1976年1月11日にオープン初日を迎えたショウは、
これほどは無いというくらいに真っ二つな批評の嵐に見舞われる。
演劇の新境地、息を呑む美しさ、革命的、といった形容詞で埋め尽くされたものから、
死ぬほど退屈、苛々する退屈さ、無味乾燥、といった表現で埋め尽くされたものまで。
オープン1週間前にSondheimのインタヴューがNY Timesに掲載されていて、
これが傲慢にもB’wayコミュニティの悪口を語っている内容になっていた事が、
批評家を激怒させたという見る人もあった。
このインタヴューに対してSondheim本人は、
「ショッキングな記事だった。
ロンドンのSunday Expressの劇評家が書いたんだけど、
彼は、自分自身がぞっこんな過去のミュージカル作品の多くに、
僕がほとんど関心が無いことにそうとう腹を立てていて、
仕返しをしてやろうと思っていたんじゃないかな。
例えば、記事は僕に日本人の召使がいる、っていう文から始まるんだけど、
それはまったくの事実無根だからね。
記事は我々に意図的にダメージを与えようとしたものだったと思う。
不正確なだけでなく、悪意の産物だと思うよ。
批評家の中にはこの記事を引用したのもいたし、
Halも僕も、これが本当にダメージになったと感じた」と語っている。
一方のPrinceは、「一番ダメージがあったのはClive Barnesの批評だ。
彼はショウをまったく理解しなかった。でも、彼はどのショウも理解したことがないんだ。
Folliesもダメ、Companyもダメ。で、彼のPacific Overtureへの批評が出たとき、
彼に直接手紙を書いたんだ。それまでそんなことした事が無かったし、それ以降もしてない。
“このショウをクローズさせて、いつかきっと後悔するぞ”ってね。
メッセンジャーに持たせて送ってやった。そんな事を後悔する連中じゃないけどね」と語る。
Princeは、演出コンセプトとして、“平面”を強調したのだが、
彼の手がけた他のショウも引き合いに出して興味深いことを述べている。
「空間的なメタファーは僕にとって常に重要だ。Candideでは“旅”だった。
The Phantom of the Operaを、焦点を深く取ったデザインにしたのは、
距離と深さに関する劇だったからだ。深さは高さにもつながっている。
Pacific Overturesのように平面を強調すると、全ては平板になっていく。
日本の伝統演劇に倣ったんだ。」と、語る。
Sondheimは、このショウで初めて音楽的にテーマを全体に織り込むという、
後にSweeney Todd、Merrily Roll Along、Sunday in the Park with Georgeでも見られる、
個々の曲が相互に関連したスコアを書くというテクニックを使っている。
「ほとんど全部歌い通すこともできたけど、僕は台詞が好きだし、
特にWeidmanがこのショウに書いた台詞が気に入っている」と、
最終的には、切れ目無く曲を書く手法は選択していない。
場所と人を表す曲、状況や関係の発展なり転換なりを示す演劇的な曲と、
楽曲そのものは古典的なミュージカルの黄金則に忠実なものがほとんどである。
もちろん劇の主題とその扱い方の選択の問題で、
男女のラブロマンス的な展開とそれに伴うバラードは無いものの、
Poemが劇中の清涼剤的な役割を果たしているのは、
この曲が主要キャラクター二人の関係の発展を示す唯一の曲であるために、
ある種のラブソングのように機能しているからだとも考えられる。
Pacific Overturesは、もちろん初演は193回でクローズしたし、
オフとオンでのリバイバルも不発、地域公演でもほとんど取り上げられず、
ヒットした事は一度も無いのだが、初演時の真っ二つだった批評が示すように、
誰もが一瞬にして忘れ去ったというフロップでもないのが面白い。
初演時の強烈な観劇体験を熱心に語ってくれる人に僕自身が何人か出会っているように、
いまだにその衝撃なり愛着なりを持ち続けている人も多い。
最近のリバイバル公演に際して、
賛否を含めて初演版との作品の印象の違いを挙げる人が多かったのだが、
Sondheimは、インタビューなどでRecitorの質の違いについて触れている。
Recitorに内在する怒り、自分の国に起こった事に激怒している事、
それがMako(岩松)みたいに激しい気性の人物が演じてさらに強まったのが、
