秋雨&時雨のブログ擬き

限界童貞の徒然なるままに綴った日常譚。

静けさと、静けさと、静けさ

11月も終わりが見えて、1年の9割が過ぎようとしている。師走を忙しなく駆ける、受験太りの少年は山手線でこの記事を書いている。ここ最近の生活は灰色の単色だ。御茶ノ水と池袋を回り、授業を受ける。西日暮里に行き、授業をバックグラウンドにしてトランプに興じる。そして授業が終わると、さらにトランプを何ゲームかやって、時間がくるまで遊戯に興じる。時間を忘れて、とまでには打ち込めないのは受験生の性だろうか。
思えば、積極性という言葉は僕からもっとも遠いように感じる。僕の辞書のxの章くらいに収録されているその言葉は、久しく紐解かれることなく怠惰と微睡みに埋没している。胡蝶の夢だとか酔生夢死だとかいう言葉もあるけれど、実際のところここ最近の刺激もなく退屈だが、一定のリズムに支配された安定感というものはそれはそれで居心地がよい。夢の中に生きているようだ。18歳にもなると体感時間という本質的な時計はその針を速めてやまないのだろう。今もこうやって、ふわふわと時間を浪費している。
積極性。この言葉を自分なりに考えてみるなら、とりあえずその意味を「外因的な口実や与えられた理由を必要とせず物事を実行できること」とでもしたい。積極的に行動する、とは特に理由もないのに自分でやりたいことを見つけ、やり始めてしまうことを指すのだろう。
それに引き替え、自分はどうだろうか。まず、やらない理由を探し、そして皮肉なことに、それが不可避だと思い知ってしまったら、実感してしまったら、今度は180°一転してやらないといけない理由を探し始める。それは、積極性に何かをやるという行為が必然的に伴う責任を、つまるところ自己責任を、回避するためである。そしてなぜ自己責任を回避したいかと言えば、他人に自己責任を負わせるためである。どういうことか。つまり、僕は自分の行動が伴う責任を背負いたくないし、他人の行動に対して責任を持つ気もないということだ。他の人が何かやったとして、その成功も失敗もそいつが100%背負えばいい、向き合えばいいじゃないか。成功に嫉妬することはないが、失敗から救ってやる気もない。そう思っている。逆に、自分の行動により被った不利益や発生した失敗は、その行動をするに至った動機を与えた人間にその責任を擦り付けたい。そのために必要な理屈や、行動は何だってとる。それだけの回避の努力をしても残ってしまった部分は、自己責任だ。僕が向き合おう。共同体の全員がこうやって行動して、痛み分けと共食いで内側から腐れ果て、滅びるということはあるのだろう。それに備えて、自分だけはそこから抜け出せるような手はずを構築しておきたいが。
まあ、あまり人間が好きじゃないんだろう。僕は人間以外の動物が心の底から嫌いなのだが、それは得体の知れなさに端を発する。外見もそうだし、行動もそうだ。そしてそれは人間でも同じだ。見た目が違えば、行動様式が違えば、本能的嫌悪感を抱いてしまう。嫌悪感とまではいかなくとも違和感を抱く。それは程度問題で、他人との間には大きかれ小さかれ多少の動摩擦係数が働くのだ。決して0にならないそれは、人と関わる度、社会的な行動を起こす度、エネルギーを奪っていく。関わりの密度を、摩擦を薄くするために、僕は同族ばかりの空間でふわふわと過ごしていたいのだ。或いは各人が自己責任の殻に籠もっている世界観が好きなのかもしれない。それもまた程度問題だが。人間関係が空疎になりすぎることは望んでいない。掴めば手から滑り落ちて行くようなものでは自分が楽しめない。
静かな人生だと思う。波風はたつが、大荒れにはならない。浅瀬でチャプチャプと、何も考えず、そこそこ楽しく遊んでいたい。海辺で、熱に浮かされているような気怠い意識のまま、死ぬまで彷徨っていたい。
真夏の京都のド田舎を逍遙していたときのことを、今年の夏に思い出した。人のいない山道を、汗塗れで歩いた。そうやって向かった先はローソンだった。徒歩22分に見える世界は、熱でぼやけた視界には満足に映らなかったけれど。歩き終えた僕には満足感には満たない多少の達成感と、疲労感と、そして大量にかいた汗とが残った。
ああやって、無駄なことをして、閉じた世界観の中で、笑っていたい。そんなことを、ここ最近常に感じる空虚で希薄な幸福感に満ちた静寂のなかで、考えていたのだ。