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SNSにおける鬱や“病み”の〈オシャレ化〉はなぜ止めるべきか?

いいねやフォローを求めて、不安症やうつの症状を美しく書き連ねる「美しい苦悩(ビューティフル・サファリング)」。SNS上で流行しているこの現象はどうして問題なのか。精神疾患に〈イケてる〉〈イケていない〉の差をつけてしまうことの功罪とは。

by Alyson Zetta Williams
26 December 2019, 5:19am

Instagramで〈#depressed(うつ)〉と検索してみれば、1200万以上の投稿が出てくる。白黒の写真や、泣いているマンガのキャラクターの画像、そして、タバコを吸っているキュートな女の子たちの写真(時折、タトゥー入りの〈sadboi〉たちの写真も見られる)に、「助けて」「消えちゃいたい」などというメッセージが重ねられた画像も散見される。

このように、〈オシャレ〉風に精神疾患を描写することを、精神疾患の専門家アディティ・ヴァーマ(Aditi Verma)は「美しい苦悩」と呼んでいる。精神疾患がミーム化され、不安症やうつが、単にダークなフィルターやシンプルなテキストで演出できてしまう、一時的な〈気分〉に成り下がってしまっている。

このトレンドは10年以上前にTumblrで登場し、Instagramなどのプラットフォームで拡散した。このタイプの投稿だけを集めた数千、数万のフォロワーを抱える大手アカウント(@sadthoughts_1など)も存在する。 1971年から継続的に行われている調査によると、「この30日間で重篤な精神疾患の症状が出た」と答えたヤングアダルト世代(18〜25歳)は、2008年から2017年で71%増加している。精神疾患の誤った描写の流行で、ただでさえ繊細な若者たちの心の健康がさらに蝕まれているのだ。

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「自分も、こういうイメージに共感してもおかしくないと思うんですけど、できないんです」と語るのは、不安症に苦しむ女優のメイソン・スマストララ(Mason Smajstrla)だ。

「Instagramで不安症を描いたようなイメージをみては、自分を責めてしまうんです。そういうイメージって、不安症の上っ面を撫でただけのようなもので、私が抱える不安症とはまったく違うので」

確かにインターネットのおかげで、精神疾患に苦しむひとびとが仲間を見つけることが容易になった。しかし、精神疾患を〈オシャレ化〉して提示することは、精神疾患の仲間たちのためにはならず、むしろ、いいねやフォローを求め、内面の不安を歪めてしまっているようにみえる。

特に、そうやって歪ませてオシャレになる疾患とならない疾患、という差異が生まれることで、双極性障害や境界性パーソナリティ障害、統合失調症など、〈不人気〉な疾患を抱える患者たちに孤立感を与えてしまう。

「精神科医の先生に双極性障害だと診断されたとき、最初に思ったのは『うわ、イケてるやつじゃない』でした」と20歳の学生、アレックスは証言する。「でもそれって変な感想だよな、と思って、その理由を考えてみたんです。それで、Tumblrとかで双極性障害について『ヤバいひと』以外のかたちで言及された投稿を見たことがなかったから自分はそう思ったんだ、って気づいたんです」

〈美しい苦悩〉のトレンドは、精神疾患をイケてるか否か、という基準で分け、イケてない疾患をタブー扱いし、周縁へと追いやる傾向を生んでしまう。その結果、たとえば、双極性障害に苦しんでおり、〈ヤバいヤツ〉とカテゴライズされているカニエ・ウェストよりも、虐待、自殺願望、憂鬱などを歌いながら、外見的な美しさを保っているイメージのあるラナ・デル・レイに憧れる若者が増える可能性もある。

〈美しい苦悩〉により、ある疾患が美化されることはその疾患の患者たちにとってもちろん有害だが、逆に〈美しい苦悩〉の埒外にあるその他の疾患の患者たちは、どんな影響を受けるのだろうか。すなわち、メンタルヘルスの深い理解や受け入れが強く叫ばれている21世紀のデジタル社会において、インターネットがもたらす変革で多くのひとが恩恵を受けているのにもかかわらず、自分の病気だけが疎外されていたら?ということだ。

この考えかたは、〈イケてる〉疾患を抱えること=そのひとの知性、個性、オシャレ感が演出される、という認識につながる。つまり逆にいえば、〈イケてない〉疾患を抱えているひとたちは、そのコミュニティから疎外されるだけじゃなく、普通とは違う〈ヤバいひと〉というステレオタイプにさいなまれるのだ。

さらにこの考えかたにより、精神疾患を抱えたひとたちが、自分の体験の正当性を感じられなくなってしまう危険もある。「今や、本来なら専門家に求める知識を、みんなインターネットで検索しています」とヴァーマは指摘する。

「メンタルヘルスについての誤った情報によって、自らが抱える苦しみの正確な認識が阻害されてしまう可能性もあるんです」

およそ100年ほど前、『The Philosophy of Depression』の著者イーライ・シーゲル(Eli Siegel)は、苦しんでいるひとびとは、うつやその他精神疾患を周囲に理解してもらうために「姿を見せるべきだ」と記した。今や、メンタルヘルスの問題はとどまるところを知らず、彼の言葉の説得力はいよいよ増している。私たちは自らの精神疾患について、ポップカルチャーによる承認や盗用を容易にするための解釈を加えるのではなく、リアルに説明していくことが必要だ。

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すべての経験を公開しなくてはいけない、というわけではない。しかし、個人の体験に基づいた、真に迫った精神疾患の描写をするべきだ。そのほうが、夕焼けフィルターを使って悲しげに仕上げた数百万枚の画像よりも、ずっと苦しむひとたちの連帯につながるはずだ。

This article originally appeared on i-D US.

