2019年12月28日

司書が”試される”映画 - 『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』視聴メモ・おかわり編


 とあるところでとある事情から、映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』のコメントを書くことになり、なんだ今年は中盤から最後までNYPL尽くめではないか、ライオンちゃんから詰め合わせセット貰ってもいいくらいじゃないか、と思うのですが、というわけで、以前書いた下記記事への追記的なメモです。

・映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』視聴メモ (egamiday3)
 http://egamiday3.seesaa.net/article/467793521.html

 その追記的なコメントを書くにあたって参考にした主な文献を下記に挙げておきます。映画本編+パンフ類と、菅谷さんの『未来をつくる図書館』をのぞけば、目を通しておくべき重要なコンテンツ(日本語による)はこの4つじゃないかなって思いますね。特に4番目の対談と5番目のLRG記事は、映画本編では語られなかった、あるいは深められなかった重要なことを補ってくれるので、すごくありがたかったです。

・鈴木一誌. 「多からなる一 : フレデリック・ワイズマン監督『エクス・リブリス : ニューヨーク公共図書館』」(特集 図書館の未来). 『現代思想』. 2018.12, 46(18), p.69-77.
・(パネル抄録)「『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』 公開記念パネルディスカッション : ニューヨーク公共図書館と<図書館の未来>」. ニューヨーク公共図書館 : エクス・リブリス(映画オフィシャルサイト).
 http://moviola.jp/nypl/event.html
・(パネル動画)ミモザフィルム. 「『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』 公開記念パネルディスカッション ニューヨーク公共図書館と<図書館の未来>第二部」. YouTube.
 https://www.youtube.com/watch?v=GIciohenaq4
・「スゴ本と読書猿が映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を語り尽くす」. はてなニュース. 2019.7.13
 https://hatenanews.com/articles/2019/07/13/180000
・豊田恭子. 「もうひとつの『ニューヨーク公共図書館』 : 映画の背景にあるものを読み解く」. 『LRG = ライブラリー・リソース・ガイド』. 2019, 28, p.99-109.

 以下、考えたことのいくつか。

 このドキュメンタリーの特徴として、それが監督さんの妙味なのか図書館のなせる技かは私にはわかりませんが、ナレーションが無い、解説がない、字幕もそれほど流れてない、ただただその現場やバックヤードをカメラが映し続ける、という手法があるとおもうんですけど、そのことを菅谷さんがパネルディスカッションで、観客を「透明人間」として立ち会わせる、っていうふうに表現してるんですね。これが菅谷さんオリジナルの表現かどうかはわかりませんけど、それを聞いたとき、あ、なるほど、と思うと同時に、背筋がちょっとゾクっとしましたね。

 これ、観た司書が”試される”映画だったんだな、と。

 現場に透明人間として潜り込むって、カタギの人=非図書館関係者だったらいいんですよ、バックヤードを覗き見ちゃおうっつって、見たことのないサービス、聞いたことのない議論、そんなことやってんだ、そんなこと考えてるんだ、それこそこの映画の惹句「え、これが図書館?」ってな具合で、驚いたり感心したりして、まあ、それで済むっちゃ済むんですけど、我々図書館関係者、特に現役で働く司書にとっては内心穏やかでいられない、いや、いられるわけがない。
 だって、この映画やそこに描かれる図書館の活動に対してどのような反応をするかっていうのは、すなわち、「自分がふだんどのような考えと心構えで職務にあたっているか」のあらわれであるから。
 カタギさんにとっては大人の社会科見学かもしれないこの映画ですが、現役司書がよそさんとこの図書館のバックヤードに透明人間として立ち会うって、それ、異動か転職か在外研修で送り込まれた状態に近いわけですよね。これからここで実務に携わるかもしれないという想像の中で、規模も活動内容の多様さも桁違いの現場と、同業者たちの議論を目の当たりにするわけですから、まあ、まともな神経の現役司書なら「ただ驚くのみ」という反応はまずありえへんでしょう。
 だからこそ、どう反応するか、が”試される”ことになるのでは、っていう。
 オーマイガッ、こんなことやったことない、考えたこともない、と戸惑うのか。
 ワオッ、こんなことができるのか、なるほどやっていいんだ、と興奮と希望を抱くのか。
 ガッデム、なんで奴らにはできてうちらにはできないんだ、何が悪いんだ、と彼我の差に臍をかむのか。
 ハッ、ありえないよこんなの、現実的じゃないね、と斜に構えてあちこちにケチをつけるのか。
 ……、え、あ、うん、まあふつーじゃん、図書館ってこうだよね、か。

 あ、最後はあたしの反応でしたね。
 前のブログ記事にも書いたように、あたしにとってはなんの疑問もひっかかりもない、「ごく自然なあるべき姿」の図書館が描かれた映画だったな、という感じでした。まあ、彼我の差に臍をかむ、がチョイのせくらいで。
 数々の図書館活動も、公民館のような活動も、スピーチもイベントもダンスも。ライブラリアンたちのディスカッションなんか、正直、さほど目を見張るようなテーマや内容が話されてたとは別に思えず、ああ、まあこういう話するよねー高野屋とかバンガローで、ていう感じ。共通して言えるとしたら、どれもこれもが、図書館がそのミッションを果たすためにやるべきことをやっていた、というまっとうさへの感心、かな。

