蒸し野菜、蒸し野菜、蒸し野菜……。おれがどのような生物か分類するならば、ホモ・ムシヤサイクイデンスということになるだろう。
「毎日、毎日、蒸し野菜食っていて、虚しくならないのですか?」という問いを持つ人もいるだろう。しかし、きょうだいよ、「栄養を摂取することに気を向けることで、なにかが犠牲になっていないのか?」 おれはそう問い返したい。おれは買い物を、調理をオートマチックにすることによって、その分、時間を得ている。その時間でおれはくだらぬ思考を巡らせたり、週末の馬券を予想したり、常にインフルエンザ状態に自らを保ち、土俵で負けてもライバルの休場によって番付を挙げていく力士を妄想したりする。結局は消化されて流されてしまうものについて時間をかけるよりも、そちらの方がよっぽど恵まれた人生とは言えないか。そう思わないか、この空虚な世界に生まれてしまった同胞よ。
栄養のバランスは取れているのか? 知らん。知らんが、一応昼には炭水化物も摂っている。晩は野菜と、ちょっぴりの肉でいい。肉は鶏のササミでいいと思っていたが、ササミは思いのほかプリン体が含まれるというので、豚肉を取り入れたりもしている。食生活における正解があるとすれば、今のところリスクヘッジに尽きる。おれの土日のブランチはカップ焼きそばである。そういうものだ。
というわけで、料理などというものに時間をかけるくらいならば、圧倒的に単純化して、ほかのことに時間をかけるべきだ。それが人生の豊穣だ。少なくとも、食に、食材に金をかけられぬ貧乏人にとってはそうだ。レシピに頭を悩ませる暇があったら、寛容は不寛容に対して寛容たるべきかどうか思いを巡らすほうがよっぽどましだ。料理などはプロの料理人にまかせておけばいい(チェーン牛丼店のキッチン係なども含む)。そうでなければ、フライパンに水を張れ、野菜をちぎって入れろ、火をつけろ、それでいいじゃないか。酢醤油で食え。それでいいじゃないか。
禁欲にも見える自動化、それがなにをもたらすのか? 自動化だ。仏教のある宗派では、日常の所作が厳しく定められている。その厳しさ自体が修行なのか。私見だが、おれはそうは思わない。それらをオートマチックにすることによって、仏に向き合い、法に向き合い、自己に向き合うことができるのだ。それは豊かなことである。
もしもおれがすごくすごい大金持ちであれば、べつに蒸し野菜を作らない。料理など誰かに任せて、食うだけに徹する。調理にかける時間を思索に振り分ける。振り分けたところで、おれの知能で到るところはひどく低いかもしれない。それでも構わない。蒸し野菜以外は食う必要がない。蒸し野菜を食って死ね。おれはそう思うのだ。
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おれはこの記事経由で自分の書いたものを見直すまで、キムチ鍋に液状味噌を入れるという発想を完全に忘れていていた。