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事件ノンフィクション『つけびの村』の高橋ユキが語る殺人事件とうわさと妄想と私。

〈うわさ〉。特に気にすべき物事ではない、と判断して良いのだろうか? sns全盛の現代において、この事象こそ、実は価値観の大部分を占めることに気付いていないひとも多いのではないか。 事件ノンフィクション『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』の著者、高橋ユキは何を追い求めたのか。彼女に、殺人事件、うわさ、妄想、そして彼女自身について聞いた。

by Yuichi Abiko
06 November 2019, 9:22am

2013年、山口県周南市の金峰地区のわずか12名が暮らす小さな村で、一夜にして5人の村人が殺された。世間は、これを山口連続殺人放火事件と呼ぶ。犯人の自宅には『つけびして 煙喜ぶ 田舎者』という川柳が貼られており、まさに犯行予告だとマスコミを賑わせたが、それは事実ではなく、うわさであった。事件の真相を突きとめるべく、執拗にうわさを追いかけた、奇妙な事件ノンフィクションが『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』(晶文社)だ。

〈うわさ〉その場にいないひとについて、語ること。社会に蔓延する明確ではない話。
〈妄想〉根拠がなく、想像すること。真実でないものを真実と認知すること。主観によってのみ確信した内容。

高橋ユキは、村に蔓延するうわさ話をひとつずつ裏取りし、タマネギの皮を剥くように、取材を進めた。その結果、タマネギに芯はあったのか――そもそも彼女は、なぜ殺人事件、うわさに翻弄される人々、うわさから派生した妄想に興味を持ったのか?

本人にインタビューをおこなった。

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郷集落の手前にある宇宙ステーションの象

フリーのライターとして活動するきっかけを教えてください。

30歳くらいまで、ゲームの開発の仕事をしていたんですが、うつ病になって休んで、そのあと会社を辞めたんです。しばらくは、何も手につかずにぐったりしていて。でも、何かやらないとまずいなあと思って、とりあえず本を読もうと、まあ、最初は漫画だったんですけどね。漫画とか雑誌とか、そのうち殺人事件のノンフィクションが面白いなと思い始めて。『別冊宝島』とか、殺しの記事がいっぱい載ってるじゃないですか。それぞれの記事は完結しているけど、なかには、まだ裁判が続いてるとも書いてあって。
もちろん、そういう記事には、犯人の証言も掲載されているんですが、私的に足りないところがあって。

すべてというか、より詳しく知りたいってことですよね?

そう思う性分なんです。大学を卒業したあとに、上京して、けっこう一生懸命働いてたんで、病気になって動けなくなるまでは、東京見物的なことも、ほとんどしてなかったし。でも病院通いをしているうちに、だんだん調子がよくなってきて、だったらと、東京地裁にいってみたんです。その記録をmixiやブログにアップしていたのが本になって、それからお仕事の依頼がくるようになりました。

うつ病なのに殺人事件、東京見物が東京地裁ですか? いろいろおかしいですよね(笑)。 そもそも殺人事件に興味があったんですか?

自分では自覚がなかったんですけど、つい先日会った、大学時代の友達に「そういえば、ユキちゃんって変なニュースばかり見てたよね」と言われて。ハッとなりました。

どんなニュースを見ていたんですか?

学食でチャーハンとか食べながら、北九州連続監禁殺人事件やオウムの事件をずっと見ていたらしいです。

たとえば、男性でも、怖い人に興味をもつこともあったんですか?

ないですね。むしろ、北九州の底辺みたいなところで育ったから、悪い人しかいなくて、悪い人は嫌いでした。

不良とか、悪い系の人と付き合ったこともない?

ないですね。

まったくないってことは、ないんじゃないですか。

いや、ないですけどね。真面目な人がいいですよ……でも、そういう意味で悪いってことじゃなくて、もっと人間的な意味で悪いというか、ひどい男と色恋沙汰になったことはないとはいえない、というか。こんな情報いりますか(苦笑)。

北九州は、ヤクザの人も多いでしょ。殺人事件など暴力事件もそこそこあったんじゃないですか?

筑豊地区に近い北九州だったから、まだボタ山とか炭鉱で栄えた面影があったころなんですけど、工業団地があったり、山のふもとの一軒家に変な人が住んでるような感じでした。中学生の同級生がいきなり学校に来なくなって、そしたら、噂でヤクザの男と暮らしてるらしいとか、トラックの往来が激しい道で、弟の同級生がトラックにはねられて亡くなったりとか、そういう不可解だったり、悲しかったりすることが、田舎って起こるんですよね。「あの家のおじさんは、昔、人を殺しとるけん、いっちゃいかん」とか母親が言ってたくらい、わりと事件が身近に感じられる場所ではありました。でも人生を送ってると、そういうのって、ちょくちょくありませんか?

すみません、僕は千葉の市川が地元なんですけど、あんまり実感ないです(笑)。ちなみに当時の感覚として、それが高橋さんにとっては、日常というか普通だったんですか?

子供のときは生と死の境界も曖昧だから、突然いなくなることがあるんだって思う一方で、自分たちは、どんどん大きくなっていく確信があったりするから。

なんか、今回書かれた本の世界みたいですね。そんな幼少期を過ごし、ゲーム会社に就職 ―― 。やっぱり殺人関係のゲームが好きで入社したのですか?

それはないです。マリオカートとかが大好きだったんで。ゲームはゲームって割り切って楽しみたいから、架空の世界でリアルを追求したいとは思わないです。

リアルは、目の前で起っているから、それをゲームで追求してもしょうがないってことですか?

