『アマニタ・パンセリナ』とモラルの外側の話

中島らものドラッグ・エッセイ、『アマニタ・パンセリナ』。大麻や覚醒剤、咳止めシロップ、シンナー、睡眠薬から毒キノコやガマガエルまで幅広い”ドラッグ”を扱っているが、本書はただのドラッグ・カタログではない。中島らもが”ドラッグ”を通してたどり着いた「なぜ人は酩酊を求めるのか?」の答えに迫る。

目次

illustration by Issey

『アマニタ・パンセリナ』と『バンド・オブ・ザ・ナイト』

『アマニタ・パンセリナ』は、中島らもが自身の体験談や古今東西から集めたエピソードを基に、ありとあらゆるドラッグについて語ったドラッグ・エッセイだ。中島らもの「ドラッグ」についての著作というと、『バンド・オブ・ザ・ナイト』を思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし、『バンド・オブ・ザ・ナイト』がドラッグを中心とした人々の「生活」を描いているのに対し、『アマニタ・パンセリナ』は様々なドラッグをその歴史、使用感、エピソードという角度から中島らもなりに分析している。視点や表現したいことは違えど、両書に同じエピソードが登場していたりすることもあり、合わせて読んでみるととても面白い。

そんな『アマニタ・パンセリナ』はガマガエルの毒から覚醒剤、アルコールに至るまで様々なドラッグについて考察すると同時に、「人はなぜドラッグを求めるのか?」という問いを投げかける。

人はなぜ「ガマ」まで吸ったりするのだろうか。最初にガマを吸ってみた人間は、どういう奴だったのだろうか。

(中略)

ガマをなめ、殺虫剤をかぎ、毒キノコを喰らい、都市ガスやフレオン、硝酸アミル、ブタンを吸い。連中はどこへ行こうというのか。そして、連中の後をつけたり待ち伏せしていたりする僕は、何を見届けたいのか。よくはわからない。とにかく話を始めよう。

中島らも『アマニタ・パンセリナ』1999年、集英社

人は何のためにドラッグを求めるのか。その行き着く先はなんなのか。人とドラッグの関係の奥底にあるものを、『アマニタ・パンセリナ』から覗いてみよう。

『アマニタ・パンセリナ』が越えたモラルの壁

『アマニタ・パンセリナ』の存在意義を理解するには中島らものドラッグ観を知る必要がある。中島らもは『今夜、すべてのバーで』にて、こう述べている。

中毒者でないものが薬物に関して発言するとき、それは「モラル」の領域を踏み越えることができない。

中島らも『今夜、すべてのバーで』講談社、1994年

これは、ドラッグの中毒になったことのない人間がいくら「ドラッグは良くない」と言っても、それはモラルやルールという与えられた前提を盲目的に信じているだけで、ドラッグによって得られるものと失うものを天秤にかけた意味のある発言ではないと言った意味である。そして中島らもはアルコール、睡眠薬、咳止めシロップ、抗うつ薬の中毒であり、大麻、LSD、覚醒剤なども一通り経験したと『アマニタ・パンセリナ』で述べる。そんな中島らもが自身の経験を踏まえドラッグについて書いたということは、『アマニタ・パンセリナ』は彼の血の通ったドラッグ論だということだ。

しかし、ドラッグを「自失」だと定義する中島らもは、ドラッグ中毒の末死んでいった人たちと比べれば真髄と程遠いところにいることを認めている。

ドラッグについて、酩酊について書くことは、死と生について語るのと同義である。ただ、医者や学者に語る資格がないのと同じように、生き残ってしまった側にも真相は見えていないのに違いない。
だから、この文章も「浮言」の一種だと思っていただくとちょうどいいかもしれない。

中島らも『アマニタ・パンセリナ』1999年、集英社

とはいえ、死んでしまっては生きている人に何も伝えられない。なので、『アマニタ・パンセリナ』はドラッグで死の手前まで行った中島らもが我々に残してくれた「ドラッグの真髄に近い部分」なのであろう。

ドラッグの貴賤

モラルの壁を乗り越えるために

薬物乱用は「ダメ。ゼッタイ。」これは財団法人麻薬・覚せい剤乱用防止センターが運営するキャンペーンのキャッチコピーだ。多くの人に耳馴染みのある言葉であろう。この言葉の通り、モラルの上では薬物なんてのはもってのほかで、それは種類の如何を問わずダメなんである。

しかし、こういったキャンペーンは漠然と「ダメ」「危ない」といったイメージを植え付けるだけで、「それがなぜダメなのか」や「個々のドラッグの違い」などについては教えてくれない。モラルの領域を踏みこえられないと言われる所以だ。