初演時の同役の強烈な印象に結び付いたのではないか、と推測している。
これに関しては、岩松自身が自伝の中で、
Princeが原爆投下をショウに取り入れる事について一度は試したものの、
結果的にショウから取り除いてしまったことについて苛立っていたと語っている。
デモと機動隊、三島由紀夫の自殺、赤軍派、といった日本の状況を考えて、
軍国主義を抜きに日本の歴史は語れないと、
「自己破壊的なまでに殺気立ったもの」が劇に必要だと考えていたという。
ワシントン公演中に、フィナーレで「一人の人間の自殺暗示してみせる」ことによって、
「日本の自己破壊という側面を表現」しようと試みた、とも。
結果的に、試み自体は見事に成功したようで、
Princeが終演後に楽屋にやってきて、あれでは怖すぎる、と釘を刺している。
僕自身が実際に観劇したのは最近のリバイバル公演のみなのだが、
3種類の公演の録画を見比べてみると、
アメリカンカブキとしての禍々しいエネルギーに満ちた1976年初演版、
小劇場空間を活かしてテンポの良いコメディを前面に押し出した1985年版、
クリーンですっきりし過ぎて人間が演じる人形劇のように見えた2004年版、と、
演出家の選択や、役者の身体性の違いを強く感じた。
ちなみにPrinceは、
最初のリバイバル版に関しては、批評が良かったことと、
初演版と比較してどこがどう良いか、という批評が盛んに行われた事もあって、
あまり愉快な気持ちにはならなかったようだ。
実際に公演を観たPatricia Birchも、自分とHalのアイデアの焼き直し、
しかもスケールダウンさせたに過ぎない、と、
リバイバルの方が上だとする批評には不快感を示している。
さらに、Princeが、日本人演出の再演版について意見を求められたときに、
「日本の若い演出家はあの作品でアメリカンミュージカルがやりたいみたいだね。
僕はミュージカルに飽きて何か別のものがやりたかった作品なんだけどね」
と、語っている。
商業的な成功はともかくとして、この作品の成立過程を振り返るだけでも、
閃きから未だに他に例を見ない作品創りを指揮したPrinceの豪腕を思い知ると共に、
ミュージカルはコラボレーションだという格言の重みも思い知る。
余談になるが、個人的には、同じ作家陣ということで、
Pacific OverturesとAssassinsとの関連性に対する興味も大きい。
もっとレビュー的な手法で書かれているAssassinsではあるが、
お互いの作家としての強みが高いレベルで融合した背景には、
過去にPacific Overturesで試行錯誤した経験が役立っていることは疑いようが無い。
この二人による半お蔵入りだった作品Bounceもついに来シーズンNY入り、
まずはオフからその後のトランスファーが成るか否かを占うということで、
どういう風に作品を修正しているのか興味が尽きない。
(参考文献)
SONDHEIM & CO.
(Harper & Row)second edition by Craig Zadan
The Art of the American Musical, Conversations with the Creators
(Rutgers University Press)edited by Jackson R. Bryer and Richard A. Davidson
Harold Prince and the American Musical Theatre
(APPLAUSE) expanded edition by Foster Hirsch
Sondheim on Music, Minor Details and Major Decisions
(The Scarecrow Press, Inc) by Mark Eden Horowitz
Pacific Overtures
(TCC) by Stephen Sondheim & John Weidman
Contradictions
(Dodd, Mead & Company) by Hal Prince
アメリカを生きる
(BABEL双書)by マコ・イワマツ
Anatomy of a Song by CBS (Camera Three presents)
The Dramatist: the volume of Jan/Feb 2006 and May/Jun 2007