web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

レベッカ・ソルニット それを、真の名で呼ぶならば

ドナルド・トランプの孤独〈それを、真の名で呼ぶならば 2〉

The Loneliness of Donald Trump (2017)
 
 むかしむかし、底なしで終わりを知らない貪欲な子が裕福な家庭に生まれました。何ひとつ不自由がないというのに、持っていないものを欲しがり、すぐ手に入れられないと癇癪を起こしました。たとえ欲しいものを手に入れても、そのたびにさら別のものが手に入れたくなるのです。その子はまずギザギザのオレンジ色の爪になって海の底でコソコソと走り回り、欲しいものをわしづかみにして死肉を食べるカニになりました。次には、ロブスターとそれを煮る鍋になり、シロアリになり、挙げ句に小さな帝国の暴君になったのです。彼は親からもらった富で優遇されたスタートを切り、彼が役に立つ限り大目に見てくれる犯罪組織や詐欺師の間を動き回りました。というか、裏切るか裏切られるまでは互いへの忠誠心を信条としている世界や、法律に縛られないルールがある場所では、彼を大目に見る緩さがあったのでしょう。こうして、70年もの間、彼は自分の欲望を満足させ、嘘をつき、盗み、雇った労働者に賃金を払わず、多くのヘマをやらかし、それらをそのまま放置し、さらに安っぽい宝飾品をかき集めて、すべてが崩壊するままにしたのです。

 彼は偉大な創造主だということになっていたが、たいていの場合は破壊者だった。建物、女、企業を買収し、宣伝した後で放棄するというかたちで、すべてを同じように扱った。企業は破産させ、妻たちとは離婚し、昔の木こりが川に流れる丸太の上を飛び歩いて工場に行ったように数多くの訴訟を切り抜けた。法律はグラグラおぼつかないし法の執行者はもっとグラグラしていたから、彼が取引する闇社会の交渉人の間を動き回っているうちはどうにか沈まずにやってこられた。けれども、彼の欲はきりがなく、もっと手に入れたがった。そこで、彼は世界で最も権力がある男になる賭けをし、軽率な願望であるにもかかわらず勝ったのである。

 彼のことを考えるとき、プーシキンが伝えた『金のさかな』という民話を思い出す。漁師の網に捕らえられた金のさかなが、海に戻してもらうのと引き換えに願いを叶えることを申し出るが、漁師は何も求めずにさかなを逃がしてやる。後で漁師が妻に不思議ないきものとの出会いを話したところ、妻は洗濯桶をさかなに頼めと夫を送り返す。妻は次には今住んでいるあばら家に代わる小屋を求め、願いを叶えてもらう。だが妻はさらに傲慢で欲深くなり、豪邸に住む大金持ちになり、召使いをこき使い、ふたたび夫をさかなのところに行かせる。老人は、妻の欲とその要求を伝える恥ずかしさの板挟みになり、さかなに平謝りする。それでいて妻のほうは、皇后になって取り巻きや貴族たちに宮殿から夫を追い出させるのだ。この民話での夫は、他者と他者との関係における自分を認知する「自覚」と言えるかもしれない。妻のほうは「渇望」だ。 

 際限なく願いごとをし続けたあげく、とうとう妻はさかなを超える海の支配者になることを願う。老人がこれをさかなに伝えて苦情を訴えると、さかなは何も言わずに尾をきらめかせただけだった。浜辺で老人が振り向くと、見えたのは昔住んでいたあばら家にいる妻と壊れた洗濯桶だった。やりすぎ、求めすぎは危険だと、ロシアの民話は教える。もう十分ではないか、ありすぎるのは何もないのと同じだと。

 世界で最も権力がある男、あるいは少なくとも、歴代のそういう男たちが居住した不動産に居住する男になった子どもは、家業を営んでいたが、次に、大企業の荘厳な皇帝だという作り話に基づいた偽リアリティ番組のスターになった。実際には道化師なのに。彼の達成それぞれは、自我をくすぐるための鏡ばりの殿堂であったが、彼はそれを手に入れるとさらに大きな殿堂を求め、決して諦めようとしなかった。

