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沖縄県発!ひたむきにしたたかに生きる先人の思いを受け継いで、琉球舞踊を踊り続ける

画像:琉球舞踊をしている佐部さんの写真

6歳の頃から琉球舞踊に興味を持ち始め、人生を懸けて演者として芸能の魅力を国内外に発信し続ける佐辺良和さん。女性の“祈る”行為が、後に琉球舞踊、組踊、沖縄芝居のすべての原型になったのだという。先人の思いを受け継ぐために、今日も奮起する佐辺さんの思いを、沖縄がたどってきた時代背景と共に伺いました。

現在はどのような活動をしていますか?

私は今、琉球舞踊と組踊、沖縄芝居の3つのジャンルで活動しています。その中でも、今年は組踊ができてちょうど300周年を迎えています。沖縄県の主催する教育普及事業の一環で、県内では与那国島や大東島、久米島、伊是名、伊平屋といった離島を回っています。沖縄本島でも小中高校で公演をする機会があるのですが、離島に行くと子供たちがすごく素直に関心をもって見てくれます。いつも私たちが力をもらえる公演になるのですごく楽しいんです。県外では、遠いところだと北海道まで回りました。

組踊では、音楽を演奏する地揺(ジカタ)が踊りを演じる立ち方(タチカタ)の気持ちを表現しますが、音楽で情緒を奏でている間、立ち方はじっとして動かないシーンもあったりするんです。だからこそ、初めて公演を見ていただくお客さんのために、分かりやすい演目を組んで県外を飛び回っています。

また国外では、戦後に沖縄から仕事を求めてボリビアに移住した移住事業を記念し、沖縄代表として海外で公演する機会にも恵まれたんです。ブラジルにある「コロニアオキナワ」と呼ばれる、「地球の反対側の沖縄」にも寄ることができて、現地の子供たちに踊りを教えたりもしました。「はい、右!はい、左!」って言ってもなかなか通じなかったのですが、沖縄の方言で「はい、ニジリンカイ!はい、ヒジャインカイ!」って言ってみるとすぐに通じました。
きれいな沖縄の方言が海外で残っていることにすごくびっくりしたんです。帰国する時にも、大きな門に“いってらっしゃい”って書かれてあることに感動させられました。いってらっしゃいってことは、帰ってくる場所でもあるということじゃないですか。なんて温かいんだろうって思いましたね。これは、私にとって忘れられない「沖縄の先人たちの思いや苦労」、そして「生命力の強さ」を感じた経験でもあります。

画像:お話されている佐部さんの写真

なぜ沖縄の人は、表現を通して伝えることを大事にしてきたのだと思いますか?

もともと沖縄の踊りの起源は、「祈り」から始まったと言われています。これまで「平和でありますように」、「豊作になりますように」、「災害が来ませんように」と女性が手と手を合わせて「どうか幸せをもたらしてください、ウートートゥー」と祈っていた手に動きがつきました。幸せを自分の体に受け入れ、こねて、押す。この一連の動きは、今では祝い事で踊るカチャーシーになっています。そして祈る行為から、ふりや祈りの歌がでてきて、祭りで女性たちが円になって太鼓をたたきながら豊作を祈願する踊りの原型ができてきたんです。

沖縄は、歌のシマ、踊りのシマと言われるように、琉球から日本、米国、そして日本と移り変わってきました。そういった時代背景がある中で、「娯楽」、つまり表現を通して伝えることが、明日の人々の活力につながっていったのだと思います。沖縄の人の強く生き続ける思いを感じることがあるんです。芸能を生んできたものは、空の青さや海の冷たさ、緑のにおいや、暑さです。県内外の公演を通して、このような沖縄の風を伝えたいと思いながら演じてきました。これまでもこれからも、生まれ育った沖縄を愛し続けたいんです。

組踊には、男性が女性を演じる女形があるようですが、なぜそうする必要があるのですか?

