「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか

文春オンライン / 2019年12月22日 17時0分

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1930年のメーデーを報じた東京朝日新聞。川崎の事件は載っていない

――満洲侵略戦争を前にした弾圧・極左妄動・スパイ共に対する血みどろの闘争。名も知れず倒れし人々の偉業に捧げる一篇の悲話――

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「『武装メーデー』事件」( 解説 を読む)

労働者農民をとわず、全国各地で血みどろの闘争

 昭和4年10月、アメリカにはじまった恐慌のあおりをくって、日本も同年秋からひどい恐慌にみまわれた。世界的には、大国間の矛盾と対立が激化し、戦争のいぶきがきこえ、国内では、金解禁・緊縮政策・物価引下げなどが強行されはじめていた正にその時である。大資本家は、恐慌からのがれるために、その全負担を勤労大衆と中・小企業におしつけようとした。それは戦争への道でもあった。このため、首切り・賃下げ・労働強化・操短・工場閉鎖などの合理化政策が、あらゆる産業で強行された。労働者は、生活を守るために激しく闘わざるをえず、日本の歴史上はじめてといえるほどの大争議が各地におこった。

 その頃の大争議の典型ともいうべき東京市電、ゼネラル・モータース、東洋モス、芝浦製作所、鐘紡、星製薬などは、生活の破綻に自然発生的に行動にたった労働者が、気狂いじみた暴力団を手先にした資本家と野蛮きわまりなき警察の弾圧に抗して、余儀なく、いろいろな形での実力的闘争に移ったものだ。飢餓にひんした数百万の失業者をはじめ、労働者農民をとわず、全国各地で血みどろの闘争がくりひろげられていた。

 このような情勢を前にして、田中清玄、佐野博らが中心になっていた共産党は、どんな方針をもっていたか? 当時、党の責任者だった田中は、戦後、「川崎のメーデー暴動とか、議会焼打ちとか、和歌の浦事件」など、武力的行動のあった事実をみとめている。だが彼は当時の武装行動を、全体として、党の自衛のためのものだと強調する。すなわち「私は佐野、鍋山、渡辺政之輔さんの与えた指令通りにやったわけです。『党は自己防衛しろ』『党は自己自身を武装防衛しろ』その通りやりました」(「座談」誌25年正月号)と。

「自己防衛」の域をはるかにこえた極左冒険主義

 被は、従来の党の方針が、武装蜂起や武装自衛団をみとめていた事実(「赤旗」3、4、15、16、22、27号等々)や、彼以前の党指導部の一部が自衛のために武器を用意した事例(「中央公論」昨年7月号、徳田健次「検察陣よ悪しからず」参照)、ある場合、武器が使用された事実(例えば3年10月7日、渡政が台湾基隆で自己防衛のためピストルをもって特高に抵抗し、12月8日、三田村が浅草で特高を射って逃走したような)を一面的に強調したいのだろう。

 だが実際に彼らのとった方針と指導は、武装問題に対する党と共産主義者の原則的態度をはずれ、また党中央部員の「自己防衛」の域をはるかにこえ、極左冒険主義の一典型となっていたのである。

 これよりさきの4年初頭、党中央はすでに党の孤立化に気がつき、その是正のための努力をはじめていた(「赤旗」25号「党孤立化の問題について」その他)。四・一六の大検挙で、市川正一その他の経験ある指導者をうばわれ、田中と佐野、前納善四郎が中心ではあったが、佐藤秀一(旧評議会関東出版出身。四・一六後、前記三名と党再建活動をし、諸方針上意見を異にしたのを理由に排除される。後日、南巌や私などと共に全協刷新同盟をつくる。5年検挙。出獄後、私と共に党再建運動中検挙され獄死す)ついで山本忠平(アナ出身、三・一五前後より党に接近。四・一六後、江東地区委員、東京地方委員を経、11月中央委員会に出席、同21日渋谷で検挙。6年8月市ヶ谷刑務所で「怪死」す)らを指導部にもっていた頃の「赤旗」は比較的正しい方針をうちだしていた(28293031号等)。