 あまりにも大きな権力を持ったがために、残酷であったり、間違っていたり、愚かであったり、馬鹿げていたり、不条理であっても、それを指摘してやる者が周囲に誰ひとりいない男性(女性にもいるが、まれである)に、しばしば遭遇する。他人がどう感じているのか、何を必要としているのかを知ろうともせず、他人がどうなろうと気にならないというのは、他の人の存在を認めようとしないことであり、つまるところ、世界に自分以外誰ひとり存在しないのと同じだ。トップに立つ者はそうやって孤独になる。これらのしみったれた専制君主らは、正直な鏡や、他の人々や、重力がない世界に住んでいるようなものであり、自分がおかした失敗の結果から守られている。

 F.スコット・フィッツジェラルドは、「かれらは不注意な人間なのだ」と裕福なカップルの本質について『グレート・ギャツビー』に書いた。「品物でも人間でもを、めちゃめちゃにしておきながら、自分たちは、すっと、金だか、あきれるほどの不注意だか、その他なんだか知らないが、とにかく二人を結びつけているものの中に退却してしまって、自分たちのしでかしたごちゃごちゃの後片づけは他人にさせる……」〔野崎孝訳、新潮文庫〕 私たちの中には、無限の価値を持っているにもかかわらず、周囲の破壊的な人々から「お前は役立たずだ」と言われ続けている人がいる。本当は賢いのに、お前は馬鹿だと言われ、実際には成功しているのに、失敗したと言われる。けれども、このように他人を引きずり下ろす人と正反対なのは、お世辞を行ったりおだてたりする人ではない。寛容でありつつも言動への責任を求める人であり、あなたの本当の姿と言動を映す鏡になる、あなたと対等の人なのだ。

 対等である私たちは、お互いに誠実であり、批評や意見を取り交わし、意地悪や虚偽を許さない。そして、自分の意見に耳を傾け、敬意を払い、応対してくれよう相手に要求する。それは誰にも許されていることなのだ。我々が自由であり、自分の価値を認めているのであれば。社会での「公の対話(social discourse)」には民主主義がある。この対話は、自分が抱えている欲求や恐怖や感情を、他人も同じように持っていることを思い出させてくれる。「ウォール街を占拠せよ」運動に参加していた高齢の女性が語った「私たちは、すべての人が尊重される社会のために戦っている」という言葉に私はいつも立ち戻る。まさにこれが民主主義の知性と心であり、政治と経済なのだ。

 トランプ勝利の影響で、ハンナ・アーレントが驚くほど今日的な意味を持つようになった。そのために、彼女の著作の『全体主義の起源』が特によく売れている。ラジオ番組の「オン・ビーイング」で、学者のリンジー・ストーンブリッジは〔ジャーナリストの〕クリスタ・ティペットに、アーレントが自分を分裂させて自分が自分を尋問するかたちの自己との対話の重要さを提唱したことを語った。この分裂した自己の対話は、先の漁師と妻との間の実際の対話と言えるかもしれなない。ストーンブリッジは、「それができる人は、実際に他者との対話もできるし、他者を批判することもできる。アーレントが『悪の陳腐さ』と呼んだのは、他者の声を聴く能力がないことであり、自己との対話ができないか、世界と、つまり道徳的世界との対話ができないこと」と結んだ。

 自分の権力を使って対話を沈黙させ、軌道から外れて次第に劣化していく自我や意義の虚空の中で生きる人もいる。それは、太鼓持ちとルームサービスだけが存在する孤島で正気を失っていくようなものであり、その人がそう言えばどの方向でも北を指す従順な羅針盤を持つようなものだ。それが家族の暴君であれ、小企業の暴君であれ、大企業の暴君であれ、国家の暴君であれ、権力は堕落する。そして、絶対の権力は、しばしばそれを持つ者の自覚を堕落させるか、あるいは自覚を減少させる。自己愛者(ナルシシスト)、社会病質者(ソシオパス)、エゴマニア〔病的に自己中心的な者〕にとって、「他者」というものは存在しないのだ。

 人は挫折や困難を通して世界はいつも自分中心ではないということに慣れてゆき、自己や他者の認識を獲得するものである。そういった挫折や困難に対応しなくてもすむ者は、心が折れやすく、拒否に耐えることができない人間に育ち、常に自分の思い通りになるべきだと自分を説得させてしまう。私が大学で出会った金持ちの子どもたちは、あたかも周囲にある壁を探そうとするかのように手足を振り回し、重力の存在を確かめて地面に叩きつけられることを願っているかのように親から相続した高みから飛び降りていた。しかし、金持ちの親と特権が硬い壁を緩衝パッドで覆い、地面に叩きつけられる前に安全網と衝撃吸収マットを投げかけた。親が尻拭いをし続けたために、自分の行動に責任を取る必要がなかった子供たちには、どんな行動も取るに足らないことになってしまった。彼らは、大気圏外で宇宙飛行士のように漂っているようなものだった。

