もはや美少女が男声でしゃべろうが、イケメンが女声でしゃべろうが、誰も気にしなくなっている。当初奇っ怪なものとして扱われていた初音ミクのロボ声をいまでは誰も気にも留めないように、いつのまにか「あたりまえ」が書き換わったのだ。ボイスチェンジャーを使おうが、読み上げソフトを使おうが問題ない。VRChatでは完全ミュートの無言プレイさえとてもありふれたプレイスタイルである。

ボイスチャットメインのソーシャルプラットフォームでありながら無言プレイというスタイルがここまで一般化したのは、これがVRだからという理由が大きいだろう。ソーシャルVRは従来のテキスト・画像ベースのSNSより多彩な情報を送受信できる。平面のビデオチャットとはあきらかに違う存在感、たしかにそこに人がいるという実感がある。本当にすぐ隣にいるかのように、うなずいたり、首を振ったりといった細かい動作がダイレクトに伝わるし、全身を使って感情表現することが可能だ。その気になればハグだってできる。そんな状況ではコミュニケーションのツールとしての言葉は必須ではない。他のSNSに比べてVRChatでは言語圏の境界があいまいになりがちなのはこれによるものだろう。言葉が必須ではないから他の言語圏の人とも関わりを持ちやすいのだ。

感覚が空間を越える。それがソーシャルVRの最もすばらしいところだ。送信者の現実の動作その他諸々をデジタル化することで、それを情報通信網、インターネット上に乗せることが可能になる。そして受信側がそのデジタルデータを正しく再生すれば、それは受信者の視覚・聴覚その他で再度アナログ化され、受信者はそれを感覚的なものとして捉える。デジタル化→通信→アナログ化のプロセスがまるでなかったかのように、送信者がすぐ隣にいるかのように感じる。

通信前のデジタル化処理があることで、何千キロ離れた場所にいようと同じ部屋にいるかのように錯覚することができる。これがソーシャルVRのキーテクノロジーであることは間違いないが、現行世代のデバイスではデジタル化できるデータはまだまだ少ない。HMDで頭の位置・回転を、コントローラーで両手の位置・回転を、Viveトラッカーで腰・両足の位置・回転を、最近ではアイトラッキング指のトラッキングも可能だが、表情トラッキングに関してはまだ一般向けデバイスは存在しない。VRChatでは手元のコントローラで表情を作っている状況だ。触覚スーツのような実験的デバイスもあるし、着実に進化を重ねて現実の情報を以前より多く仮想世界に持ち込めるようになってはいるが、みんながみんな最新デバイスを所持しているわけでもなく、現実と同じレベルのコミュニケーションを行うためのデータ量には到底足りていないと言っていいだろう。そして前述した無言プレイのように意図的にデータを削ぎ落とすプレイスタイルも一般的だ。そうして欠落したデータの空白領域に対して、受信者の脳内で自動補完が働くことがままある。僕はそれを「妖精化の魔法」と呼んでいる。

たとえば、ずっと無言プレイだったフレンドがマイクをオンにしてしゃべり始めたとき、唐突に人間性を感じてショックを受けたことはないだろうか。僕は何度もある。VRChatにはさまざまなプレイスタイルがあり、地声+VR+全身トラッキングが最も現実から持ち込めるデータ量が多い。地声→ボイスチェンジャー→読み上げソフト→無言、VR(全身トラッキング)→VR(全身トラッキングなし)→デスクトップといった順にデータ量は減っていく。現実から持ち込むデータ量が多ければ多いほど相手の実在性を感じるし、逆に少なければどこか架空のキャラクターのように感じてしまう。後者では仮想世界上の姿(アバター)の印象に引きずられて、データの欠落した部分が自動補完されるからだ。そして往々にしてその空白領域は、自分にとって都合のいいバイト配列で埋められる。この疑似バイト配列が本当のバイト配列で上書きされたとき、つまり無言プレイだったフレンドがマイクをオンにしてしゃべり始めたとき、なぜショックを受けるのか? 答えは簡単。実在する人間だと思っていなかったからだ。何か空想上の生物、そう、妖精のように思っていたからだ。この疑似バイト配列こそが「妖精化の魔法」である。