踊りの起源は女性の祈りなのですが、首里城の宮廷芸能や古典芸能にあたる組踊は、国賓をおもてなしする国務として扱われていたんです。国の政治的なことは、男性が行う時代だったので、いろんな業務をこなしながら、中国から渡ってきた三線を嗜んだり、男性が踊ったりしていたらしいんです。そして、芸能を見せる行事が決まったら、飛び抜けて上手な人たちを集めて仕事の合間に演目を決めて稽古をしていくという背景がありました。男性のみしか舞えないからこそ、女形を作る必要があったんです。

その後、廃藩置県で琉球王国が沖縄県に代わっていく中で、国賓をおもてなしすることがなくなった演者たちが、芝居小屋を建てて県民に向けて踊りました。だんだんと組踊に庶民の感情や物語要素が強まって、女性も踊りに加わっていくことになるのですが、この女性の参加があったからこそ、戦後、組踊の男性役者不足の時を乗り切ることができ、今現在につながっている部分もあります。

画像:稽古をしている佐部さんの写真

佐辺さんが過去から未来へつないでいくものは何ですか?

踊りを続ける核に、人に喜んでもらいたいという気持ちと、師匠に近づきたいという思いがあって稽古をしています。でも、これまで琉球舞踊を学ぶにあたって、実技だけではなく、方言や歴史の勉強も行ってきて、最近では、踊りの時代背景やどのように伝統が紡がれてきたのかということをすごく意識するようになってきたんです。沖縄の辿った歴史を代表するのが、沖縄戦終結後すぐに行われたクリスマスの芸能大会だと感じています。

1945年のクリスマスの日に、捕虜収容所で人々を励ますために芝居役者を集めて芸能大会が催されたそうなんです。そこでは、とある組踊の作品が一つ披露されました。その物語は、地方に働きに出かけた夫と音信不通になり、妻が子どもを連れてうわさを辿って夫に会いに行き、親子の再会を果たすという作品です。当時、多くの人が戦争中に近しい人を亡くしていたため、お客さんのすすり泣く音が波のようだったそうです。そういった時代の思いが、自分のやっている芸能にはつながっているわけで、つらい時代に芸能を守ってきた先人、そして人々を喜ばせるためにも“思い”を絶やさずにつないでいきたいです。

琉球芸能の今後をどうしていきたいですか?

いま、沖縄の方言を話せる人が少なくなってきていることにすごく危機感を持っています。言葉の意味が分からないと、表現できないじゃないですか。私自身知らない世代なので、舞踊に携わるうえで勉強を始めましたが、おばあちゃんの方言だけは、今でも聞き取れません。

近年では、沖縄に国立劇場ができたことで、開演中は舞台のモニターに標準語を映し出して、沖縄の言葉が分からない人でも理解ができるようになりました。そのおかげで琉球舞踊を好きになってくれる子も出てきて、私たちの希望なんです。私の弟子に双子の高校生がいて、コンクールに向けて稽古をさせています。彼らは、自分の小さいころ以上にとても踊りに興味をもって取り組んでいて、僕でさえ知らないことに疑問を投げかけてくれることに頼りがいを感じているんです。

演者の人数をもっと増やしてくことが一番いいのですが、今のような琉球舞踊をする人口が少なくなっている状態でも、興味を持つ子たちが増えて、先人の意思を継いでいけるように育っていってほしいです。そうやって芸能をつなげていくのが、これからの僕の役目だと思っているので、まだまだ知らないことも勉強していきたいですね。

佐辺さん、ありがとうございました。

希望の光プロフィール

画像:佐部さんのアップの写真

佐辺 良和(39)

琉球舞踊 世舞流 良和の会 会主
沖縄芸能界屈指の若き女形として注目を集め、その第一線で多彩に活躍、沖縄の伝統芸能の魅力を国内外問わず次世代につなぐ活動を積極的に行っている。

取材を通して...

小さいころから、カチャーシーや村の豊年踊りを何となく文化の一つだからという認識で踊っていました。身近にあった地域の祈りの儀式や、踊りの行事、その一つ一つの意味や思いが、取材を進めていく中で全てつながっていく。そんな不思議な感覚に包まれる機会となりました。先人たちが後世に残した沖縄のエネルギーを強く感じる気がします。戦前に沖縄の人々が世界中に飛び立ってから、今でも確かに世界各地で沖縄の文化を継承し続けていることが取材を通して確認できたので、世界中にいる兄弟たちにいつか会いに行き、さらなる沖縄の歴史を紐解いていきたいです。このような機会をいただけましたことに感謝いたします。

沖縄ビジネス外語学院1年 金城 さくら