グラフィックの技術が進歩したら、表現力は増しますよね。でも技術者としてゲームの現場にいて、実際につくっていると、表現力は増すけど、それがゲームの面白さに直結するかっていったら、違うと思ったんです。だから、私はCG表現の開発みたいな仕事をやってたんですけど、「このエフェクトをつくってどうなるんだ?」みたいな気持ちが、だんだん湧いてきて。

ゲームは妄想というか、フィクションの世界であって欲しいってことなんですね。小さいころはわりと想像の世界で遊んでいたクチですか。

そうですね。ゲームや本を読んだりです。あとはバンドブームに熱狂したり。

どんなバンドですか。

もう、ヒムロック一択ですね。

おぉ。

おぉって、なんですか。めちゃくちゃ、かっこいいじゃないですか。

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金峰神社の参道入り口

その後、うつ病が原因で会社を休んだそうですが、振り返って、その原因というか、何か思い当たる節はありますか。やっぱり人間関係?

ずっとゲーム業界で表現の研究をしていたから、あんまり人と向き合ってなかったというのは、あるかもしれません。そのころは、あんまり人間に興味もなかったし。ただ、就職氷河期に会社に入ったから、いったん仕事を辞めたら最後。もう、ちゃんとした社会人には戻れないって感覚はありました。弱ってるときって「こんな感じで、何もしないまま寿命がくるのかあ」とか。だったら、自分の好きなことをやろうと、それで思い切って裁判傍聴にいってみました。そしたら、裁判所には、生身の人間同士の〈本気のぶつかり合い〉みたいな姿があって、それをずっと見ていたら、人間に対しての興味がだんだん強くなってきて。

ちなみに傍聴マニアを公言されてますが、傍聴マニアとはどういう人のことなのでしょうか?

仕事とは関係なく、ただ好きで、傍聴にいくひとのことでしょうね。最近は週に2、3回と少なくなったんですけど、当時は週5でいってました。

ああ、毎日ですね(笑)。印象的な事件はありますか?

それこそ、北九州連続監禁殺人事件の控訴審を見にいったときに、主犯の男が「自分は全然悪いことしたと思ってない」「むしろ僕が被害者だ」みたいなことを言っていて、ある種、納得したというか。やっぱり、これくらいのメンタルがないと、あんな事件起こさないんだろうなと。

他にもありますか?

最初に見た事件なんですが、ある宗教団体の信者に、金持ちの娘がいて結構貢がせていたんですけど、その娘と父の親子関係が上手くいってなくて、宗教団体が、ヒットマンを雇って、その父親を射殺して、遺産を貢がせようとした事件だったんです。そしたら、犯人のひとりが、歌舞伎町のビル火災とこの事件が関係しているって急に言いだしたんです。未解決事件好きとしては見逃せないな、と見てたらハマっちゃったんです。

殺人事件で、なおかつ未解決事件。それに惹かれるのは、真実を解明したいという欲求からでしょうか?

野次馬根性が先に立つのかな。真実を解明したい、みたいな偉そうなことはあまり思ってなくて。単純に殺人事件の犯人が、どんな話をするのか聞きにいってる。やっぱり好奇心です。あとは報道されてる情報以外のディテールを、もう少し知りたいって欲求もあります。

犯人の心理というか心の機微に興味がある?

心理もそうなんですけど、どんな姿形、仕草とか、細かいところも気になります。

裁判傍聴ではなく、直接事件現場へ取材にいくようになったのは、いつからですか?

マニア時代も興味本位ではいっていましたが、取材の方法というか、きちんと経験を積ませてもらったのは、契約記者の立場で籍を置いていた週刊誌の現場ですね。本格的に現場取材をするようになってから、6、7年目ぐらいです。

まだ契約記者ですか?

独立して、3年目になりました。今も記事を書かせてもらっていて、すごくお世話になっています。

傍聴と事件現場での取材の相違点と共通点について教えてください。

事件の現場は関係者から話が聞けない心配があるけど、傍聴は確実に聞ける。それが一番の違いだと思います。さらに傍聴の場合は、聞けなくても何か起こるのはわかっているので、そこへの不安はなく、それよりも、その関係者が言ったことを全部ちゃんとメモしようっていう気合いでいくっていう感じです。

初めて知ったんですが、裁判って傍聴はできるのに、撮影も録音も禁止で、メモ帳に手書きするしかないんですね。

そうなんです。だから、傍聴メモをとるときには、速記じゃないですけど、できるだけ早く、正確に、ぜんぶの情報を記録できるように、自分で作った省略記号とかも使います。

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確定死刑囚・保見光成の家に置かれたオブジェ

なるほど。では、いよいよ『つけびの村』について聞かせてください。まず、女性がひとりで7人しかいない限界集落の殺人現場にいく。しかも、最初にこの村に訪れたきっかけが、月刊誌からの依頼で、昔あったとされていた〈夜這い〉についての取材でした。女性が夜這いについて情報を聞いてまわるというのも難しいというか、恐ろしいというか。

もちろん怖いですけど、それより事件の現場にいける機会を得られたという緊張が勝ります。それに、人がいないってことは、そんなに危なくないのかなって(笑)。

村人たちのうわさ話が頭から離れず、不可解な村の正体に興味をもったとありましたが、怖い、近づかないという発想が頭をよぎります。一方で、未知なものは恐怖であり、好奇心でもありますよね。

事件に興味があるのは、やっぱり怖いものに好奇心があるんだと思います。でも普段の生活では、すごい怖がりで、いろんな裁判で犯罪の手口を聞くとめちゃめちゃビビって、家のドアの鍵を速攻閉めたり、出かける前に窓の鍵がかかってるかすごい確認したりしてます。

それでも好奇心が勝るのですね。取材を進めていくうえで予想外だったことはありますか?

新聞とかでは、悲しんでる村人という体で書かれている記事が多かったので、そういう話が聞けると思ってたら、全然違う話が聞けて、それ以外も全部予想外でした。

犯人へのうわさ話があり、そこから犯人が事実とは異なる妄想を肥大させて殺人事件を起こした、と高橋さんは書かれてます。うわさという事実はあって、そこから妄想して異なる事実を生み出してしまうことは、誰にでも当てはまることだと思います。そこで、まず、ご自身で感じるうわさの怖さについて教えてください。

うわさは、実体はないけど、何かしらの見えない影響を、そのひとに与えるもので、〈うわさは怖い〉と感じる場面っていっぱいありますよね。すごい分かりやすい例だと、そのひとのうわさと、実際に会って感じることが、ぜんぜん違ったときとか。

ご自身では、うわさに振り回されないように、意識していますか?

それが、自分もうわさが大好きなんですよ。鵜呑みにしてはいけない、とは思うんですけど、みんな結構、信じますから。

自分の悪いうわさが流されてると知ったら、どう対処しますか?

ブチ切れるでしょうね(笑)。

どう、ブチ切れるんですか (笑)?

snsで、こいつはこいつと仲が良いから、こいつから聞いたに違いない、とかすごい調査しますね。最近は、どうせ悪いうわさしか流れてないだろうし、聞いたらネガティブになるから気にしないようにしてますけど。
でも、ブログを立ち上げて傍聴集団を始めたときは、ある媒体からギャラが払われなかったので請求したら「あいつは金に汚い」って広められました。あとは、ブログが書籍化したときも「棚ぼたで、こんな本出して」とか「女だから相手にしてもらえたんだ」とか、それも嫉妬をかったと思うんですけど、今回も、そんな感じで言われるんだろうなって考えてしまうときはあります。

やっぱうわさが気になるんですね。

気になりますよね。人って、うわさに翻弄されるから。

その悪いうわさにはどう対処したんですか?

「私のうわさが~、そんなふうに~、流れてるって聞いてぇ~、本当落ち込んだんですけど~」って甘えた声で誰かに言って、逆にうわさを流すみたいな(笑)。そんなのも考えたんですけど、気持ち悪いからやらなかったです。

ははは。うわさって、一見どうでもいいことのように軽く捉えがちですけど。真実かどうかではなくて、世間のうわさによって自分の評価が決まってしまうという面もありますよね?

過去の実績もそれなりに評価されるけど、どんな評判が立っているかも、その人を計るうえで、重要視されているとは思います。それも間違いとはいえないだろうし。だから、うわさって、その人を形作るものとして、ものすごく重要な要素だって感じます。

限界集落でのうわさは、閉塞的な空間だけに、異質なものがあると思います。

立地がすごく悪いですからね。それに基本、産業がそんなにないし、やや貧しいんです。貧しい地域ってネガティブなうわさが広がりがちだと思うので、そういう場所柄があってこその事件だったとは思います。

お金の裕福さとうわさ話は関係するんですね。

私の地元もそうですけど「あの家はすごいお金を持ってる」とか「あの家はイオンに土地を売ってぼろ儲けした」とか、親がお金についてのうわさをしている記憶が鮮明に残ってるんです。

ああ、わかります。本のなかで、東京で働いていた犯人が、オフロードの車で帰ってくるところと繋がってきますよね。

すごく嫉妬をかったんじゃないですかね。しかも、帰ってきて、家まで建ててるから。

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保見家の玄関
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保見家のガレージ

うわさの怖さと、さらに金銭的な要因が重なって、犯人へのうわさ、悪口が広まっていったかもしれないですね。また、一部のマスコミの報道や sns では、高橋さんが取材をして確信した事実と、異なる情報が、多く流れてましたよね。うわさと真実の見極めも、原稿を書くうえで難しかったんじゃないですか。

疑問は常にありつつも、取材対象者の話し方がちょっと変わるとか、声を急にひそめるとか、絶対に言わなかったことをやっと話し出すとか、そういうときは、その人にとって、〈真相〉だと思ってることなんだと、そういう仕草や態度が分かるように、原稿を書いたつもりです。

それこそ高橋さんの、ディテールをもっと知りたいという欲求が、取材方法にもあらわれているように感じました。事件が起きた直後、マスコミの多くは事件の起きた村ではなく、周りの村から証言を取って、報道した。高橋さんは周りの村も、事件があった村も、両方とも証言をとっています。

事件当時、村は警察の規制線で封鎖されていたので、やむを得ない面もあると思います。

でも、多数決ではないですけど、高橋さんの場合は複数の村で取材をして、そこで共通するうわさを実証していっているから。

いろんな人に話を聞き、共通する話が出てくることがあるので、これは、この村では〈真相〉として広まっているうわさなんだろうと判断しました。

それでも、みんなが口裏を合わせている可能性もあるわけで、書き手としては、ちょっと怖いですよね。

声の大きい人の話に乗っかっているかもしれないけど、それも込みで、村の〈真相〉として広まっていたのが、今回聞いてきたうわさの怖さだと思うんです。

妄想についてぜひ聞きたいのですが、高橋さんにとっての想像することの面白さと怖さについて教えてほしいです。

私は、わりとネガティブで、人と話しているときに、細かい目線や仕草をすごい見ちゃうんです。それを家に帰ったあとに反芻して、「ああ、あの人は視線がどんどん沈んでいったから、私の話にがっかりしてたんだな」とか考えて、憂鬱になることが結構あります。それも悪いことばっかり考えちゃいます。

楽観的に考えて、本が売れたらこうしようとか、そういう想像はないですか?

それこそ、ノンフィクション賞を獲れたら嬉しいな、とかそういうのは、noteにアップした原稿を書いた当時はありましたけど、今はもう……。

じゃあ、賞のときに着ていく服まで考えましたか?

そこまでは考えない(笑)。

賞を獲ったあとの自分のポジションが変わることは想像してましたか?

ぼんやりと、仕事がいっぱいくるって想像をしたぐらいです。

ちなみに妄想と想像の違いをどのように捉えていますか?

想像はいろいろ並行して考えている状態。逆に、たったひとつの道筋を立てて考えているつもりだけど、全く現実と違っているのが妄想なんじゃないかな。しかも、想像したことを決めつけて確信しているってことですかね。

犯人の妄想性障害を確信したのは、接見したときですか。

警察がでっち上げて、俺を逮捕し犯人にしたてあげたって真剣に訴えてくるんですよ。あの靴の跡は、俺のじゃないとか言ってくるけど、仮にそうだとしても「やったのは間違いないよね?」って話していて思うんですよね。
しかも、警察がでっち上げる動機がないわけだから、それを本人に聞いても、明確な答えが返ってこない。だけど、彼のなかでは、辻褄は合わないけど信じ込んでるっていう感じなんです。これは完全に彼の妄想なんだなと思いました。

取材に協力した精神科医の岩波明先生の勤め先は、奇しくも、高橋さんが通院していた病院でした。

そうですね。岩波先生の分析にも深く納得するところがあって、犯人が妄想性障害であるということは、彼を中心としたノンフィクションは、ちょっと違うなとは思いました。だから、村のひとの話が想像を超えていて、しかもうわさが凄かったので、うわさをテーマにして、うわさが犯人にどう作用したのか、村におけるうわさの意味、私たちの生活においてのうわさについて、それらを想像してもらえるようにまとめたいって。

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バリケードに囲われた保見家の墓

犯人の精神状態が整わなくて、裁判でもうまく喋れないまま、死刑判決が下されてしまう。遺族には、犯人からちゃんと謝罪があるべきで、それが家族の方の一番の心の安らぎになると、あとがきにありましたが。

裁判員裁判だと、遺族が意見陳述をするんですけど、なんで殺されたのかを知りたくて「ずっとこの日を待っていました」みたいなことを言う人が多くて。だけど加害者本人は結局自分に都合の良いようにしか語ってくれなくて、私はまだ悲しいんだっていう陳述を頻繁に聞きます。だから、犯人の口から、本当は何があったのかを聞きたいっていうのは、遺族の一番の願いなんだって自分なりには思っています。

また、今回のように、取材をしているうちに病気で亡くなってしまった被害者遺族もいて、その思いや証言に、突き動かされることもあるんですか?

取材によっては、ありますね。今回取材した河村さんについては、無念だったろうなって思いはあるんですよね。だから、彼が生前に語ってたこと。奥さんが殺されて、いなくなってしまった寂しさとか、そういう彼の気持ちを世に出すのには、一定の意味があるんじゃないかなとか、偉そうなことをふと考えたりもしました。

でも、人間の頭のなかって、本当に不思議ですよね。そういう意味では、誰でも誤った妄想をして、ひとを殺さなくても、おそらく誤解して恨んだりとかはしていますよね。想像することは、とても重要だと思うんですが、なぜ、事実と違うことに発展していくのか、愛とか友情とか夢とか、全て妄想じゃないかって思うこともよくあります。

ああ、それは私もあります。生まれてきたときから、なんで自分はここにいるんだろうとかもそうですよね。

生きていることにリアリティってありますか?

あんまりないっていうか、この世界は全部幻なんじゃないかって、ふとしたときに思ったりするから、ふわっとしています。死んだら終わりじゃない? でも死んだらどこにいくんだろうとか、自分が考えてたことって何なんだろうとか、割と頻繁に思いますから。

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専門家が語る、噂話を止める方法

「多くのひと、特に優しくて思いやりのあるひとほど、健全な境界線を引いていないようです。〈良き聴き手〉という役割を引き受け、意図しないうちにゴタゴタに巻き込まれてしまう。」

by Anna Goldfarb
11 September 2019, 4:04am

Elderly neighbors chatting over a fence on the Lower East Side, New York City, June 1983. Photo: Barbara Alper/Getty Images

職場であれ、学校であれ、家族や友人同士の集まりであれ、ひとが集まればおのずと、最新の噂話に花が咲く。なぜなら噂話とは、集団のものだ。誰が入った、誰が抜けた…。その場に美味なる話題がこぼれれば、ほぼ全員が興味を示す。噂好きという性格は、世界共通で嫌われるにもかかわらず、だ。

人間は、何世紀も他人のことを気にしながら生きてきた。実際、噂話は社会の進歩に不可欠とする研究もある。しかし、始まりは他人のパーソナルな生活についての他愛もないおしゃべりだったとしても、その内容に無頓着だと、何かを崩壊させてしまう危険性もある。

自分が噂話の悪意に飲み込まれ、批判やいやらしさを醸し出しながらしゃべっていると気づいたならば、今からでも遅くない、自分のふるまいを改めよう。あるいは噂や推測に基づく会話に巻き込まれていると感じたときには、その会話をさりげなく止めることも可能だ。私たちはマナーの専門家、ビジネスコーチ、作家、セラピストに話を聞き、噂話という不愉快な習性を早めに摘み取る方法を学んだ。ぜひ参考にしてほしい。