妖精は予定調和の存在だ。あなたの想像の範囲を超えることはない。あなたを決して傷つけることはなく、心地いいことだけを言ってくれる。いつも笑顔で、怒りもしないし、悲しむこともない。そこにカオスは存在しない。だから安心できる存在だ。それが本当は違ったとしたら? あなたを傷つけるかもしれないし、耳障りなことを言ってくるかもしれない。怒りもするし、悲しむことだってある。そのカオスは現実の他人そのものだ。その落差に、人はショックを受けるのだ。「妖精化の魔法」がディスペルされる瞬間である。

現代の仮想世界に実在するこの魔法が、良い魔法なのか、悪い魔法なのか、僕にはわからない。妖精になりたいと思っている人もいるだろうし、僕自身もそこに心地よさを感じることはある。きっとこの魔法こそが「やさしいせかい」を作り出しているのだ。だけどやっぱりそれはただの幻惑魔法でしかないと心の片隅に留めておかなければ、いつか痛い思いをすることになるだろう。古参ユーザーは心当たりのある人も多いはずだ。

この仮想世界に「本当のもの」は存在するのだろうか? 幻影でも魔法でもない、たしかなものは。そんなことを考えるとき、僕はレディープレイヤーワンのラストを思い出す。

この映画の主人公はことあるごとに “I don’t clan.” 「俺は誰ともつるまない」と言う。エイチとの関係についてアルテミスに話しているとき、アルテミスと一緒にダンスしたとき、ノーランからオファーを受けたとき。エイチのような仲のいいフレンドはいても、主人公はあくまでソロで活動するプレイヤーとして描かれている。しかしラストでモローからOASISの運営権の話をされたとき、”I’m splitting it with my clan.” 「仲間と分ける」と言うのだ。”No clan” だった孤独な人間が “My clan” と言うようになるまでの物語。それがレディープレイヤーワンである。

対してOASISの開発者、ハリデーは人生の最期まで独りだった。

I created the OASIS because I never felt at home in the real world. I just didn’t know how to connect with the people there. I was afraid for all of my life, right up until the day I knew my life was ending. Now, that was when I realized that, as terrifying and painful as reality can be, it’s also the only place that you can get a decent meal. Because reality is real. You understand what I’m saying?
私がOASISを創ったのは現実世界に居場所がなかったからだ。私には人とのつながり方がわからなかった。生涯ずっと恐れていたよ。人生の終わりが近づいていると知る日まで。そのとき気づいたんだ。どれほど恐ろしく、痛みをともなうものであったとしても、現実だけが、確かなものを得られる場所だと。なぜなら、現実こそが本物だからだ。何の話をしているかわかるかね?

ここでの “Reality” は「現実」と訳すしかないが、”The real world” ではなく、もっと抽象的な意味であるように思う。ハリデーが生涯ずっと恐れていたこと、人とつながることそのものを指しているように思える。「本当のものは人とのつながりの中にしかない」と言っているように僕には聞こえるのだ。

死を前にすると人は否応なく自分自身に向き合うことになる。自分がこれまでどう生きてきたか、何をごまかしてきたか、何をしなければならなかったか。そういったことを本当の意味で理解できるのは、ほとんどの場合、死の直前だけだ。だからそれを理解したところで、もう遅すぎる。人生はきっとそういうふうにできている。

僕はいま東京都渋谷区に住んでいるが、10年ほど前、大阪市西成区で路上生活をしていた。それから1年ほどホームレスの自立支援施設で暮らし、京都市東山区で2年ほどプログラマとして働いた。京都での仕事が契約満了になったとき、ふと思い立って住んでいた部屋を解約し、荷物をトランクルームに預け、バックパックひとつを背負って旅に出た(このあたりの経緯も増田に投稿している)。このときタイの安宿で読んだ本の内容はいまでもよく覚えている。