二・二四事件の全国一斉検挙で、300名が検挙

 しかし、一方では山本忠平を失い、他方では誓察の猛烈な追究に、関東各地を転々した党中央が、関西に移動した後、ことに5年1月中旬、和歌山県二里ヶ浜で、全員ピストル武装で中央部の会議を開いた時以後、この極左的な傾向はまたつよまった。

 2月12日、すでに警察側が網をはっていた大阪各所に、武装ビラまき隊があらわれて続々と検挙された。23日夜、新和歌の浦で、小宮山英子、加藤定吉らは、逮捕にきた警官にピストルで抵抗して2名を負傷させ、同日東京渋谷の代宮山、28日には豊島区の長崎町でも同様の事件がおこった。4月1日、赤坂ボントンでの検挙の際、佐野博は誤って自分の足を射ち、28日、市電新宿自動車出張所前で、31日には牛込の秀英舎印刷工場前石川島造船所前などで、武装行動隊は警官と闘い、これを殺傷した。

 この間に、総選挙直後、いわゆる二・二四事件の全国一斉検挙で、300名が検挙された。これがいっそう極左的傾向をつよめていった。だから、佐野博ら検挙のあとをうけて中央部ができ、これにソ同盟から帰国した今本文吉や上萩原景雄ついで岩尾家定らも加わり、極左的武装行動を批判しはじめたのだが、それはまだ力をもたなかった。しかも第二無産者新聞(「無新」)、無産青年(「無青」)、共産主義青年同盟(「共青」)、日本反帝同盟(「反帝」)、日本労働組合全国協議会(「全協」)、労働新聞(「労新」)等々内の党員に対する党の指導はきれがちであり、徹底もしなかった。おまけに、岩尾らの登場は時期おくれで、大勢は滔々として武装行動の方に流れていったのであった。

 当時、私は、オルグに行っていた岡山から地方の革命運動の実状をつぶさにみて帰京し芝浦で道路人夫をしながら、出身組合=関東自由労働者組合(「関自」)の指導に参加していた。また鹿地亘の紹介で、東京西部の牛乳配達夫の組織者関根徳衛門、新聞配達夫の組織者島田らと協力し、関東畜産労働組合(「関畜」)の組織や、全産業労働組合会議(「全産」)内反対派結成に協力していた。さらに、4年末の東京市電大争議の応援組織に参加したのをキッカケに、東京交通労働組合(「東交」)内反対派結成を助けていた。そして、当時全体を支配しはじめていた極左的方針には、簡単に賛成しえなかった。

「邪魔立てする会社の奴や警官を武装デモで突破するのだ」

 当時、全協系組合の中で、大きな動員力をもっていたのは関自だけだった。また関自は党の武装行動隊を一番多くだしただけでなく職場でいろいろの暴力団と大衆的な衝突をくりかえしていた。従ってその書記長としての私は、自衛・武装問題で一番頭を悩ませた。そして、当時の滔々たる極左的な「武装闘争」の傾向に抵抗し、これを組織化する意図をもふくめて、「自衛団組織方針書」(「産業労働時報」所載)を起草し、組合執行部に採択させた。これは、大衆闘争から浮きあがり、逆にその展開を邪魔する一切の傾向、とくに、あやまった「武装闘争」と決定的に闘う肚をきめさせた。

 こうした空気の中にでた、長文の全協中央部の、メーデー闘争方針書は、当時の情勢を、直接的革命的情勢と規定し、明白に「武装蜂起せよ」と指令していた。また、無青は「党の指導でメーデーにはドイツのメーデーのように市街戦になるかもしれない」(3月16日付)とかき、反帝同盟のメーデー方針書も「ハンマーでも棒切れでも武器だ。メーデー参加を邪魔立てする会社の奴や警官を武装デモで突破するのだ」とかいたように、「武装デモ・武装行動」や「決定的闘争」が各方面で叫ばれ、さては「武装蜂起」が方針とされたのだった。