一方、中島らもはドラッグには貴賤がある、と述べる。モラルの上では全て「ダメ」なはずのドラッグだが、その中に良し悪しがあるとは興味深い意見だ。彼は自身の体験からそのドラッグの良し悪しを論じるのだが、やはり法律で禁止されているものを事実として「やりました」というわけにはいかない。そこで、無理矢理「フィクションということにする」手法でモラルの壁を超えて発信しようとする。中島らもの本気度が伝わってくる。

こういうものを書くと、それが証拠になって逮捕されるものなのかどうか、よく知らない。しかし、やはり書かずにすますわけにはいかないだろう。だから、こうしよう。この本に書く事柄はフィクションであり、いかなる実在の作家、売人とも関係しません。

中島らも『アマニタ・パンセリナ』1999年、集英社

覚醒剤は愚劣なドラッグ

中島らもにとってのドラッグの貴賤とは、ドラッグの序列のことではなく、そのドラッグが愚劣なものであるか否かということを意味している。中島らもが睡眠薬や咳止めシロップ、アルコール、大麻など数多くのドラッグを愛好していたことからもわかるように、彼は多くのドラッグを「愚劣なもの」としては認めていない。

ジャンキーが、あるいは幻覚を必要とする人間が、それと承知で受け入れる分には、どんなドラッグもいやしいものではありえない。

中島らも『アマニタ・パンセリナ』1999年、集英社

しかし、中島らもはシャブ、つまり覚醒剤のことは「愚劣なドラッグ」であると断言する。しかし、それは一般に言う「危ない」からというような安易な理由ではない。

ドラッグとは、シャブも含めて、ただの物質である。ただの物質に貴い物質もいやしい物質もない。個人、および社会との関係がドラッグの性格を決めるだけだ。

そういう目でながめた場合、シャブはその生い立ち、社会とのからみ、個人に及ぼす作用、どれをとってみても、これは”愚劣なドラッグ”としか言いようがない。

中島らも『アマニタ・パンセリナ』1999年、集英社

『アマニタ・パンセリナ』によると、覚醒剤の生い立ちは太平洋戦争中、特攻隊員の戦意工場のために使われ、その後は市場に「ヒロポン」として出回った後、1951年に覚醒剤取締法ができたことでヒロポン中毒者は姿を消した。そして1970年代に警察がヤクザの壊滅に力を入れ始めると、資金源を断たれたヤクザは新しい資金源として覚醒剤を用い始め、それをドラッグとは縁のない人々に「疲労に効く薬がある」として売りつけたようだ。殺人意欲向上剤としての使用から始まり、ヤクザの勢力拡大のために使われる。これが中島らものいうシャブの「生い立ち」と「社会のからみ」におけるいやしさだ。

シャブは、人間をオンとオフのふたつのスイッチしかない存在に変える。それもかなり短い期間で。

中島らも『アマニタ・パンセリナ』1999年、集英社

覚醒剤は使用すると力がみなぎって、何時間でも疲れを知らずに動き続けられるらしい。薬が切れるとそれまで感じていなかった疲れが一気に押し寄せるが、その疲れは薬をもう一度打つと一瞬でなくなるようだ。この繰り返しにより、人間を快と不快のスイッチしかない存在に変えるシャブの効能のことを中島らもは「愚劣」と呼ぶ。

人間、動物、これみなすべて快楽原則にのっとって動いている。快と不快のスイッチとしてシャブが提示された場合、これを拒むことは不可能だといっていい。そこにおちいらないために必要なのは「情報」、これだけだと僕は思う。

中島らも『アマニタ・パンセリナ』1999年、集英社

そうした「愚劣なドラッグ」から身を守るためには正しい情報を得ることが必要だと中島らもは説く。「いけないことだ」とだけ言われてもなぜそれがいけないのか、の情報がなければ自身で判断することができない。なんとなくタブーな話題を「だめ」と言う空気を出して圧殺するやり方は、学校における性教育を連想させる。世間一般に「いけないこと」だと思われていることがなぜ「いけない」ことなのか説明できる人は少ない。誰も教えてくれないらなら、正しい情報を与えて自らに判断させた方が良い気がする。

万物に向かって開かれていないと、我々は一知半解の教条主義者となって、世界のほとんどを切り捨てることになる。開かれた状態で光も闇も受け入れて、それから自分に信じられるものを見つけていくのだ。

中島らも『アマニタ・パンセリナ』1999年、集英社

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