マッカンドレスは北へ向かいながら、興奮をおぼえると同時に、ほっとしてもいた。人との付き合いや友人との交わりや、それに付随するさまざまなわずらわしい思い、そうした頭のうえにおおいかぶさるような強迫感からふたたび解放されたことで、ほっとしていたのだ。家族という閉所恐怖症を引きおこす場所から逃げてきたのである。ジャン・バーレスやウェイン・ウェスターバーグとは、適当にいくらか距離を置き、相手がなんの期待もいだかないうちに、彼らのところから飛びだしてきた。今度もやはり、ロン・フランツのところから苦もなくするりと抜けだしてきたのだ。 — ジョン・クラカワー「荒野へ」p.95

「荒野へ」は僕が最も好きなノンフィクション小説だ。「イントゥ・ザ・ワイルド」という映画にもなっているので知っている人もいるかもしれない。主人公マッカンドレスは社会のしがらみから逃れ逃れて、最終的にアラスカの荒野へたどり着く。そして4か月後に腐乱死体となって発見されるのだが、死の直前に彼はこう書き記している。

HAPPINESS ONLY REAL WHEN SHARED.
幸福は分かちあえたものだけが、ほんものである。 — 同p.301

僕はかつて、幸福や苦悩を誰とも共有したくないと思っていた。誰かと共有した瞬間、それは偽物になってしまうとさえ思っていた。おもしろいことに、いまはまったく逆のことを考えている。誰かと共有するからこそ、それは本物になるのだ、と。僕にも最近ようやくわかってきた。どんなに酷い目にあっても、どんなに傷ついても、僕らが人とのつながりをどうしようもなく求めてしまうのは、「本当のもの」がそこにしかないからだ。”Reality” は人とのつながりの中にしかないからだ。おもしろいことに、僕はこの “Virtual Reality”、幻影と魔法の世界で、それを知ったのである。

紫苑の花言葉

すべてかりそめにすぎない。 おぼえる者もおぼえられる者も。 — マルクス・アウレーリウス「自省録」4–35
遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。 — 同7–21

紫苑の花言葉は「君を忘れない」「遠方にある人を思う」だそうだ。この花は2019年9月に公開された謎解きワールド「アスタリスクの花言葉」でモチーフとして何度も出てきた花である。VRChatでは謎解きワールドはジャンルのひとつとして確立されているが、このワールドはそれまでの謎解きワールドとは一線を画していた。異様な難易度、迫られる決断、ラストの怒涛の伏線回収。あまりの難易度の高さに、公開当初はいくつものグループがインスタンスを越えて連携し合うような、さながらレイドバトルの様相を呈していた。かくいう僕もこのレイドバトルに参戦し、寝不足と疲労と謎のハイテンションと共になんとかラストまでたどり着くことができた。

バーチャルマーケットのような集団製作を別にすれば、これは現時点で個人が製作できるソーシャルVRワールドの限界点であるように思う。限界点であるがゆえに最後までたどり着ける人は少ないが、その分、クリアした人たちは簡単には咀嚼できない巨大で複雑なメッセージを受け取り、さまざまな感情を抱いたようである。ここで内容の詳細を語ることはしないが、僕のクリア後の感想も「ああーマジかヨツミフレーム……」であった。

僕はこのワールドの作者、ヨツミフレームと個人的な交流がある。なんなら件のワールドにSpecial Thanksとして僕の名前がクレジットされているのだが、僕はこのワールドの製作にはまったく関わっていない。ヨツミフレーム本人は「ワールド作成にあたり影響を受けた人」と説明していたが、僕が彼にどういう影響を与えたのかはいまいちよくわからない……という話を海外フレンド(日本語も英語も堪能)としていたら、「かなたさんはみんなを motivate する」と言われたことがある。おそらく適切な日本語が見つからなくてそこだけ英語になってしまったのだと思うが、motivate は「(行動を起こすための)動機を与える」「その気にさせる」という意味だ。自分でも気づかないところで、人間は意外と他人に影響を与えているものなのかもしれない。

ちなみに本稿も冒頭に「Special Thanks: イワシクラスタのみんな」とクレジットしているが、これは本稿のところどころにイワシクラスタ内での議論を下敷きにした部分があるからだ(※文責はすべて筆者にある)。日本語圏のVRChatプレイヤーなら知っている人が多いと思うがいちおう説明しておくと、イワシクラスタはVRChatで活動する技術集団である。前節で紹介したhatsucaさん含め、バーチャルマーケット3の技術スタッフはほとんどがイワシの民だ。ワールドモデラーとしても数人参加している。その正体は、かつてVRChatに存在したイワシファームという労働ワールドに集まっていた人たちである。