武装蜂起を事実上否認するメーデー闘争方針書

 とにかく私は、全協の武装蜂起の指令がどうしても納得できず、当時いっしょに深川水道局現場で働いていた溝上弥久馬委員長はじめ、他の執行委員を説得し、組合としては、情勢の特徴を経済恐慌と規定し、大衆行動を強調し、武装蜂起を事実上否認するメーデー闘争方針書を採用した(「産業労働時報」所載)。

 あとになってみれば、「武装蜂起」の方針は田中・佐野博らの「極左的小ブル革命主義」(6年5月20日の共産党中央委員会「檄」)を土壌とし、全協中央に潜入した「スパイ西山(神谷敏郎)」のまいた種だといえるかもしれない。後に西山がスパイだと暴露された時、全協は激怒して「スパイ神谷に赤旗死刑を宣告する」と声明した。しかし当時、武装蜂起の方針はスパイの方針としてでなく、全協中央部の公式指令としてきたものであった。

 スパイ西山を頭にいただく全協中央部は、党中央が和歌山会議で決定したヨリ健全な方針に反して、産業別組合なるものを機械的につくり、改良主義組合内の反対派を否認して全協分会を設け、全協加盟組合の地方協議会の結成を禁じていた。また、合法メーデーへの参加をも否認し、4月13日にひらかれたメーデー準備関東労働組合会議に、全協代表溝上、関自代表神山その他が出席したのを批難し、以後の出席を禁じてきた。

奴等の武装には労働者の武装で答えろ

 最初指令としてでた「武装蜂起」の方針を、私たちは形式上一応うちやぶったわけだが、けれども、東京市電、鐘紡を頂点とする闘争の高まりに応じ、ちがった形での武装闘争が強調されはじめた。たとえば鐘紡争議に際し、ストライキ指導権を武装で奪取するというので「加盟組合に行動隊を作って集れ」と指令した。私はこれにも頑強に反対したが、討論の末、執行委員歌川伸(鳥取の産。兵役を忌避し海外を転々して帰国。アナ系江東自由労組の責任者。汎太平洋労働組合会議に参加。後、全協加盟東京自由委員長を経て関自執行委員。戦時中党再建運動に参加し獄死)を隊長とする行動隊をだした。

 ところがその担任者から、キリとトンガラシとビラを渡され「諸君身をもってやってくれ給え」とだけ命ぜられた。おとなしい、だが百戦錬磨の歌川はトボけて、百も承知の「東京工場はどこにあるか」、「どうしてはいるのか」ときいた。それに対して、まるで自分の子供位の担任者が「そんなことをきく奴は日和見主義者だ。ビラをまけ、奴らがきたら身をもってトンガラシで目ツブシをくわせ、キリでどてっ腹に穴をあけろ」とこたえた。歌川は苦笑し、キリとトンガラシを隅田川になげこみ、ビラだけはまいてかえってきた。

 また東京市電ストの際、無新は「武装自衛団を組織してスキャップ共に徹底的な赤色テロを加えると同時に電力の輸送路を破壊し、電車自動車の運転機械をブチこわすこと」(4月24日付)を煽動した。事実、ダラ幹暗殺車庫焼打、電線破壊の行動隊が組織された。これをみて、「全員の武装」を主張してきた無新は「勇敢な行動隊員は追跡のスパイをドス、鉄棒でやっつけ、二名は瀕死の重傷でウンウン呻っているぞ。震え上った警視庁は今後密行スパイにピストルをもたすことになった。奴等の武装には労働者の武装で答えろ」(5月7日付)とかく有様であった。