 平等は私たちを正直でいさせてくれる。対等の立場の者は、正常に機能している社会で自由な報道機関が行うように、日常生活のなかで、私たちが誰であり、どう行動しているのかを振り返らせてくれる。不平等は妄想や嘘つきを作り上げる。非力な者は本心を隠すことを強いられる。だから奴隷、召使い、女性は「嘘つき」だという評判を得たのだ。権力者は、自分の要求で下級の者がつかざるを得ない嘘に鈍感になり、他者のことを知る必要についても鈍感になる。なぜなら、奴隷や召使いや女性は値打ちがない、取るに足らない者たちであり、沈黙を守り、自分を満足させるように訓練された者だからだ。私が「特権階級」と「無関心さ」を組み合わせるのは、こういう理由からだ。無関心さは特権階級にとっての「欠乏」なのだ。他者の言葉に耳を傾けなくなると彼らの存在は非現実的になり、荒廃した世界にたった一人で取り残される。このために飢えを感じるようになるが、他者が存在することを深い本当の意味で想像するのをやめたら、何に飢えているのかすらわからなくなる。他者との平等主義的な接触を求めるこの感覚を説明するのに、適切な言葉はない。というか、少なくともあまり話題にならない。

 ある男が世界最高の権力者になりたいと願い、偶然の出来事と、介入と、一連の災難のおかげで、願いがかなった。さらなる権力は、さらなるおべっか、さらなる荘厳なイメージ、偉大な自分の姿を映すさらなる大きな鏡の殿堂を得ることだと、彼は想像したに違いない。だが、彼は権力と卓越さを混同していた。男は友人や知人、妻や使用人をいたぶって服従させ、事実(ファクト)と真実(トゥルー)も脅して服従させた。自分は周囲の者よりも、真実よりも、偉大であると主張し、真実に対して自分の意志に屈服するよう要求した。真実は男の意志に屈することはなかったのだが、彼に服従した者たちはそのふりをした。もしかすると、彼は売り口上が自分の口を離れたとたんにそれを捨てて、新しい売り口上を口にするセールスマンなのかもしれない。飢えた幽霊は常に新しいものを求めるのだ。

 この男は、ミダス〔ギリシア神話に登場する王〕が手に触れるものをすべて黄金に換えたように、(大統領)という権力が自分を偉大にしてくれるだろうと想像したのだ。だが、大統領の権力はこれまでと同じだ。それは、人間関係の制度であり、大統領が与えた命令を実行する人々の意欲に頼る権力であり、大統領が法と真実と国民を尊重することから生まれる意欲なのだ。誰も実行しない命令を与える男は、自分の非力さを汚れた洗濯物のように晒している。就任してまだ日が浅い頃、大統領の手先のひとりが「大統領の権限は疑いの余地がない絶対のものだ」と発表した。これは、すでに恐れを植え付けられている者を震え上がらせる発言だ。だからこそ、こういった発言で下々の者に恐怖を与えようとする暴君がいるのだ。

 真の専制君主は協働のパワーに頼ろうとせずに命令を下し、ならず者、殺し屋、ゲシュタポ、親衛隊、暗殺部隊を使って強制的に実行させる。真の専制君主は政府の体制を自分に従属させ、法律制度や国の理念よりも自分に対して忠実にさせる。だが、この専制君主志望者は、自分の党に属する議員らを超えた政府機関で働く多くの者(たぶんほとんど)が、彼ではなく法や理念に忠実だということを理解していない。大統領の権限は疑いの余地がない絶対のものだと公言したホワイトハウス補佐官のスティーブン・ミラーは笑い者になった。大統領は王が宮廷の廷臣を呼び出すかのようにFBI、NSA(国家安全保障局)、国家情報機関の長官と個人的な法律顧問チームを召喚し、証拠をもみ消して調査を中止するよう命じたが、彼らの忠誠心が自分に対するものではないと気付かされる羽目になった。悔しいことに、この国はまだ共和国であり、自由な報道はそう簡単に止めることはできないと知らされたのだった。公衆も脅しに屈するのを拒み、大統領がなにかをやらかし、ツイートするたびに熱心に嘲笑った。

