このレビューはネタバレを含みます
パルパティーンが生きていたというツッコミどころを冒頭にさらっと済ませた思い切りのよさはよかったと思う。
本編はピタゴラスイッチのように展開がひたすら連打されていく感じで、連続ジャンプなどの新しい絵もありつつ、イウォークまで登場する物量作戦で最後まで見させられる。ただし脚本はかなり雑で、「あれえ困ったぞ」「そうかこうすればいいんだ」みたいな展開が秒で乱打されていくので、見ていてだんだんどうでもよくなってくる。ハリソン・フォードやマーク・ハミルがいちいち出てきてくれるのはありがたやありがたやと拝みたくなる一方、死んだ人がカジュアルに復活する鳥山明的世界観が旧三部作よりも強調されていて、別にレイアが死のうがチューバッカが死のうがみんな死のうが霊体になって会えるヨとなってあまり哀しくない。
ストーリーの要素が多い分芝居場が少ないのも問題で、レイとレンという極めて印象的な主人公ふたりが何に悩み何を乗り越えたのかが最後まで判らなかったのが残念だった。特にレイの造形はEP7〜9で統一されていなくて、彼女をパルパティーンの孫にするのなら、EP7ではレイは普通の人間として生きたいが己の内なる力に怯えている女性として、EP8では闇落ちして玉座に座る次世代の皇帝として、EP9では呪われた血筋を乗り越えて自らの生きかたを定めた自立した人間として描くべきだろう。彼女が最後に名乗るべきはスカイウォーカーの名ではなく、ただのレイか、親の名前であるべきだった。勝手に改名されて、死んだお父さんとお母さんが可哀想だよ。
アダム・ドライバーは大変な名優で見ているだけで眼福だが、レンも結局何がしたいかよく判らない人で、EP7では親を惨殺してベン・ソロからカイロ・レンになったはずなのに、ほとんどなんの葛藤もなしにまたベン・ソロに戻ってくる。レイが自らの血筋を乗り越えていく女性なら、レンは呪われた血族になりたいけれどもなれないワナビーとして描くべきで、俺はパルパティーンやベイダーにはなれなかったが、俺のままでいいのだと自らを受け入れるところを解決にすべきだった。ソロの息子だったという設定がいらなかったのだ。
レイとレンが共闘しているシーンはアガるのだが、最後にふたりがキスをしてるのはやりすぎ。それまで恋愛関係など何も描かれていないのになんでキスをするのか、あれではただ単に酒飲んだら気分が高まってチューしちゃいましたという大学生の飲み会と同じである。いまはちゃんと同意を取らないとセクハラで裁判になるぞ。彼女らの関係はもっと複雑なものであったはずで、それを表現するのにキスが出てくるあたり、JJエイブラムスの人間理解の底の浅さが出ていると感じた。
プリクエルもそうだったが、総じて旧三部作とのつながりを作るというグランドデザインが間違っていたのだと思う。パルパティーンが生きてるんならアナキンが死んだのに意味はなかったのかよとか、EP6の結末であんなに幸福な終わりかたをしたのに結局ソロやルークやレイアは悲惨に死ぬのかよなど、旧三部作の価値を毀損する場面が多々あるのも気になる。ストーリー上の必然性など何もなく、チューバッカにメダルをあげたところは目を覆った。「ルークとソロはメダルをもらえたのにチューバッカはもらえませんでした」というのはファンコミュニティにおけるあるあるであって、そんなものが作品世界の中で語られているわけがない。ただまあ、「こんな企画成立するかよ」とノスタルジーに全振りしたJJエイブラムスの仕事はどうかとは思うが、仕事人としては立派だとは感じた。人間にはデスマーチを収束させて納品しないといけない現場もあるのさ。
新三部作は失敗に終わったという評価が、後年定着すると思う。それはプリクリルと同様、EP4〜6の要素を引っ張ってしまったところが原因であろう。