労働者がギリギリの生活を守るため

 こうした一般の空気のため、関自執行部にはいろいろの形で、メーデー武装闘争案がもちこまれた。全国的武装蜂起の方針はすでに否認されていたが、竹槍や棍棒や短刀などによる全員総武装の決死デモだ、という案がいつもでていた。本郷壱岐坂付近のシンパの家その他で開いた秘密の執行委員会で、いつもいつも武装闘争を強調したのは、7年9月、党が警視庁のスパイとして除名し、断罪した(いわゆる荏原事件)平安名常孝であった。

 彼は、無新や無青の論文を根拠に、「今日の日本は武装蜂起の情勢、少くとも暴動=武装行動の時期だ」と強調した。

 私は、「今日の情勢は蜂起の情勢、すなわち客観的革命的情勢ではない。武装蜂起のためには、第一に下層の大衆の圧倒的部分が死を決して生活防衛のために闘う決意をもつだけでなく、第二に支配階級が、この下からの圧力におされ、分裂し、動揺して政治する能力を失うような条件すなわち『国民的危機』が存在しなくてはならぬ。その上に第三。小ブルジョアジーの中に動揺がおこると同時に、労働者階級の前衛分子の間で、断固とした闘争決意と準備の存在が不可欠である。

 ところが日本の今日の闘争の特徴をみればわかるように、たしかに日本の歴史上始めての高揚を示してはいるが、その数も量も少く、要求は首切と合理化に反対し、最低生活の保証を求めるものが圧倒的だ。闘争が長期にわたったり、闘争形態が鋭くなっているのは、労働者がギリギリの生活を守るためと、敵の弾圧が強いために余儀なくおこっていることだ。今必要なのは、蜂起や武装行動を組織することでなく、あくまで大衆的な下からの闘争を組織することだ」と反対した。

 すると平安名は「貴様は日和見主義者だ。卑怯者だ。武器をとるのがこわいのか」と罵った。私は「貴様は馬鹿だ。武装蜂起の不可欠条件に関するレーニンの教えを知らない大馬鹿野郎だ」とどなりかえした。

武装メーデーの最も頑強な反対者が総隊長に

 蜂起の話がまずくなると、彼は、4年のメーデーにデモを禁止されたベルリンの労働者が、武器をもって闘った事実などを引合いにだして、日本でも全協の参加が禁じられたのだから武装行動に入るべきだ、といった。私は私で、ベルリン・メーデー事件の際、ドイツ共産党がこれを組織化し、たくみにこれを収束した事実、さらに、竹槍や短刀や棍棒なんてものでの「武装」さわぎは、子供の兵隊ゴッコにも劣り、ただ敵の挑発を助けるだけだとわたりあい、二、三度はつかみあいになったほどだった。

 ところが、他の執行委員の多くは完全に沈黙を守り、溝上は動揺をくりかえした。そのあらわれは、デモの目標が、はじめの東京市役所から、鐘紡東京工場へ変り、メーデー前夜に再び市役所へと変ったこと、デモの方法が、最初は、みな独自の武装デモだったのが、最後には合法メーデーに実力で参加し、これをひきいていくという風に変ったところにみられる。

 そのいずれの場合にしても、結局は「これは上部の決定だから……」と、溝上がはじめに提案したものをおしつけてきた。私は、「決定なら決定でよろしい。それではすぐ、その具体化を相談しよう」とこたえると、かえって溝上があわてて、沈黙組の執行委員などといっしょに「まあ、まあ」と止めにかかる始末であった。

 こんないきさつの上、武装メーデーの最も頑強な反対者であった私が、関自系行動隊の隊長に任命されただけでなく、当日の全行動隊の総隊長を命ぜられたのであった。 第11回メーデーの日は晴れていた。私は公私両面にわたる遺言を、留守部隊の関根に托し、10年以上――死刑までの覚悟をきめて淀橋のアジトをで、はじめの作戦根拠地にしていた愛宕山裏の墓地におもむいた。

5000名の警官を配備した空前の警戒体制

 そこで私はまず、芝公園に集った50団体、約1万5000の労働者の空気、式典の進行状況について逐一報告を受けた。昨4年のメーデーに、関自の責任者として参加し、集合地芝公園における纐纈特高課長殴打事件や解散地越中島での渦巻デモに味を占めたわけではないが、今年も全協系組合を全部合法メーデーに参加させ、内部からこれを戦闘化すべきだと考え、関東地方組合会議に参加したのだった。ところが警視庁の禁止にあい、これへの抗議を組織中に上から参加禁止命令をくった。しかも、上は当初の独自武装デモの方針をあらため、急に、芝口で合法メーデーに合流し、これを市役所へ導く、と改めてきたのだった。

 また、敵の警戒状況もわかってきた。敵は芝公園はじめ、解散地上野公園および一里半にわたる沿道に、70署から動員した5000名の警官を配備し、特高の私服は特別警戒隊を組織して移動的に警戒している。これではメーデー参加者3人に1人の割合で、実に空前の警戒体制である。しかも、配備の重点は芝口にあり、昭和通りから銀座に通じる裏通りは、とくに厳重に警備され、これを突破することは、どの地点からにせよ極度に困難とみられた。

 この方面には機関銃が配備されている、という噂も伝わってきた。それは明らかに内外呼応しての挑発体制であった。

 やがて、合法メーデーは出発しはじめたこと、そして、すぐ検束がはじまったことなどをきき、私も山をおりて宇田川町附近の電車道にで、行進隊のくるのをみた。先頭は組合同盟でいつものようにガッシリと腕をくんだ四列縦隊である。その前方も、両側面も中間も、アゴヒモをかけ、ゲートルを巻いた警官隊がとりまいている。例年とはちがった厳重さだ。それでも、検束覚悟ででてきた労働者の歌声は高く、闘志はわきかえっていた。

 ついで、沢山の見物人ややじ馬も加わり異常な緊張につつまれた芝口の街頭で、各行動隊長とあい、これを統括した。その時になって、動員目標が、市役所から議会に変更されたこと、詳細は上から直接私に指示されるということをきいた。私は呆れながらも、その指示をまった。合法メーデーの行列は、きめられた道順どおり、すぐ芝口にきてしまった。仕方がないので、各行動隊の隊長といっしょに歩道の見物人にまじり、ブラリブラリと三原橋の方に歩きはじめた。そのあとをおうように、当時3000といわれた行動隊が両側の歩道や裏通りに分散しながらついてくる有様は異様であった。

隊長としては受けるわけにはいかぬ

 自然芝口あたりから、各所で小ぜりあいがはじまり、若干の検束者もでた。この間自分でたしかめたことと、その後の報告を総合して、警察側が、市役所に対するデモよりも、議会に対するデモに対して、万全の対策と配備をしていることが判断された。そこに上から私をよびにきた。

 江戸橋に近い横町の小さな喫茶店で、私は上の男にあった。見知らぬ小柄なその男は、いきなり

「総隊長は、三原橋で全行動隊をひきい、竹槍をもって合法デモにわりこみ、東京交通労働組合員の先頭にたち、全員で議会を襲撃し、ガソリンとボロでこれに放火すること」といいわたした。

 あまりのことに腹もたたなかった私は、

「竹槍やガソリンはどこにある?」ときいた。相手は

「竹槍は杉並の馬橋、ガソリンとボロは渋谷の山谷に用意してある。それをもってくる自動車代金はこれ」といって5円札を一枚だした。私はまたきいた

「君は合法デモが今どこにきており、東交が三原橋に着くのはいつ頃か知っているか?」と。彼は

「知らない」と答えた。さらに私は

「かりにすぐトラックを手にいれたとして、ここから馬橋と山谷にいって、それらの物件をここまでもってくるのに何分かかると思うか?」ときいた。相手は、またしても

「知らない」と答えた。私はいった。

「デモの先頭はもう三原橋をこえている。中堅の東交が三原橋にかかるのは、30分位あとのことだ。ところで、馬橋と山谷から品物をもってくるのは、いくら早くても1時間はかかる。だから君のもってきた指令は実行不可能だ。行動隊長としては受けるわけにはいかぬ」と。

「できないことは、できないよ」

 すると男は顔色をかえ「君が武装メーデーに反対していることはきいていた。君は今になって、その反対の立場から、この命令の実行をサボルのか?」と詰問的にいった。私は「武装メーデーに反対したことは、今でも正しいと思っている。だがそれが上部の決定だというので、組合執行部としても、それを承認し、僕は命ぜられるままに行動隊長となった。僕は今、君と論争しているのではなく、君のもってきた命令が実行できないと、隊長の立場からのべているたけだ」と答えた。

 すると男は

「この命令は、全協中央部の決定であり命令だ」といった。私は静かに

「できないことは、できないよ」と答えた。途端に相手は威丈高になり

「これは同時に党中央の命令だ!」と叱りつけるような口調でいった。私は

「党のことについて、今君といいあう必要はない。要は、君のもってきた命令は、時間の関係上できないというにつきる。その命令は、党にだって、神様にだってできないことだよ」と答えた。

「では、君が命令を実行しない、ということを上部に報告してもよいのだね」と相手はいった。私は

「結構だとも。僕はすぐ街頭で行動隊長会議を開き、君の命令と僕の反対した趣旨を報告する。その結果、皆がそれでもやろうといえば何でもやる、皆が僕の意見を支持すれば、即時、行動はうちきる。その旨あわせて報告してくれ給え」と答えた。

 5分ばかりのこのやりとりで、メーデーデモに対する話は終った。そのあと彼は、党のビラまき隊――三乃至五隊の編成と派遣をもとめ、その自動車賃として例の5円札を私におしつけて去った。私はすぐ昭和通りにとって返し、街頭で歌川・堀口・大沼渉をふくむ隊長会議を開いた。会議は全員一致で私の報告を承認し、当日の行動をうちきる旨を決定し、同時にビラまき隊三隊を編成し、指定の場所に派遣した。

命令に反して、武装メーデーをやらなかった。野郎殺してやる!

 この決定と、それにもとづく解散命令が通達された時、一部の人は、詳しい事情を知らないままに、声をしのんで口惜し泣きをし、他の人々は、ホッとしたような顔つきをしていた。そのどちらの場合にしても、はりつめた気のゆるみからがっかりし、やがて一部の人が深刻な敗北感にとらわれたことは事実である。

 私は今も、その夕方、芝の組合事務所でみた寺田貢(現共産党中央指導部付)のむくれ返った顔を忘れえない。また、こうした方向喪失と敗北感の中に、自殺し去った猪古勝太郎(熊本の産。アナ出身、後に関自に入る。労農同盟にも参加。党の協力者)の面影をも忘れない。

 余談だが、馬橋、山谷の武器製造所は、この朝襲撃され、私達の同僚笹森らが、すでに検挙されてしまっていたのである。

 1日の夕方、私は、かつて関自におり、当時、共青の仕事をしているといわれていた山善こと山田善右衛門が

「神山の野郎は太い野郎だ。川崎の労働者は、党全協の命令に従って武装メーデーをやったのに、神山の野郎は、党と全協の命令に反して、武装メーデーをやらなかった。野郎殺してやる!」といって短刀をもち歩いているという話をきいた。

 私はこの話をきいた時、その日のことについての情報としてはあまりに早いので驚き、かつ不審をいだいたが、表面笑ってきき流した(あとで山善がスパイだったことが判った)。

官憲の弾圧と挑発をすべてかくし、全関係者に重罪を課した

 事実その日、川崎では大事件がおこっていた。全協のメーデー参加禁止に憤激した日本化学労組日本石油分会の阿部作蔵らは、鶴見署襲撃を企て、はやくから武器を集めていた。

 ところが当日、東京からきた「委員長」の指示で、当日の官許メーデーに突入し、これをひきいて鶴見署をおそう計画に変更したのだ。今その詳しいことははぶくが、その計画もやり口も、東京の場合とそっくりである。これをそのままうけとった人々は、各自ピストル・日本刀・メーデー旗、竹槍などで武装し、メーデー行進のあとを追って鶴見から川崎にはいり、メーデー会場に突入、「第一警戒線を突破し演壇近くまで進んだが発見され、官犬ダラ幹と大格闘をやり」(5月7日付「第二無新」)多数の負傷者をだしたのである。そして関係者は検挙された。

 翌6年8月25日の東京控訴院の公判廷で、土井喜久雄は、武装デモはどこまでも官憲の暴圧に対する防禦だと強調した。また当時、全協幹部として東京から行動隊をひきいていった程島武夫は、武装デモの本質について

「消極的な正当防衛的な意味を有するに過ぎぬ」とのべた。しかし敵は、官憲の弾圧と挑発をすべておしかくし、阿部の懲役15年をはじめ全関係者に重罪を課したのであった。

 この武装メーデーに対する批判の先頭は、関自が5月10日に公表した「敗北の教訓に学べ」(「産業労働時報」所載)であった。ついで共産党内で自己批判がはじまった。これにもとづき5月29日の労新は「最近に現われたる全協の極左的傾向と戦え」、31日の無青は「我同盟の極左的傾向と戦え」、6月11日の無新は神田徹夫署名の「ボルシェビキ党の再建と極左的傾向に対する闘争の急務」をかかげた。

 これは、大衆獲得の任務は「無青が考えているように少数の武装した自衛団や『武装の問題』によって解決されるのでなく、更に全協の考えていたようにメーデーに於ける赤色組合除外の葬式行列が数人乃至十数人の武装した決死隊の参加によって革命化し得るものでは断じてない」とし、個人的武装行動を痛烈に批判し、これを最も危険な極左的傾向だと断じていた。

 この批判は一般的にみると当っていたが、すべてを無新・無青・全協の責任に帰してそれへの批判の形をとり、また、個人署名ですまして党の正式の自己批判の形をとらなかった点などに弱味をもっていた。

『武装デモ』という方針は実に大きな極左的誤謬であった

 また、同年8月のプロフィンテルンの決議「日本に於ける革命的労働組合運動の任務」は、極左主義、とくに武装デモ・工場破壊の方針などを批判し、「武装ストライキのスローガンを掲げ、メーデー準備の組織的公式を考え出した同志達を一時指導的仕事から止めさせなければならぬ」とさえいった。

 その後1年。赤旗44号にのった「一九三一年度メーデーの教訓」は、冒頭に「一九三〇年のメーデーに際し、吾々は『武装デモ』という方針をとった。それは実に大きな極左的誤謬であった。労働者大衆の現実的要求を敏感に取り上げて、そのこととメーデーの国際的意義とを緊密なる結びつけによって大衆を街頭の示威運動へ動員するということの代りに、少数の革命的労働者の大衆の気持とは全くかけ離れたところの英雄的行動によって、武装によって、大衆を指導せんとした。吾々はこの誤れる方針の結果、有能の闘士を牢獄に送るという失敗を得た」云々と、ややまともな自己批判をした。

 だが、これらの批判や自己批判は、なかなか末端まで浸透しなかった。しかも当時全体の政治方針は、7月に「政治テーゼ草案」の形で全貌をあらわしたように、日本の革命はすぐ社会主義革命をめざす、という極左的なものだった。従って極左的戦術(高津電鉄事件、京都の刑務所襲撃事件のような)は生きながらえ、6年のメーデーには、独自の「強力示威」や「合法メーデー粉砕」の線がでたり、少数精鋭主義の分散デモ戦術や、また個人的なテロ行為もあとをたたなかった。