このつながりはいまでも続いている。興味深いのはこのクラスタにはホストとなる役割の人間が誰もいないということだ。いちおう「ソーシャルVRに対して技術的興味がある」という点でクラスタメンバーの方向性は一致しているものの、考え方やスタンスは意外とバラバラで、実際たまにそれでトラブったりしているし、普通なら誰かが積極的にコミュニティを維持しなければ空中分解してしまいそうなものだが、ゆるく長く続いている。

ヨツミフレームもイワシクラスタの一員である。件のワールドでまず思ったのは「ああ彼はこういう人間だったのか」ということだ。イワシクラスタで話される内容は技術的なトピックだけではない。もちろんそれがメインのトピックではあるが、ソーシャルVRの文化的側面(これは僕が中心になって話すことが多い)についてだとか、最新VRデバイスのレビュー、VTuber、映画、ゲーム、アニメ、イワシ、等々、話題は一般的なネットコミュニティのそれとさして変わらない。しかし件のワールドで僕は初めてヨツミフレームの好きな映画やゲームを知ったのである。それは他のクラスタメンバーも同じだったようだ。ヨツミフレームは件のワールドを1年弱かけて製作したそうだが、その間、VRChatコミュニティの中で最も関係が深いであろう僕らにも何も言わず、ひとりで黙々と創作活動をしていたのである。まわりの人間がどんどん関係を変え、恋人同士になったり、喧嘩したり、仲直りしたりするのを横目で見ながら、ひとりで淡々と。そこには妄執にも似た何かがあったに違いない。僕は1年かけて24万字の本を書いたことがあるが、そのときはある種の妄執、自分の心奥から湧き上がる何かに突き動かされていた。そうでもなければ1年も文章を書き続けることはできなかった。だからわかる。あのワールドの最奥にあるのは、ヨツミフレームの心奥そのものだと。そしてそういったものにふれたとき、人は自分自身の内面に向き合わざるをえない。

エヴェレットは一匹狼だが、人間はとても好きだった。ただ、そこに住みついて、ひっそり余生を送ることはできなかった。ま、だいたい人間なんて、そんなものだよ。俺もそうだし、エド・アビーだって、このマッカンドレスという若いのだって、みんなそうだ。みんな仲間付き合いは好きだが、あまり長いことまわりにいられるのは、耐えられない。だから、行方をくらましたり、またしばらくもどってきたり、逃げ出したりするのさ。 — ジョン・クラカワー「荒野へ」p.158

僕はこれまでひたすらちゃらんぽらんに生きてきた。何度も住む土地を変え、人間関係をリセットし、特に居心地のいい場所からはいつもしれっと逃げ出した。どこにも誰にも愛着を持ちたくないからだ。何にも執着したくないからだ。その生き方が間違いだったとは思わないし、きっとこれからもそうやって生きていくだろう。

日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」などから「靴磨き」をやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。 弁士は字幕にはなかったが、「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何んぞや!」と云った。それには雑夫達の「真剣な」拍手が起った。然し漁夫か船員のうちで、「嘘こけ! そんだったら、俺なんて社長になってねかならないべよ」と大声を出したものがいた。それで皆は大笑いに笑ってしまった。後で弁士が、「ああいう処へは、ウンと力を入れて、繰りかえし、繰りかえし云って貰いたいって、会社から命令されて来たんだ」と云った。 — 小林多喜二「蟹工船」

僕は物語を否定する。

俺がシド・ヴィシャスって大っ嫌いなの知ってるだろ。何でだろうなって考えて、最近わかったんだ。あれはね、シドが嫌いなんじゃなくて、まつわる物語が気に入らないんだよ。それを賛美する連中も嫌いだな。悲しくなるように自分で勝手に作って、自分で勝手に陶酔してんだ。そんなの、くそっくらえだよな。連続性だとか、継続だとか、因果関係だとか、死ぬほどどうでもいいってことだよ。瞬間が全てなんだ。本人はそんなに悪い人じゃないと思うけど、くだらないメロドラマはごめんだ。人生を馬鹿にしてやがる。何でもかんでも物語仕立てにしやがって。そんなにみんな、ストーリーが好きなのか。俺は全然否定するね。ドラマなんか、くだらないよ。なあ村上、大事なのはその瞬間に全てをかけることなんだ。パンクロックはスパークだ。そう思わないか? — OVERDRIVE「キラ☆キラ」