 真の専制君主は、海の向こうのプーシキンの国にいる。国の選挙を腐敗させ、銃弾や毒、そして事故に見せかけた不可解な死で政敵を排除する。彼は真実を戦略的におし曲げるのに成功し、恐怖を広めた。とはいえ、彼もアメリカの選挙への介入で手を広げすぎた。見えないところでやったつもりだったのに、全世界が不安と憤りすら覚えながら彼の過去や行動とその影響をつぶさに調べ上げることになった。アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国での選挙への介入でロシアは真の姿を露呈し、これまでの評判と信頼を破壊したかもしれない。

 アメリカの道化者が下した命令は拒まれ、彼の秘密はベルサイユ宮殿の噴水、というか単なるザルのようにダダ漏れした。彼が就任してまだ間もない頃、匿名の30人からの情報に基づく驚くような記事がワシントン・ポスト紙に掲載された。そして、大統領が実行したかった課題は、ほとんど非力だとみなされていた少数派の党によって阻まれた。司法は大統領の執行命令を停止し続け、スキャンダルが腫れ物や潰瘍のように吹き出した。美人コンテストの小さな高級娼婦たちや、カジノ、高級コンドミニアム、嘘の教育と本物の借金を与えてくれる偽大学の独裁者であり、嘘だらけのリアリティ番組で他人の偽りの運命を司るマスターであり、すべての意義や意味があるものの裁定人だった男は、「運命の道化」〔『ロミオとジュリエット』のロミオの台詞〕になった。

 彼は世界で最も嘲笑された男でもある。大統領就任直後の2017年1月21日に全米で何百万人もの女性が抗議デモをした「ウィメンズ・マーチ」のときには、ひとりの男性が1日のうちに拒まれた女性の数では史上最高記録だと笑われた。新聞、テレビ、風刺漫画、海外の首脳から嘲笑われ、何百万ものジョークのネタになった。そして、彼がツイートするたびに、彼の膨張した権力に対して痛烈な真実を突きつけることに快感を覚える一般市民からすぐさま侮辱の猛攻撃にあった。

 彼はすべてを欲しがった老いた漁師の妻であり、遅かれ早かれ、彼女のようにすべてを失うことになるだろう。浜辺のあばら家の前に座っていた妻は、願い事をする前よりもずっと貧しくなっていた。もとは貧困だけだったが、いまや、過ちを抱え、破壊的なプライドを持ってしまい、それなしにすませることができた権力や栄光に押しつぶされてしまった。そして、そのすべてが自業自得なのだ。

 ホワイトハウスの中にいる男は、無節制のわがままさで理解力が鈍ってしまったために、厳しい光の下では自分が裸で卑猥で、慢心の嚢胞であり、自分が理解に欠けているということも把握していない。彼は、綱渡りをしている意識下のどこかで、自分が己のイメージを壊したことと、〔オスカー・ワイルドが描いた〕ドリアン・グレイのようにいつか自分自身の腐食に破壊されることを知っているに違いない。いずれにせよ、これが彼を破滅させる。何百万人も道連れにするかもしれないが。そして、いずれにせよ電波の王であることを名乗ったときから、彼は自分が崖から足を踏み外して急速に落下していることに気づいている。地上で彼を待つのは糞の山だ。その糞はすべて彼自身のものである。〔彼は親からの資金や援助を受けずに独力で成功した「セルフメイドマン」だと偽りの自慢をしてきたが、〕彼が自分の糞の中に墜落するとき、ようやく独力で結果をもたらした本物の「セルフメイドマン」になれるというわけだ。 
 
 
追記(2018年7月16日)

 トランプがウラジミール・プーチンとの密会から現れ、プーチンへの服従をあからさまにして(たいていの者は彼がやることにはもう驚かないが)世界中に衝撃を与えた2018年7月16日の朝にこの追記を書いた。

 むかしむかし、ある男がある約束を取り交わした。彼は世界の王、あるいは外見からは王に見える者になる。だが、そのためには、自分の秘密と記録のすべてを掌握し、いつでも自分を王座から引き下ろすことができる力を持つ怖ろしい男を自分の王にしなければならない、というものだ。彼は満悦し、自慢し、威張り散らし、自分の創造主に会わねばならないときまで、脂ぎった自己愛の流れに沿って気楽に泳いでいた。密会の席で、創造主はギラギラ光る瞳で彼を見据え、約束ごとの中身や、誰が彼を所有しているのか、どこに(殺人の証拠である)死体が埋められているのか、を思い出させた。死体は土をかぶせていない墓穴に埋められていて、墓そのものが真珠のような白い歯を見せてニヤニヤ笑いながら彼を見上げているのだ。

