前回同様のコメディ展開から物語は一転し、
今まで見過ごされてきたオズの「歪み」への容赦ない糾弾。
「上げて落とす」やり方は常套手段だが、今回のそれは恐ろしいほどの落差。
これこそが『Pandora Hearts』という作品なのだと、改めて思い知った。
この作品を観ていて鳥肌が立ったのも一度や二度ではないが、今回もそれに違わない。
10話、15話、そしてこの18話と背筋が震え、握った掌に汗をびっしりかくほどのめりこんでいる。
今まで見過ごされてきたオズの「歪み」への容赦ない糾弾。
「上げて落とす」やり方は常套手段だが、今回のそれは恐ろしいほどの落差。
これこそが『Pandora Hearts』という作品なのだと、改めて思い知った。
この作品を観ていて鳥肌が立ったのも一度や二度ではないが、今回もそれに違わない。
10話、15話、そしてこの18話と背筋が震え、握った掌に汗をびっしりかくほどのめりこんでいる。
『聖騎士物語』。
オズとエリオット。あらゆる意味で対照的で、そして「実は似ている」彼らが共に好む物語。
オズは登場人物の従者エドガーが好きだと熱く語る。
「いつだって自分より他人のことを大切にして」
「誰かを守るためなら、自分が傷つくことも厭わない立派な人」
しかし、エリオットはエドガーが大嫌いだと言う。
「言ってることが独善的でムカつく」
「自己犠牲なんてマジうぜえ」
「作中でもあいつやたら慕われててうっとうしい」
「何より気に食わないのがその最期だ」
「自らを投げ打って主人を守り、一人死んでいく」
「あんなのただの自己満足だ」
その対立は一見熱心なファン同士の微笑ましい言い争いのように思えて、その実2人の生き方、そして存在意義そのものの根源的な対立であることを、この後の展開が雄弁に語る。
エイダに対し「気安く呼ぶな」と言うエリオット。
「エイダ・ベザリウス」とフルネームで呼んでいること、そして何よりエリオットが「裏切り者」ナイトレイ家の人間であることからしても、「英雄」ジャック・ベザリウスに対して憎しみを抱いているのだろう。ベザリウス家に対する過剰な敵意。「まるでベザリウス家に恨みでもあるみたい」とオズは言うが、恐らく恨みではなく憎しみ。
エイダに毒を飲ませてオズに問いかけるバスカビルの女。
「あなたの大切な人が命の危機にさらされています」
「それを救うには、あなたが死ななければなりません」
「さあ、あなたはどうする?」
「死ぬよ」
間髪入れずに返したオズ。
「それしか方法がないなら、迷わずに」
そう、それはオズにとって考えるまでもないこと。
自分自身に価値を認められない人間は、他人の中にしか存在意義を見出せない。
ならば「他人を助けるために死ぬ」結末は、恐れることではなくむしろ望むこと。
その瞬間だけは、間違いなく確かな存在意義を認識できるのだから。
「やっぱり、そう言うと思った」
「だって坊や、あいつとそっくりだもの」
あいつとは誰か。恐らくはジャック・ベザリウス。
異常なほどの極端な自己犠牲こそ「英雄」と呼ばれるに相応しい。
現れるエリオット。自分に構わず逃げろと言うオズに、エリオットが叫ぶ。
「黙れこのエドガー気取りが!」
「傷つくことを恐れぬことの何が強さか!」
「そんなもの、何かを背負う覚悟すらない奴がほざく戯言だ!」
助けて欲しくなどなかったと言うオズに、エリオットの糾弾が突き刺さる。
「お前、いつもああなのか?」
「ああやって、自分なんてどうでも良いって顔してんのかと聞いているんだ」
「このエドガーもどき」
「お前は『聖騎士物語』のエドガーにそっくりだ。つまりはうぜえ」
「エドガーは死に向かう時にこう言った」
『私は傷つくことを恐れない。死を恐怖せぬことが私の武器』
「そうやって、奴を支えてきた者たちの心を切り裂いて行きやがった」
「奴はあがくべきだった。死を拒むべきだった」
「この死にたがり野郎が!」
「お前の自己犠牲など、所詮はただの自己満足だ」
「それで誰かを救えた気になっているのか?」
「守りたいのは自分自身のくせに!」
「このままではお前は誰も守れない」
「自分の命を軽んじる奴に奴に誰かを守る資格なんてねえ」
「自分のことを諦めて、悲劇の主人公を気取って」
「自分も他人も傷つけながら、これからも生きていくのか!!」
その弾劾に、オズは言葉を返せない。
かつてブレイクに歪みを指摘された時のように、氷の心で笑顔の仮面を被ることすらできずに。
「うるさい!」と、拒むことしかできなかった。
今まで色々と感想というか考察をしてきたからオズの「歪み」への多少の糾弾は覚悟していたが、これほど苛烈なものになるとは。色々な回の感想で似たようなことを書いてきたが、オズとエリオットについてここで一度立ち止まって考えてみる。
オズの抱える「歪み」。
それは、自分自身に価値を見出せずにいること。
