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山口敬之氏はなぜメソメソ泣いて会見しないのか

「らしくない態度」を責めたてるトーン・ポリシング

赤木智弘 フリーライター

悪意の要求に応じても、決して問題は解決しない

 性犯罪にせよ、貧困にせよ、うつ病にせよ、そうした問題を抱える人達でも、その人には当然、普通の生活がある。働いたり、子供の世話をしたり、買い物をしたり、友だちと遊んだり。そんな生活の中で人は様々な表情を見せる。当然、喜怒哀楽もついてくる。

 そうした中で特定の感情を取り上げて「本当の〇〇は、そのような態度は取らないはずだ」とする考え方は、そうした困難を持つ人たちを、一定のイメージの中に閉じ込めてしまう。それは「可愛そうだと思われたければ、俺たちの気にいるような態度をして暮らせ」という呪詛の言葉に他ならない。

 だが、そうした呪詛は決して、問題のない生活を謳歌している人たちだけから投げかけられるのではない。

 呪詛の言葉を投げかける人の中に、僕には心配な人がいる。それは山口氏のいう「本当に性被害を受けた人」だ。その人は性被害を受けた上に「本当の性被害者はこのようにあるべきだ」という呪詛の言葉に囲まれて、それを規範化してしまっているように思える。「本当の被害者」の姿でありさえすれば、いつか今の苦しみが報われる時が来ると信じているのである。

 だからこそ、自分たちのように苦しみをぐっと胸の奥に押し込めて、必死に辛さに耐えるということをせず、自分の被害を世間に公表し、まるできらびやかな活躍をしている伊藤氏のことが、とても許せないのだろう。

 しかし当然だが、性被害者が自分の苦しさを胸のうちに押し込んでも、誰も助けなどしないし、誰も助けられない。そうして被害者が押し黙ることこそが、性加害を無視する人たちが望む世界なのである。

 そのような呪詛の言葉に従って、下を向いて押し黙る必要は一切ない。その言葉自体が困難を抱える人々を黙らせようとする悪意にほかならない。悪意の要求に応じても、決して問題は解決しないのである。

 その人の人生は困難を抱えた時点で終わってしまったわけではない。しっかりと声を上げて困難を訴えるとともに、自分の生活をしっかりと楽しむことが、悪意の声を挙げる人たちに対する、適切な反撃となるだろう。

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筆者

赤木智弘

赤木智弘(あかぎ・ともひろ) フリーライター

1975年生まれ。著書に『若者を見殺しにする国』『「当たり前」をひっぱたく 過ちを見過ごさないために』、共著書に『下流中年』など。

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