自分が噂を話したくなる原因を考える

リアン・デイヴィー博士、『You First: Inspire Your Team to Grow Up, Get Along, and Get Stuff Done』著者
「噂話が自分のプレッシャーのはけ口のひとつだとしたら、他人の噂ではなくて、自分について話すことに専念するべき。噂によって誰かに助けを求めているのだとしたら、『あのひとには手を焼いているんです。彼ともっとうまく付き合える方法があれば何か教えてくれませんか?』と伝えかたを変えること。噂が退屈な毎日に刺激を与えてくれるのだとしたら、ポジティブかつ建設的な物事について話せばいいんです。たとえば、楽しみにしている次のプロジェクトやイベントについて同僚と話す、など。友人より勝りたい、みんなに影響を与えたい、という気持ちから噂をするのであれば、確かに効果的かもしれません。でも、結局噂は、あなたの信頼や人気を高めるどころか台無しにしてしまいます。噂話をするのではなく、みんなにとって役立つことに貢献しましょう。ポジティブなフィードバックをするとか、相手が手がけているプロジェクトの手助けを申し出るとか」

境界線を決めること、ポジティブな面に目を向けること

メロディ・ワイルディング、認可ソーシャルワーカー/コーチ
「多くのひと、特に優しくて思いやりのあるひとほど、健全な境界線を引いていないようです。〈良き聴き手〉という役割を引き受け、意図しないうちにゴタゴタに巻き込まれてしまう。身に覚えがあるなら、他人の噂話をしてくる、受動的攻撃性を備えたひととのあいだに境界線をどう引くかを学ぶべきですね。そして、噂話が始まるときにその場から一歩引けるようになるための、自己主張のスキルを磨きましょう。大事なのは自分の意志。ネガティブなことばかりをだらだらと話し続けるより、ポジティブな噂話に集中しましょう。その場にいないひとの噂話をするなら、必ず良いところを噂すること。長所を見つけたり、努力を褒めたり、成功を祝したり。そうすれば自分にも良い流れとして返ってきます」

きちんと意識すること、信頼できる相手に頼ること

ジャクリーン・ウィットモア、ビジネスマナー専門家/〈The Protocol School of Palm Beach〉創立者
「自分がよく噂話をしていると思ったら、〈THINK〉が大事です。すなわち、

  • T(true):それは正しいか?
  • H(helpful / hurtful):それは役立つか? 誰かを傷つけるか?
  • I(inspiring):刺激となるか、それともネガティブか? ポジティブなかたちで誰かの刺激になるなら、良い噂とみなせます。しかしネガティブで誰かを傷つける可能性があるなら、ネガティブな噂なので広めてはいけません。
  • N(necessary):他のひとに伝える必要がある噂か?
  • K(kind):噂の対象となっているひとを知っているひと/知らないひとに、この情報を共有することが親切なことなのか?

自分が噂話をすることについて不安を覚えるならば、自分に問題があると気づいているということ。毎日、「噂話をしない」「ウソをつかない」など日々の目標を書き出すのがおすすめです。そして、ちゃんと指摘してくれる相手を見つけましょう。信頼している友人に、あなたが噂話をしたときにはその責任を自分でちゃんと負うよう、優しくこっそりと指摘してくれ、とお願いしておく。そうすれば、自分が噂話をしていること、そしてその頻度を意識することができます」

他人の立場になって考える

ジュリー・ジャンセン、作家/キャリアコーチ
「もし友人や同僚が、レストランや会社の会議室で自分について噂話をしていたら、そして自分があとからそれを知ったらどう思うか、と自問自答してみてください。きっと不愉快に思うでしょうし、腹も立つでしょう。噂話は、本当に起こった些細な出来事を発端として、大きな作り話に発展することが多いんです。後ろめたい幸福を得たいなら、噂話ではなく、他人にネガティブな影響を与えない何か別のことにしましょう。週1でアイスクリームを食べるとか、ずっと欲しかった服を買うとか」

This article originally appeared on VICE US.

Health

〈脳神話〉からの脱却を目指して

マサチューセッツ工科大学の生物学者、アラン・ジャザノフ教授は、脳が過大評価されている現状に警鐘を鳴らす。全てが脳のひとり芝居であり、脳は舞台に立つ唯一の俳優だと広く考えられているが、実際は多くの俳優が舞台袖で待機している。出番待ちの俳優たちを知らなければ、われわれは脳の本当の機能を理解できない。

by Shayla Love
06 September 2019, 5:12am

「真に重要な意味をもつ自分の全てが脳の産物であり、事実上、〈自分=脳〉であることは可能なのか?」。これは、新刊『The Biological Mind: How Brain, Body, and Environment Collaborate to Make Us Who We Are』の冒頭で、マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)のベテラン生物学者、アラン・ジャザノフ(Alan Jasanoff)教授が投げかけた問いだ。

われわれ人間にとって、そしてわれわれのアイデンティティにおいて重要な全てが、頭蓋骨内の1.3キロ程度の器官に収められているというコンセプトは、魅力的だ。脳はよく、人間の感情や個性を司る管制塔と呼ばれる。意識、精神疾患、行動研究においては、脳が主要な研究対象だ。

しかし昨今、脳の自律性が過大評価されている、とシャザノフ教授は異論を唱える。われわれは、教授がいうところの〈脳神話〉にとらわれている、というのだ。全てが脳のひとり芝居であり、脳は舞台に立つ唯一の俳優だと広く考えられているが、実際は多くの俳優が舞台袖で待機している。出番待ちの俳優たちを知らなければ、われわれは脳の本当の機能を理解できない。

もちろん、あらゆる点において脳が重要な役割を担っているのは間違いないが、脳も他と同じくひとつの器官である、という事実をわれわれは忘れがちだ、と教授。脳も、同じ生物学的法則と生理的プロセスに従っており、程度にかかわらず、外部からの影響を受けているのだ。

2018年3月中旬、新刊の出版にあたって、どうすれば適切に脳を評価できるのか、ジャザノフ教授に話を聞いた。

〈脳神話〉とは?