その原因が親に愛されなかったことなのは間違いない。
別の言い方をすれば、存在自体の絶対的な全肯定を得られなかった。
傷みから逃れるために、オズは「心を凍らせた」。
まさしく「守りたいのは自分自身」。
自分のことなどどうでもいいと自分を偽らなければ、生きていくことさえ出来なかった。
そうして自分のことは諦めて「誰かのため」に生きて行く。
存在意義を他者に求めて、他者のためなら死をも厭わない。
その逆転した優先順位こそが生きる意義であり、そう考えることが生きる手段。
それを歪んでいると責める事など、どうしてできようか。
一方でそれを厳しく糾弾するエリオットの方にもまた、歪みを見て取れる。
エリオットの本質は恐らく「劣等感」。
「裏切り者」ナイトレイ家の人間として、彼は「英雄」にはなれない。
「英雄」になるのは昔も今もベザリウスの役割。
『聖騎士物語』を好む彼はきっと、英雄に憧れた。
けれどそれは、ナイトレイの人間には夢見ることすら叶わない。
従士エドガーに対し「作中でもやたら慕われててうっとうしい」と言った台詞など、
「慕われないナイトレイ家の人間たる自分」を強く意識しているように見える。
その鬱屈した感情は「英雄」の生き方を否定することでしか晴れない。
「自分は英雄にはなれない」ことを認めるのではなく、
「自分は英雄にはならない」と強がらなければ、
屈折した感情に折り合いを付けられなかったのだろう。
本当に自分のことだけが大事なら、憎きベザリウスの人間のために危地に踏み込まない。
窮地に現れてオズとエイダを救ったその姿は、どう否定しようとも英雄の行動。
どんなに英雄を憎んでも、彼がある意味で「英雄らしい」のは否定できない。
なんて皮肉。
「英雄になるのは、英雄になりたい者ではなく、英雄にしかなれない者」。
エリオットのオズへの苛烈な糾弾は、エリオットがどんなに望んでも手に入れられないものをオズが無造作に放り捨てようとしていることに対する苛立ちの噴出だと考えれば納得がいく。16話でオズは自分が世界を救う英雄だと信じているかブレイクに問い、逆に問い返されて「自分はオズ・ベザリウス」だと答えた。「英雄になるつもりなどないのに英雄に祭り上げられたことに困惑し、それでいて生き方は英雄そのものである者」と「英雄になれず英雄の生き方を否定しながら、英雄らしい行動を取る者」。
全く対照的な生き方をしていながら、彼らはどこか似ている。
それは行動と言動が矛盾していて、それでいてその矛盾に当人は気づかないでいること。
オズを歪んでいると言うなら、エリオットもまた歪んでいる。
この出会いは彼らにどのような変化をもたらすのだろうか。
全くの余談だが、今回のエリオットによる弾劾の台詞を聞いて直感的に八神和麻(風の聖痕)を連想した。
名台詞「自己犠牲なんて言葉で死を美化しようとするな」が印象に残っていたからか。
オズとエリオット。あらゆる意味で対照的で、そして「実は似ている」彼らが共に好む物語。
オズは登場人物の従者エドガーが好きだと熱く語る。
「いつだって自分より他人のことを大切にして」
「誰かを守るためなら、自分が傷つくことも厭わない立派な人」
しかし、エリオットはエドガーが大嫌いだと言う。
「言ってることが独善的でムカつく」
「自己犠牲なんてマジうぜえ」
「作中でもあいつやたら慕われててうっとうしい」
「何より気に食わないのがその最期だ」
「自らを投げ打って主人を守り、一人死んでいく」
「あんなのただの自己満足だ」
その対立は一見熱心なファン同士の微笑ましい言い争いのように思えて、その実2人の生き方、そして存在意義そのものの根源的な対立であることを、この後の展開が雄弁に語る。
エイダに対し「気安く呼ぶな」と言うエリオット。
「エイダ・ベザリウス」とフルネームで呼んでいること、そして何よりエリオットが「裏切り者」ナイトレイ家の人間であることからしても、「英雄」ジャック・ベザリウスに対して憎しみを抱いているのだろう。ベザリウス家に対する過剰な敵意。「まるでベザリウス家に恨みでもあるみたい」とオズは言うが、恐らく恨みではなく憎しみ。
エイダに毒を飲ませてオズに問いかけるバスカビルの女。
「あなたの大切な人が命の危機にさらされています」
「それを救うには、あなたが死ななければなりません」
「さあ、あなたはどうする?」
「死ぬよ」
間髪入れずに返したオズ。
「それしか方法がないなら、迷わずに」
そう、それはオズにとって考えるまでもないこと。
自分自身に価値を認められない人間は、他人の中にしか存在意義を見出せない。
ならば「他人を助けるために死ぬ」結末は、恐れることではなくむしろ望むこと。
その瞬間だけは、間違いなく確かな存在意義を認識できるのだから。
「やっぱり、そう言うと思った」