 強いて不自然さを挙げるとしたら、たとえば図書館が映画動画の素材になるっていうときには、本そのものだの書庫の様子だのっていうのが主役になるのが定番じゃないですか、まああたしも正直そういうのが好きではあるし。
 けど、まあこれも多くの人が指摘済みですが、この映画では本や書庫や書架がほとんど登場しないんですね。終盤でデューラーのサイについて語るペダンチックがとまらないCCBのようなライブラリアンが映りますが、あれなんかがもっともステレオタイプな”図書館”の映像だなって思うんですけど、あれってむしろこの映画内ではかなりの少数派に見えますもんね。
 本が主役じゃないだけでなく、情報すらそれほどでないのかもしれない。印象的なのは、対人サービス・対人活動、人が登壇するイベントとその多彩さ、あるいは利用者の多様さ、といった感じで、それをまあかなりわかりやすく象徴してたのが、これも多くの人がとりあげてた、オランダ建築家の「図書館は人のため」発言ですかね。そういうふうに、パブリックな場所に市民住民が寄り集まってなんやかんやしてるっていう様子は、日本で言う公民館のようでもあるし、あるいは広場や市場、公園にも似てる。
 公園、何回も映ってましたもんね。あれたぶん本館裏手のブライアントパークで、あそこってNYPLの建物からとんでくるwifiつかまえられるから、あそこでスマホいじってた人の様子=図書館利用者の様子、ってことですよね。

 さてそんな、公民館や広場や市場や公園のようであって、でもどれでもない、あくまでも図書館、なのに本や書庫が登場しない。
 そんな映像の中で、この図書館が市民に提供しているものとは、果たしてなんだろう、と思うわけです。
 で、それは「find」ではないかというのが、これも前の記事に書いたことでした。つまり、レファレンスや読書で知識情報を「みつける」だけでなく、「わかる」「気付きを得る」という機能・役割をもち、人々に提供している、それがあの映画で描かれていたことだったんだろうな、っていう。スピーチも就活講座もダンス教室もそういうことだよね、と。
 そして、それによって見つけられる/得られるものこそが、ショーンバーグ図書館(ブラックカルチャー)の館長の言う「必要な面倒ごと」であって、不都合なことに目をつむるのではなく、世界の面倒ごとに真摯に向き合うこと。そのリソースと場所を提供するのが、図書館の役目だ、ていうことなんだろうなって思いました。

 「真理がわれらを自由にする」、ってそういうことですよね。

 しかも、真理もfindも決して誰かから与えられるものでもお上から降ってくるようなものでもない。享受者たる市民たち側からも働きかけることによって、ともに築いていくべきものだろう、と。序盤でルーツ探しのレファレンスサービスの様子もうつりましたが、単なるQ&Aで情報を一方的に与えるのではなく、いつしかユーザとライブラリアンとのディスカッションのようになっていたのがすごく印象的で、で、そのあとのスピーチが「図書館運営は公と民の協働である」でしょ、なるほどつながってるなーと思うわけです。レファレンスも経営も、自分から積極的に築いていくスピリッツっていうか。

 そんなあれこれを透明人間として目撃した結果、やっぱり「自然なあるべき姿」だという感想を持たずにはいられないのは、これもパネルディスカッションでの菅谷さんの言葉を借りれば、「揺るぎない図書館のミッションがあり、それを軸にしつつも、時代やニーズの変化に応じてしなやかにサービスを変え」ているから、っていうことなんだろうなと思います。
 だからあたしはこのNYPLの活動規模と多様性が、典型例ではない、ある意味”けたはずれ”であり、ふつーの図書館にとって”非現実的”であるかもしれない、にもしろ、正直、So What? 「だからなんだ?」って思いますね。だって、それって別に規模の大小やリアルな実践の有無の問題じゃ無くねえ?と。そんなの関係ねえ、と。
 図書館として果たすべきミッションがぶれることなく明確でさえあれば、まあ結果として、規模が大きかろうが小さかろうが、リアルに実践できようができまいが、あるいは実践した結果が紙だろうがデジタルだろうがはたまたダンス教室であろうが、それは個々の図書館の事情と条件で様々に変わるだろうし、変わってあたりまえなんだから問題にする必要なんかないだろう、と。

 NYPLがあの多彩かつ大がかりな種々の活動を実践できてるのは、決して「そこがニューヨークだから」じゃないでしょう、と。「ミッションがブレてないから」できてるんでしょう、と。
 だったら、ニューヨークまでの何マイルかは遠すぎるかもしれませんが、我々の延長線上にあることに変わりはないんじゃないの、と。

 というわけから、あたしとしては、うんやっぱり何の不自然さもない心地よいだけの「環境ビデオ」だったな、という感じです。

 環境ビデオ、でコメント終わるわけにはいかないからいろいろ遠回りしましたが、そんな感じで。

posted by egamiday3 at 10:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする