「この子をプロに行かせる」。それが東邦高の森田泰弘監督と石川の父・尋貴さんとの約束だった。小学校ではドラゴンズJr.、中学校ではNOMOジャパンに選ばれ、石川昂弥の名は近隣に知れ渡っていた。尋貴さんが同校野球部出身で、自然な流れで東邦を選んだ石川を、プロに導くのは大きな責任だった。
打撃はもちろん、肩や守備での俊敏性も入学当初から上級生にひけをとらない。森田監督は1年生から石川を4番に据えた。3学年上には投打で甲子園を沸かせた藤嶋(現中日)もいたが「東邦の選手を35年間見てきた中でこれだけのバッターはいない。同世代のトップになれる」と確信した。
小さい頃から野球のことなら何でもできてしまう。だからこそ野球以外の部分では目立たないようにしていたのか、クラスではおとなしい方。当時のドラゴンズJr.の監督だった音重鎮スカウトも「(1学年上の)根尾と比べても能力は同じくらい」とひときわ輝くセンスに目を見張りつつ、「どちらかと言うと静かな子でした」と普段の様子を思い返す。
転機は高2の秋。森田監督は新チームの主将に石川を指名した。エースで4番。さらに重責を背負わせた理由を、こう説明した。「上の舞台でやっていくために人として信頼されることが大事。リーダーシップを身に付けてほしい」。1年後には高い確率でプロの世界に足を踏み入れる。各世代のトップが集まる場所ではい上がるには、人間性も大切になるという親心だった。
小学生の時にも主将はやっていたものの「集合の時に声を掛けるくらい」だった。「自分はどちらかと言えば主将をやるタイプではなかったんです」と打ち明ける。それでも周りに気を配り、率先して練習の準備にも汗を流した。練習中に後輩や同級生に声を掛け、指導する姿も増えた。3年春には石川の大車輪の活躍もあり、チームを平成最後のセンバツ優勝に導いた。
本人は「自分の内面は変わってないですよ」と笑うが野球の技術だけでなく、人間性も磨いた東邦時代。プロの世界で羽ばたく準備はできている。