2019/10/23 - 2019/10/23
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ベームさん
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半年ぶりの東京文学・歴史散歩です。でもまだ未踏のそういった史跡がある程度まとまっている地域はなくなってきました。
今日は日本橋小伝馬町、大伝馬町、堀留町、人形町、中州、浜町、東日本橋、柳橋界隈を歩いてみます。
多くの人形師が住んでいた人形町は中村座、市村座など芝居小屋のあった庶民の街。旅籠屋が並ぶ馬喰・横山町は商人相手の問屋の街。浜町、久松町は明治座があり、粋なお姐さんが行き交った町。小伝馬、大伝馬町は荷物を馬で運ぶ伝馬役の住んでいた町。今は地続きですが、以前は隅田川の中州で、大川の花火客で賑わった中州。東日本橋は両国橋、柳橋一帯にあった薬研堀、矢ノ倉、村松町などを統合した町。(中央区のパンフレットなどから)。
そうです。この地域は江戸時代から商人の町、庶民の町、遊興の町として下町の中心として賑わったところなのです。明治大正頃に書かれた書物を読むと、よくもまあここまで変わってしまうのかと驚くほど、全ては変貌してしまっています。
文学関係では、この地に生まれた女流作家長谷川時雨、山岸荷葉、谷崎潤一郎。住まいのあった賀茂真淵、鏑木清方、島崎藤村。パン(牧羊神)の会の会場となった三州屋。夏目漱石の「吾輩は猫である」が「猫」として初めて上演された中州「真砂座」など。
写真は人形町通りのからくりやぐら時計。
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スタートは地下鉄日比谷線小伝馬町駅。9時50分ころ。
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次の地図と2枚で今日歩いた全体です。
左上の小伝馬町駅から右上の馬喰町駅まで。 -
上の地図から矢印のように歩き、上の地図に戻ります。
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その1。
伝馬町牢屋敷から人形町通りを水天宮まで。 -
地上に出たところに、近くにある伝馬町牢屋敷跡の説明版がありました。
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その石碑。
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牢屋敷跡にある十思公園。
今日のスタートは暗い歴史の跡からとなりました。
慶長年間の1610年ころ、ここに伝馬町(てんまちょう)牢屋敷がつくられ、明治8年市ヶ谷監獄に移るまで存続しました。 -
ここで安政の大獄で捕らわれた幕末の攘夷派吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎ほか多数の罪人が処刑された所です。蛮社の獄で捕らえられた渡辺崋山もここに入牢しています。
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牢屋敷の敷地は約2700坪、常時300~400人の囚人がおり、牢名主が取り仕切っていました。窓がなく日が射さず、劣悪な環境だったといいます。
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公園の隅にある「松陰先生終焉之地」の碑。
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辞世の句。
留魂録「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」 -
松陰先生終焉之地。
時に安政6年(1859年)10月、満29歳。 -
「宝永時鐘々楼」。
江戸時代、9か所あった時の鐘の一つでその内の最も古いもの。
当初日本橋石町にあったものを昭和5年ここに移した。時計がない時代で、時を知らせる鐘の音が聞こえる地域の住民から時銭を徴収したという。 -
罪人の処刑はこの鐘を合図に行われたそうです。石町とここは近いので鐘の音が聞こえたのでしょう。
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説明版。
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発掘の様子。
牢獄は幾つかあり、旗本・高位の僧侶、神官を収容する揚座敷、御家人・武士・僧侶などの揚屋、庶民の大牢、女囚だけの女牢があった。 -
杵屋勝三郎歴代記念碑。
長唄三味線の名跡。 -
公園の向かいにある大安楽寺。ここも牢屋敷の一部でした。
明治になり、政府はこの地を払下げようとしたが、不浄の地とて買い手がつかず、時の政商大倉喜八郎と安田善次郎に無理やり買い取ってもらった。
政府は払い下げになりふり構わず時の有力者に声をかけたようで、長谷川時雨の父にも話があったそうです。そんな土地はタダでもご免こうむると断りました。 -
高野山の真言宗の坊主が草ぼうぼうの空き地を見て、刑死した霊を弔おうと地主の大倉、安田に掛け合い400坪の寄進を受け寺を建立した。
大倉の大、安田の安をとって寺の名を大安楽寺としたそうです。 -
延命地蔵尊。
寺の隅が処刑場のあった場所とされる。
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