私の造語です。脳についてのステレオタイプ的言説を指す言葉として使用しています。脳は、実体よりも高性能で、未知で、自己完結的で、魂に近いものとして扱われがちです。

脳神話が顕著なのは、例えば脳の絵です。脳をテーマにした書籍の大半は、表紙に、発光する半透明の脳が描かれています。全ての書籍、とはいわないまでも、大体そうです。それは世間が脳と結びつけがちな、驚異の念、畏怖の表象の典型です。脳は、超自然的なモノのように扱われています。私からすれば、それは非生物学的な脳のとらえかたです。もちろん、魅力的なアイデアではありますが、それこそが、脳の働きや、脳を有することと魂を有することの違いについての理解が歪んでしまっている理由だと考えます。

私たちは脳と他の器官をどう区別しているのでしょう。つまるところ、〈脳=魂の在処〉と考えることの、何が危険なのでしょう。

私たちは、脳を器官として捉えない傾向にあります。みんな、身体のいち部というよりは、むしろ、コンピューターであるかのように理解しているんです。〈脳=コンピューター〉という例えはおなじみなので、ほぼ全員が、何らかのかたちで知っているでしょう。それと密接に関連しているのは、脳の複雑さは人智を超える、という定説です。人間が脳を理解する日は来ない、とする主張もたくさんあります。脳こそ、既知の宇宙でもっとも複雑なモノなのです。

脳の実に複雑な特質と、コンピューターに例えられることが相まって、まるで、脳が身体のいち部分ではないかのように、私たちは信じ込んでしまいます。生物学では説明できないし、自然のものでもない、と。それが、私が呼ぶところの〈脳体二元論〉につながります。かつての〈実体二元論〉に近いんですが、その現代版です。

脳は身体をコントロールしているともされています。〈脳は身体の管制塔〉というフレーズを聞いたことがある人も多いでしょう。もちろん、その言葉には、多分に真実も含まれています。しかしそれだと、脳が身体を、単一方向、つまり、トップダウン的にコントロールしているようなイメージを植え付けてしまいます。本当は、脳と身体とのあいだには、双方向的な作用がたくさんあるんです。身体も、そして環境も脳をコントロールしています。

このようなステレオタイプがどうして危険か。もちろん、そういった考えかたがまったくの間違いなわけではありません。しかし、それらがひとくくりにされ、極端な言説になると、脳の機能についての私たちの理解が限定されてしまうのです。〈管制塔〉のステレオタイプは、おそらくもっとも厄介でしょう。周辺環境が人間に及ぼす影響に鈍感になってしまいますからね。また、人間の行動についての理解も阻害します。私たちが、人間の脳を神秘的で万能だと判断すればするほど、そして私たちが自分自身を、脳機能だけで定義すればするほど、私たちをたらしめる、脳以外の数々の要因に無頓着になってしまいます。

私たちは、感情の発露も脳の管理下にあると考えがちです。私たちの抱く感情に変化を与える、感覚的、環境的影響とは、例えば何ですか?

意識をもつ私たちには、自己管理感覚が備わっており、そのなかには感情の管理感覚も含まれます。しかし実際、私たちの行動や感情は全て、脳の外、もっといえば身体の外からの影響を受けています。いくら私たちが脳は管制塔だと考えていても、脳と身体内外からのあらゆる影響、必然的で観測可能な関係性があるのです。

周辺環境からの刺激とは、例えば光、温度、色などです。そういった要素が私たちの気分、情動的意思決定に影響します。おそらく、いちばん有名なのは〈季節性感情障害(Seasonal Affective Disorder)〉と呼ばれる症状でしょう。日照不足の寒冷地の冬に発症しやすいうつ病の1種です。

また、暑いと攻撃的になる現象もあります。周辺環境の気温が数度上がるだけで、攻撃性のレベルも上がるという傾向があるんです。『The Science』誌に掲載されたメタ分析はすばらしく、様々な例が挙げられています。私が驚いたのは、警察官が射撃訓練で、気温が低いときより高いときのほうが多く発砲するという報告です。

私たちは、常に感覚を受容しています。みんな、「自分の管理はできているんだから、このデータに従って行動すればいいんだ」という感覚システムを想像しがちですが、実際、私たちは目、耳、口、肌が受容する感覚に大きく左右されます。

空腹の裁判官がより厳しい判決を下すことを明らかにした研究もありましたね。

いかにも、裁判官は昼食後により軽い判決を言い渡す傾向にある、とした有名な研究です。暮らしのなかには、私たちの言動に影響を与えるものがたくさんあるんです。身体がちょっと痛いだけで不機嫌になることもあります。深く考えなくても、それらの多くは当たり前だし、直観的に理解できますよね。機嫌が良いときは、きっと死刑判決を下したい気分にもならないでしょう。

教授の説は、精神疾患などについての理解にはどうあてはめられますか? 現代では、精神疾患ははっきりと生物学的に定義されており、脳やその機能障害がベースとなっています。

脳の病気としての精神疾患を再定義しようとする大きな動きがあります。意義深い活動です。多くの患者が、治療を求めるさいに大きな文化的障壁に直面していますから。こうやって精神疾患を新たなかたちで提示することが、状況の改善につながります。別の観点からいえば、精神疾患を脳の病気と同一視することは誤解を招きやすく、場合によっては有害ですらあります。

ひとつは医学的な観点、治療の観点からの話です。精神疾患を脳の病気とみなしている患者は、脳に直接作用を及ぼすと考えられる治療を受けることが多いんです。たとえ、それが必ずしも正しい選択でなかったとしてもです。この20年で、より行動療法に近い治療から、薬物療法へとシフトしてきています。