僕はドラマを否定する。

この世界には特別なものなんてどこにも存在しない。出会いも別れも、生も死も、すべてありふれたことで、特に大騒ぎすることじゃない。だから僕がこの生き方を続けて、見知らぬ土地で誰にも看取られずに野垂れ死んだとしても、別にたいしたことじゃない。それが不幸なことだなんて誰にも言わせない。

だけど同時に、人とのつながりを無意味だとも思わない。

「おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとこっちをごらん。(中略)おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐ行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考下手やうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこに行くがいゝ、そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」第三次稿

僕らはみんな切符を持っている。この世に生まれ落ちるその瞬間、無理やり手の中に押し込められた、天の川でたったひとつの切符。列車にはいろんな人が乗ってきては途中下車していく。その一瞬の時間の共有を、決して無意味だとは思わない。

おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いゝかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年、だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときには斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だって歴史だってたゞさう感じてゐるのなんだから。 — 同

ずっと考えていた。どうして僕らはHMDをかぶり、この仮想世界にダイブするのか。本当はそんな仮想世界なんてどこにも存在しないのに。僕らが見ているのは他者の幻影で、この優しい光景はただの幻惑魔法でしかないのに。なぜこんな不安定で、不確定な、儚い幻想の世界に僕らはいるのだろう? 思い出すのは、そこで過ごした膨大な時間のこと。夜が明けるまでクラブで踊りあかした日のこと。誰も何も語らず、焚き火を囲んでただ静かな時間を過ごした日のこと。みんなで満天の星空を見上げた日のこと。それらがどうしても偽物だと思えないのは、思い出すだけで胸が締め付けられるような気持ちになるのは、あの時間が、ひとりで過ごした時間じゃなかったからだ。誰かと共有した時間だからだ。天の川だって汽車だって歴史だって、そして仮想現実だって、きっと僕らが「本当のもの」だと思えば「本当」になる。”Reality” は、人とのつながりの中にある。

おわりに

Your pain and your hunger, they’re driving you home
And freedom, oh, freedom, well that’s just some people talking
Your prison is walking through this world all alone
痛みと飢えは居心地のよさをくれる
自由、ああ、それが自由だと語るやつもいるだろう
その檻に籠もったまま君は独りきりでこの世界を生きていくのか
— The Eagles “Desperado”

流れ流れて渋谷で暮らし始めて3年になる。以前なら同じ土地に2年もいれば部屋を引き払ってすべてをリセットしたくなったのに、まだここを出ようとは思わない。そんな自分の変化に少し驚きを覚える。でも、いやな感じはしない。

人生がうまくまわり始めたわけじゃない。あいかわらず可もなく不可もなく、どうにかこうにか毎日を生きている。どこかの組織に所属してみたり、抜けてみたり、どこかのコミュニティに入ってみたり、しれっといなくなってみたり。まあいつも通りだ。

きっとこの先もずっとこんな感じだろう。世界中の国を旅したとしても居場所なんてどこにもないし、世界中の人とふれあったとしても誰ともわかりあえない。こんな長文記事を書いても、24万字の本を書いても、どれだけのことを伝えられるというのだろう。

僕はヨツミフレームを理解できない。同様に、ヨツミフレームも僕を理解できないだろう。どう考えても生きてきた環境が違いすぎる。他のイワシクラスタメンバーはどうだろう。他のコミュニティは。海外フレンドは。たぶん、僕はこの仮想世界でも、誰とも何もわかりあえない。

だけど、それでも、一緒にいることはできるから。

一緒にいたいと思うから。

きっとそんな小さな願いがより合わさって、この世界は織り成されている。

それはどうしようもなく脆くて、ふとしたきっかけで終わってしまうようなものなのかもしれないけれど。

だから、この儚い幻想世界に、せめて紫苑の花束を。

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