スパイ群を動員して、挑発政策を強行

 すでにみたように、昭和5年武装メーデーの場合、田中、佐野の方針がもつ極左冒険主義を利用し、その上にたってスパイ西山らが全協を指導し、全体を動かしていったのであった。これと似たことは、その後もつづいておこった。たとえば、党の方針に反し、その指導を拒否し、7年3月の東京地下鉄ストライキを孤立化させ、同年メーデーに尚も「独自」デモの方針を強行しようとしたのは、スパイ松原こと宮上則武や平安名常孝らであった。

 また5月3日夜、岩手県気仙郡の鉄道工事飯場で、日本土建労働組合常任康有鴻他3人が暴力団の手で虐殺された時、極左妄動的方針を強制して曹今同(光州学生事件に参加し芝浦で自由労働者となり関自に入る。戦時中党再建運動に参加し獄死す)はじめ、積極的分子を死地においこもうとしたのは、後日、村上多喜雄に射殺された日本土建委員長尹基姜であった。

 同年夏、日本共産党は、従来の社会主義革命の戦略を、強行的に社会主義革命に転化するブルジョア民主主義革命、という正しい戦略にあらため、天皇制に対する闘争方針をはっきりうちだした。これを恐れた支配階級は、弾圧を強化すると同時に、とっておきのスパイ群を動員して、憎むべき挑発政策を強行させた。その頂点ともいえるのが、10月6日の大森の銀行ギャング事件であった。

 これは、田中清玄時代から党中央に巣喰い、風間らによる再建後、中央委員として、国際・組織・軍事の各部長を歴任し、家屋資金局長だったフヨドロフあるいはM【エム】こと松村(本名は飯塚盈延とう現役憲兵将校だったといわれる)の計画と指示によるものであった。またこの当時、党中央にいた大泉兼藏や小畑達夫も、特高のスパイであった。さらに、片山潜の秘書格と自称した勝野金政その他がスパイ・裏切者であり、さらに、この時代の日本革命運動に絶大な影響を与えた山本懸蔵やクニサキ・テイドウらが、共に「奇怪な人物」であったことも後日歴史は明らかにしたのである。

「武装メーデー」という痛苦な歴史の一頁

 しかし、歴史はもっと重大な真実と真理を明らかにした。すなわち、日本人民は、支配階級のどんな弾圧・陰謀・挑発にも耐え、平和と生活安定と民主主義のために闘い進むこと、共産党は、日本人民のこの要求を実現し同時にこれを、その終局的解放と結びつけるために献身したこと、そして、共産党がマルクス・レーニン主義理論を正しく日本の現実に適用した時にだけ、人民との結合を強め、敵の弾圧と挑発をもうちくだき、その任務と目的を達成できるのであり、逆の場合は逆の結果をうむこと、等々を明らかにしたのである。

 日本共産党は、本日その33周年記念日を迎えた。

 今日なお、不幸にして一個の被除名者にとどまる私は「武装メーデー」という痛苦な歴史の一頁をここにふりかえってみて、今更のように、厳粛な歴史の教訓に胸をうたれながら、名もなく、ある場合、無実の罪をきながら死んでいった多くの人々、無名戦士の墓(正しくは「解放運動無名戦士の墓」。「女工哀史」の著者細井和喜蔵の基金により献立。青山墓地にあり、本年で合葬すること7回、合葬者2000名に近し)にさえ名を止めぬ、文字通りの無名戦士に終った同僚に、はるかに、やくような愛惜と尊敬の心をおくっているのである。

(7月15日夜)

戦前の武装共産党トップ「昭和のフィクサー・田中清玄」が生きた“転向の時代”とは へ続く

(神山 茂夫/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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