 密会の部屋から出てきたときの男は、自分を除くすべての者の王であるのは、実際にはまったく王ではなく、ただの駒にすぎないと悟った。そして、彼についた首輪がとてもきつく、リードはとても短く、自分の君主らしさは見せかけだけのごまかしだと知らしめられていた。彼は、悲しくて、惨めで、怯えていて、部屋から這い出てきたときには、ふだんは愚痴っぽく、気取っていて、がなるような彼の声は、負け犬のように平坦で怯えたものだった。彼が仕える王は、悪意がある、いたずらをした子を大目に見てやるような目つきで彼を観察し、獲物を見る猫のような笑みを浮かべていた。だが、彼の周囲の怪物のうち誰ひとりとして、重大な岐路で、イエスの名において、全世界を手に入れるひきかえに、生きているうちに取り立てにくるかもしれない者に魂を売ることの是非を問おうともしなかったのだ。

 男の信奉者らは、慌てて批判することで逃げ出し、背を向けた。彼がやったのは特に新しいことではなかったが、世間は彼が隣にいるチェシャ猫の笑みの罠に深くはまりこみすぎたと見るようになったので、もはや、あえて男を支持しようとも、それが罠でないと否定しようともしなかった。これは、彼の時代が終わり、新しい時代、つまり、彼の興隆と同じくらいに劇的で奇妙で不測な凋落が始まった日だった。この日は、彼の信奉者らが、新しい罠である声明を出した日だった。その罠は、男の潔白を証明するためについた自分たちの古い嘘が出てくるのを防ぐためのものだった。彼らは男の犯罪から手を洗おうとしたが、「汚れ」は彼ら自身だった。男が多かれ少なかれ率いていた政府の公僕と元公僕である政府機関の人々は、次から次に立ち上がり、男が売国者であり、嘘つきであり、愚か者であり、本来自分が守るべきすべてのものを破壊する妨害工作者だ、と批判した。だが、大統領選挙に勝てる可能性が出てきたときに男が失ったものの真実を公僕が語るたび、男は繰り返し彼らを侮辱した。

 しかし、この日、何かが変わった。巨大かつ具体的で、計り知れない変換が起こった。数年後に歴史が書かれたときには計算できるかもしれないが、この時点ではまだほとんどその大きさを想像することができない。
 
Rebecca Solnit, Call them by Their True Names: American Crisis (and Essays)
(Chicago: Haymarket Books, 2018)
Copyright©2018 by Rebecca Solnit
Reproduced by permission.

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. レベッカ・ソルニット

    (Rebecca Solnit)
    1961年生まれ。作家、歴史家、アクティヴィスト。カルフォルニアに育ち、環境問題や人権、反戦などの政治運動に参加、1988年より文筆活動を開始する。写真家のエドワード・マイブリッジ伝“River of Shadows”により、2004年、全米批評家協会賞を受賞。2008年にソルニットが発表したエッセイをきっかけに、「マンスプレイニング」(Mansplaining)という語が欧米で一気に普及し、そのエッセイをもとにした“Men Explain Things to Me”(『説教したがる男たち』)は世界的なベストセラーとなった。20冊以上の著書があり、近年、日本でも注目が高まっている。日本語版が刊行されている著書に、『暗闇のなかの希望』(井上利男訳、七つ森書館)、『災害ユートピア』(高月園子訳、亜紀書房)、『ウォークス』(東辻賢治郎訳、左右社)、『説教したがる男たち』(ハーン小路恭子訳、左右社)、『迷うことについて』(東辻賢治郎訳、左右社)がある。

  2. 渡辺由佳里

    エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家、マーケティング・ストラテジー会社共同経営者。書評ブログサイト『洋書ファンクラブ』主宰。兵庫県出身。職歴は助産師、日本語学校のコーディネーター、広告代理店アカウントマネージャー、外資系企業のプロダクトマネージャーなど。1993年にアメリカ人の夫の転勤で香港に移住し1995年よりアメリカのボストン近郊在住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。著書に『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア)、『どうせなら、楽しく生きよう』(飛鳥新社)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)等が、訳書に『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社)、『毒味師イレーナ』(ハーパーコリンズ・ジャパン)等がある。『ニューズウィーク日本版オフィシャルサイト』で洋書レビューエッセイとアメリカ大統領選レポートの連載を、CakesとFindersで時評を連載。