令和初の“年越し映画マラソン”は
「風と共に去りぬ」からスタート!

風と共に去りぬ【渡辺祥子のシネマ温故知新】

12月31日(火)[BSプレミアム]前8:58

プレミアムシネマ 年末年始の注目作品

2019年をしめくくる12月31日から2020年1月1日にかけてのBSプレミアム「年越し映画マラソン」は、31日の朝8時58分スタートの『風と共に去りぬ』に始まります。1939年製作、上映時間は3時間47分。日本では1941年に太平洋戦争が始まる少し前からアメリカ映画は輸入禁止、そのため1952年9月4日になってやっと公開された、という過去を持つ。当時のロードショウ館の入場料は80円だったが、600円の特別席も飛ぶように売れたほど多くの映画ファンが待ちかねた公開だった。

映画の原作になったマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』が出版されたのは1936年6月。その年のうちに100万部が売れて大ベストセラーになったが、独立プロデューサーのデビッド・O・セルズニックが映画化権を購入したのはまだ書店に並ぶ前だったと言われ、当時としても安い5万ドルだった。その年のうちに脚本が出来上がり、脚本担当としてシドニー・ハワードの名が記されているが、実際にこの脚本に関わったのは18人。中にはジョン・ヴァン・ドルーテン、ベン・ヘクト、F・スコット・フィッツジェラルドなどがいる。

問題はキャスティングで、セルズニックが最初に考えたのはレット・バトラー役にクラーク・ゲーブルだった。しかし、ゲーブルはMGM映画の看板スター。独立プロデューサーのセルズニックはユナイテッド・アーティスツ(ユナイト映画)と契約していた。そこで公開をユナイトと契約の切れる1939年まで待ち、一方でMGM映画と配給契約を結んで、ゲーブルの出演を承諾させた。この間に出演者を次々と決めていったが問題はヒロインのスカーレット・オハラ役を誰にするか、だった。映画化権を買ってすぐにスカーレット探しが始まり、2年4か月間に面接、オーディションをした女優は1400人にのぼる。1938年にはもう待ちきれなくなってスカーレット抜きで撮影が始まったのだが、映画のハイライトシーンの1つになるアトランタの街の炎上シーンの撮影が行われた1938年12月10日、セルズニックは燃え盛る炎の向こうにスカーレット・オハラを見た。それがセルズニックの兄マイロンの連れてきた英国女優ビビアン・リーだった、というのはウソのようなホントの話だ。

彼女が正式に決まって1939年1月26日から本格的に撮影が始まった。監督は女性映画に定評のあるジョージ・キューカー。ところが、彼のことが気に入らなかったクラーク・ゲーブルは、自分と何度か一緒に仕事をして気心の知れたビクター・フレミングを連れて来て交代させたがうまくいかなかった。最終的にクレジットされたのはサム・ウッドなのだが、この間、ビビアンとメラニー役のオリビア・デ・ハビランドは、秘かにキューカーを訪ねて演技の相談をしていた、とオリビアがのちに自伝に書いている。

こうして完成した『風と共に去りぬ』は1939年12月15日にアトランタで披露試写。翌春のアカデミー賞では作品賞を含む9部門で受賞したが、主演男優賞にクラーク・ゲーブルの名がなくてセルズニックは激怒した。このエピソードを聞くと11部門受賞の『タイタニック』(1997)でノミネートすらされなかった主演のレオナルド・ディカプリオを思い出す。

【放送日時】
年越し映画マラソン「風と共に去りぬ」
12月31日(火)[BSプレミアム]前8:58〜後0:45

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渡辺祥子

【コラム執筆者】渡辺祥子(わたなべ・さちこ)さん

共立女子大学文芸学部にて映画を中心とした芸術を専攻。卒業後は「映画ストーリー」編集部を経て、映画ライターに。現在フリーの映画評論家として、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ等で活躍。映画関係者のインタビュー、取材なども多い。また映画にとどまらずブロードウェイの舞台やバレエなどにも造詣が深い。著書に「食欲的映画生活術」、「ハリウッド・スキャンダル」(共著)、「スクリーンの悪女」(監修)、「映画とたべもの」ほか。

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