「だって坊や、あいつとそっくりだもの」
あいつとは誰か。恐らくはジャック・ベザリウス。
異常なほどの極端な自己犠牲こそ「英雄」と呼ばれるに相応しい。
現れるエリオット。自分に構わず逃げろと言うオズに、エリオットが叫ぶ。
「黙れこのエドガー気取りが!」
「傷つくことを恐れぬことの何が強さか!」
「そんなもの、何かを背負う覚悟すらない奴がほざく戯言だ!」
助けて欲しくなどなかったと言うオズに、エリオットの糾弾が突き刺さる。
「お前、いつもああなのか?」
「ああやって、自分なんてどうでも良いって顔してんのかと聞いているんだ」
「このエドガーもどき」
「お前は『聖騎士物語』のエドガーにそっくりだ。つまりはうぜえ」
「エドガーは死に向かう時にこう言った」
『私は傷つくことを恐れない。死を恐怖せぬことが私の武器』
「そうやって、奴を支えてきた者たちの心を切り裂いて行きやがった」
「奴はあがくべきだった。死を拒むべきだった」
「この死にたがり野郎が!」
「お前の自己犠牲など、所詮はただの自己満足だ」
「それで誰かを救えた気になっているのか?」
「守りたいのは自分自身のくせに!」
「このままではお前は誰も守れない」
「自分の命を軽んじる奴に奴に誰かを守る資格なんてねえ」
「自分のことを諦めて、悲劇の主人公を気取って」
「自分も他人も傷つけながら、これからも生きていくのか!!」
その弾劾に、オズは言葉を返せない。
かつてブレイクに歪みを指摘された時のように、氷の心で笑顔の仮面を被ることすらできずに。
「うるさい!」と、拒むことしかできなかった。
今まで色々と感想というか考察をしてきたからオズの「歪み」への多少の糾弾は覚悟していたが、これほど苛烈なものになるとは。色々な回の感想で似たようなことを書いてきたが、オズとエリオットについてここで一度立ち止まって考えてみる。
オズの抱える「歪み」。
それは、自分自身に価値を見出せずにいること。
その原因が親に愛されなかったことなのは間違いない。
別の言い方をすれば、存在自体の絶対的な全肯定を得られなかった。
傷みから逃れるために、オズは「心を凍らせた」。
まさしく「守りたいのは自分自身」。
自分のことなどどうでもいいと自分を偽らなければ、生きていくことさえ出来なかった。
そうして自分のことは諦めて「誰かのため」に生きて行く。
存在意義を他者に求めて、他者のためなら死をも厭わない。
その逆転した優先順位こそが生きる意義であり、そう考えることが生きる手段。
それを歪んでいると責める事など、どうしてできようか。
一方でそれを厳しく糾弾するエリオットの方にもまた、歪みを見て取れる。
エリオットの本質は恐らく「劣等感」。
「裏切り者」ナイトレイ家の人間として、彼は「英雄」にはなれない。
「英雄」になるのは昔も今もベザリウスの役割。
『聖騎士物語』を好む彼はきっと、英雄に憧れた。
けれどそれは、ナイトレイの人間には夢見ることすら叶わない。
従士エドガーに対し「作中でもやたら慕われててうっとうしい」と言った台詞など、
「慕われないナイトレイ家の人間たる自分」を強く意識しているように見える。
その鬱屈した感情は「英雄」の生き方を否定することでしか晴れない。
「自分は英雄にはなれない」ことを認めるのではなく、
「自分は英雄にはならない」と強がらなければ、
屈折した感情に折り合いを付けられなかったのだろう。
本当に自分のことだけが大事なら、憎きベザリウスの人間のために危地に踏み込まない。
窮地に現れてオズとエイダを救ったその姿は、どう否定しようとも英雄の行動。
どんなに英雄を憎んでも、彼がある意味で「英雄らしい」のは否定できない。
なんて皮肉。
「英雄になるのは、英雄になりたい者ではなく、英雄にしかなれない者」。
エリオットのオズへの苛烈な糾弾は、エリオットがどんなに望んでも手に入れられないものをオズが無造作に放り捨てようとしていることに対する苛立ちの噴出だと考えれば納得がいく。16話でオズは自分が世界を救う英雄だと信じているかブレイクに問い、逆に問い返されて「自分はオズ・ベザリウス」だと答えた。「英雄になるつもりなどないのに英雄に祭り上げられたことに困惑し、それでいて生き方は英雄そのものである者」と「英雄になれず英雄の生き方を否定しながら、英雄らしい行動を取る者」。
全く対照的な生き方をしていながら、彼らはどこか似ている。
それは行動と言動が矛盾していて、それでいてその矛盾に当人は気づかないでいること。
オズを歪んでいると言うなら、エリオットもまた歪んでいる。
この出会いは彼らにどのような変化をもたらすのだろうか。
全くの余談だが、今回のエリオットによる弾劾の台詞を聞いて直感的に八神和麻(風の聖痕)を連想した。
名台詞「自己犠牲なんて言葉で死を美化しようとするな」が印象に残っていたからか。