ふたつめは、自分は精神疾患を患っているのではなく、脳がおかしくなっているだけだ、と信じている患者です。彼らは自らの不具合を、社会的療法で治せるものではなく、むしろ生来のもの、不変のものだ、と考えてしまう。ひと昔前の精神疾患のとらえかたですね。自分が世間でどう見られるかについても、そうやって考えます。もし自分の脳に疾患があるなら、みんなから距離を置かれてしまうはずだ、なぜなら、みんなが私を、欠陥があり危険だとみなすから、と。

精神疾患を脳の病気のひとつに限定した見方をすると、さらに大きな問題があります。それは精神疾患そのものの定義に関係した問題です。精神疾患は文化を通して、数多くの医師や利害関係者が話し合って決めた総意を通して定義されます。その定義は、実に文化的な産物なんです。今からわずか60年ほど前には、同性愛も精神疾患のひとつとみなされていました。だからといって同性愛は脳の病気ではありませんよね。国ごとに、精神疾患の定義も違います。だからといってそれぞれの国の精神疾患が、全て別の脳の病気なわけではありませんし、かの国の脳の病気が、この国にないわけでもありません。もちろん、脳機能と精神疾患に関連性がない、とはいいません。しかし、精神疾患をただ単純に脳の病気と呼ぶのは、実に還元主義的だと思います。

もしうつ病や精神疾患が単なる脳の病気であれば、発達期の子どもたちの貧困などといった問題に立ち向かう人びとを手助けするための社会的プログラムを立ち上げても、意味がないということになってしまいますね。

その通りです。精神疾患の定義にも原因にも、より広範な、社会的事象が関与しているんです。この社会では、集団ごとに、精神疾患の疫学データも異なっています。さかのぼること20世紀初頭、1930年代に発表された研究結果に、注目すべきものがあります。都市部での誕生や成長と、統合失調症には関連性があるという結果が出たのです。また、個々人の外部で起こり、メンタルヘルスに影響するとされる事象を明確に示す関連性は、これ以外にもまだあります。

意識の研究はどうですか? 一般的に、意識は神経科学の最後のフロンティアとみなされ、意識が脳内のどこでどう発生するかが研究されています。しかし教授の説では、意識を脳のみで研究するのは間違っているということでしょうか。

私は神経科学者で、脳機能を研究することに人生のほとんどを捧げてきました。だから、間違っていません。意識の構成要素や、他の認知/行動機能を脳に求めることは、間違っているとは思いません。

とはいえ、身体や環境的文脈から完全に独立した脳機能は皆無だと私は断言します。脳がなければ意識は生まれません。意識が依拠するのは主に脳でしょう。しかし、私たちが意識する対象は、全て、とはいいませんがほとんど全てが、脳外部にあるものです。身体機能を意識するときはもちろん身体に、周囲の出来事を意識するときは、受容する感覚に頼っています。これらは、脳が孤立して機能しているわけではないと示す例です。

さらにいうと、人間の高度な認知機能には、身体や周辺環境にかなり頼っているものもあります。例えば、人間の身体のかたちは、私たちの認知に影響しています。いわゆる〈身体化された認知〉です。例を挙げると、有名なヴァイオリニストであり、作曲家でもあったパガニーニ(Paganini)は、関節が異常にやわらかく、3本の指がそれぞれありえない方向に曲がったといいます。だからこそ、誰にもできない弾きかたでヴァイオリンを弾けて、それが、彼の作曲にも影響したんです。彼は、自分にしか弾けない曲を書きました。彼の精神は、るいは作曲時の彼の脳、精神の活動は、彼の身体の産物なんです。

自分の死後に〈自分〉を残す手段として脳を保存しておくというテクノロジーの構想についてはどう思いますか? 最近では、脳の全てを余すところなく保存し、のちにどこかにデータをアップロードして自分が再びこの世界に存在できるようにする、と標榜するスタートアップ企業も登場しています。脳と身体が離れたときに存在する〈自分〉は、〈自分〉なのでしょうか。

脳の永久保存や、死去したばかりの対象者の脳を保存するサービスを謳う企業はいくつかあります。彼らが目指しているのは、脳をスキャンし、デジタル環境にアップロードすること、あるいは技術的に可能になったら、脳を若返らせ、新しい身体に移植することも検討されています。

そもそも現段階において、この構想は実に不確かです。脳を保存するテクノロジーはまだないし、すぐに登場する様子もありません。ただ、このサービスにお金を払おうとする人びとがいる事実が、まさに〈脳神話〉の力を示す証拠です。

たとえ、誰かが技術的障壁を全て乗り越え、実際に脳を適切に保存し、分析し、機器につないだりシミュレーションを実行できるようになったとしても、そこに現れる〈自分〉は、元の〈自分〉とは別物です。脳と脳内の生理機能が全てアップロードされたとしても、身体とつながっていた脳とは、得る経験がまったく違うんです。それは、感情や、外部からの感覚刺激の受容のしかたが、脳だけではなく、外部からの刺激と脳とのつながりに依拠しているからです。

シミュレーションを丁寧に行えば、その問題も埋め合わせできるかもしれませんが、いずれにせよ脳を、身体や周辺環境のなかで相互に作用するシステムとしてシミュレーションしなくてはならないでしょう。もし、アップロードされた脳に、今の私たちと同じような思考、感情を経験させたいなら、脳の周辺環境、少なくともそのなかの主要な要素を、併せてアップロードしなければいけません。自分と似たような環境で育った、本物の脳を有する本物の人間がいれば、コンピューター内の脳だけのシミュレーションより、前者のほうが自分に近い、と感じるはずです。

脳は、私たちの思考、感情、価値、目標を決定づける拡張されたシステムのいち部であると考えれば、そこから学びを得られます。保存することが特別で価値があるのは、モノとしての脳だけではなく、文脈、すなわち環境、身体、脳、全てなのです。

This article originally appeared on VICE US.