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【時代~プロ野球昭和から平成へ~】

打てる捕手の系譜 谷繁元信

2019年12月24日 紙面から

プロ野球史上最多となる3021試合出場を誇る谷繁元信。打者としても通算2108安打、27年連続本塁打の記録を持つ=2015年7月28日、ナゴヤドームでの中日-阪神戦から

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 平成の時代に俄然(がぜん)脚光を浴びるポジションとなったのが捕手だ。司令塔として重視される守りの役目だけではなく、そのバットで勝利に貢献できる存在が各球団に出現。その一人といえるのが通算2108安打の谷繁元信だ。自らの打撃力をどう培い、どうライバルと対峙(たいじ)してきたのか。平成を生き抜いた名捕手がその記憶をたどる。 (文中敬省略)

歴史に輝く「偉業」

 NPBの長い歴史をひもといても、重労働を余儀なくされる捕手で通算2000安打を超える男は簡単には出現しない。昭和の時代に一時代を築いた野村克也以降、出現したのはわずか3人。古田敦也、谷繁元信、阿部慎之助だ。横浜ベイスターズ(現DeNA)で13年、中日ドラゴンズで14年。平成元年にプロの世界に飛び込んだ谷繁は、切磋琢磨(せっさたくま)を続け名捕手の座を不動のものとした。

 「もちろん守りは当然なんだけど、オレらの時代はある程度は打たないとレギュラーとして使ってもらえなかった。今は打てる捕手といえるのは、広島の会沢ぐらい。ソフトバンクの甲斐も今季は2桁本塁打を打って成長してるね。捕手であっても、最低限のラインとして得点圏打率は3割前後、打率は2割5分、本塁打は10本、打点は打順にもよるけど、50前後かな」

現役時代を振り返り話す谷繁元信=名古屋市東区で(高岡辰伍撮影)

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徹底的な肉体改造

 谷繁は打てる捕手の呼び声高くドラフト1位で当時の横浜大洋に入団。ただ、プロの世界は甘くはない。初めて100試合以上出場した93年も本塁打はわずか4本。ここから徹底的な肉体改造に着手し、昨今でこそ主流となったウエートトレを本格的に導入した。「数年間でようやく体になじんできて、今までと同じように振っても飛距離が伸びていった」。97年にはそれまでの自己最多の13本に伸ばし、01、02年には2年連続20本塁打以上も達成した。

 同時に谷繁の闘争心を駆り立てたライバルの存在も見逃せない。古田敦也、阿部慎之助はもちろん中村武志、西山秀二、矢野燿大、城島健司…里崎智也。各球団の『打てる捕手』との対戦は、攻守にわたり特別なものだった。

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 「例えば古田さんがマスクをかぶっていて、自分が打席に入った時でももちろん、強く意識はしていた。逆もそう。オレがマスクをかぶってた時は、絶対に打たせたくなかった。慎之助のときも同じ。なぜ意識してたかといえば、同じポジションで負けたくないから。まずはチームの優勝を争い、1年間を通してみればベストナインもあるわけで、常につばぜり合いしていたからね」

強烈印象の「死球」

 NPB歴代最多3021試合出場を誇り、通算2108安打、229本塁打、1040打点。これだけの数字を積み上げた名捕手が、脳裏にこびりついて離れない打席がある。それは劇的なサヨナラ安打でも、満塁本塁打でも、名球会入りを決めた一打でもない。98年10月8日の阪神戦(甲子園)、同点の8回2死一、二塁の局面だった。

 「結論から言うとね。あれほどうれしい死球はなかった。相手投手が阪神の伊藤敦さんで、めちゃくちゃ苦手で打てる気がしない。振る舞いは打つ気満々だったけど、内角球がユニホームにかすって内心、ヨシッって思ったよ。次の進藤さんがライト前にタイムリーが出て勝ち越して、そのまま逃げ切り初めて優勝を味わった。やっぱり捕手は勝たないと評価されない、優勝して一人前という感じだったから。忘れられない打席だね」

 チームにとって38年ぶりのリーグ優勝、谷繁にとって初体験のVを引き寄せた死球。打って守らなければ正捕手という地位は築けない。ただ、最後は打つよりは勝つ-。いかにも捕手のポジションを務めた男らしい野球観かもしれない。

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 ▼谷繁元信(たにしげ・もとのぶ) 1970(昭和45)年12月21日生まれ、広島県出身の49歳。右投げ右打ち。島根・江の川高(現石見智翠館高)から89年にドラフト1位で大洋(現DeNA)に入団。98年に正捕手として日本一に貢献。02年にFAで中日に移籍し、07年の日本一のほかリーグ優勝4度。14年から選手兼任で、16年からは専任で中日監督を務めた。通算成績は最多出場記録の3021試合、打率2割4分、2108安打、229本塁打、1040打点。ゴールデングラブ賞6度受賞。

【へぇ~】打力ゆえに増えた四球数 堂々のベスト10

通算2000安打を放ち、花束とボードを手に歓声に応える谷繁=2013年5月6日、神宮球場で(隈崎稔樹撮影)

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 谷繁がNPB歴代最多出場とともに誇れる数字が四球数だ。1位の王貞治を筆頭に球史に名を刻んだスラッガーたちが名を連ねる中、1133で堂々のベストテン入り。谷繁が「オレは7、8番が多かったから、必然的に数はね」と話す通り、セの場合は9番に投手が入るため、勝負を避けられるケースは多々ある。

 ただ、それだけで片付けられない側面があるのも確かだ。谷繁は「相手が怖がってくれて四球が取れれば、投手が凡打で終わってチェンジでも次の回は1番から。必ず打順の巡りが良くなるわけでしょ」と、捕手の打撃向上による波及効果を口にした。さらに「今は堂々と捕手で勝負されるし、技術的にも四球を取ろうとすることができない人が多い。下位を打つ人が試合展開も読まずに初球から打ってみたり…」と試合運びの稚拙さも指摘した。 

 

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