中国4000年のおそろしさ――不気味な隣人の素顔 | 再生日本21


中国4000年のおそろしさ――不気味な隣人の素顔

中国4000年の“抗争と断絶”の歴史

 よく「中国4000年の歴史」という。しかしこの4000年の歴史は、実は繰り返される断絶の歴史、もっと言えば血で血を洗う抗争の歴史といってもよいくらいだ。
 それを象徴する言葉が「易姓革命」である。易姓革命とは、天下を治める者は、その時代に最も徳がある人物がふさわしい。天が徳を失った王朝に見切りをつけた時、革命が起きるという中国の伝統的な政治思想である。天や徳といった言葉が使われているが、実のところは新王朝が史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆を強調する。それを正当化する理論として機能していたのが易姓革命の思想なのだ。そのため中国の歴史は、決して誇張ではなく血で血を洗う抗争に次ぐ抗争であり、4000年の歴史と言っても私たち日本人がイメージしているような悠久の歴史では全くない。江戸時代の儒学者であり、軍学者であった山鹿素行はその著『中朝事実』においてその点を指摘し、「中国では易姓革命によって家臣が君主を弑することがしょっちゅう起こっている。中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ中朝(中華)である」と主張した。素行も説いた中国の抗争と断絶の歴史をさかのぼりながら見ていこう。

清朝は漢族ではなく満州族の王朝

 例えば、今の中華人民共和国の前は、中華民国。その前は清。ここまでは誰もが知っているだろうが、この清朝はいわゆる「中国人」の主流派である漢族の王朝ではない。北方の満州族が打ち立てた王朝なのだ。前述した素行はこの点についてもきちんと指摘していた。この満州族が中国を支配していた清の時代に持ちこんだものの中には、今私たちが中国の伝統的なものと誤解しているものも少なくない。例えばチャイナドレスがそうだ。チャイナドレスは丈の長い詰め襟の衣服だが、あれは元々北方に住む満州族の防風防寒のための衣服だったのだ。
 実はこの満州族の王朝である清朝により、「中国」は拡大してほぼ今の「中国」とイコールになった。それまではもっと狭い地域を指していたのだ。少し考えてみれば分かることだが、誰もが知っている世界遺産の万里の長城。あれは外敵の侵入を防ぐために造られたものなのだから、長城の向こう側は「中国」ではなかった。その「中国」ではない地域、満州において1616年に建国した後金(こうきん)国が清の前身である。後金国の首都は遼陽(りょうよう)から後に瀋陽(しんよう)(旧称奉天)に移されたが、つまり遼陽も瀋陽も当時は「中国」ではなかった、「中国」の外にあったのである。後金は1636年に国号を大清に改め、1644年に万里の長城を越えて北京に都を移す。こうして満州族の征服によって、満州から旧「中国」までを含む現「中国」が誕生したのである。

古代、「漢族」は存在しなかった

 清の前は、明。明の前は元。これくらいは多くの日本人が知っている。それより前になると、あやしくなる人が多いであろうが、さかのぼって見ていこう。北に金、南に宋の両王朝が併存していたのが、平清盛が日宋貿易を行なった時代である。さらにさかのぼると北宋の時代、五代十国時代となり、その前、6世紀後半から10世紀にかけてが、遣唐使・遣隋使で馴染みのある唐や隋の時代。その前は、南北朝時代、五胡十六国時代、そして『三国志』で名高い三国時代は220年頃から300年頃。その前は、漢字や漢族という言葉の元となる漢王朝で、始まりは紀元前206年にまでさかのぼる。漢は前漢と後漢に分けられるが、前漢を起こしたのが小説や漫画で知られている劉邦である。そして、前漢の前が始皇帝で名高い秦(しん)。東アジアの大陸部に「中国」と呼んでもいい政治的統一体が完成したのは、この秦の始皇帝による統一(紀元前221年)からだ。
 「中国4000年の歴史」と言われるが、まだ半分にしか達していない。秦の始皇帝による統一前、いわゆる先秦時代はどういう状態であったかと言うと、「中原(ちゅうげん)」と呼ばれる黄河中流域の平原地帯を巡って、諸族が争い攻防を繰り返していた。今、諸族と書いたが、読者は「諸族というのは漢族とその他の少数民族のこと?」と思ったかもしれない。そうではない。実は古代中国の時代には「漢族」などという種族は存在しなかったのだ。読者は「東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮・北狄(ほくてき)」という言葉を聞いたことがあるだろう。今、日本人に馴染みのあるのは「南蛮」くらいだが、元々は4つセットで「四夷」と呼ばれる。中国の周り、東西南北に住む野蛮人というような蔑称だ。中華思想を象徴する言葉だが、実は元々、中華に値するのは前述した黄河中流域の中原しかなかった。それ以外に住む種族は、例えば今の北京や上海に住んでいた種族もみな「夷・戎・蛮・狄」であったのである。そればかりではない。先秦時代の王朝として夏(か)・殷(いん)・周の三王朝が中原にあったが、夏は東南アジアの海洋民族(東夷)、殷は北の狩猟民族(北狄)、周は東北チベットの遊牧民(西戎)ではなかったかと言われているし、中国統一を成し遂げたした秦も西戎である。西戎のさらに西、ペルシャ系の遊牧民ではなかったかという説もある。いずれにしても、豊かな都市国家・中原を巡って、文字どおり諸族が入り乱れ、それによって誕生した混血雑種が漢族なのである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F

征服王朝のすさまじさ

 混血という意味では、日本人もそう言える。私たちも学生時代、日本史の授業において、帰化人、あるいは渡来人を学んだ。大陸から多くの血が入ってきているのは間違いない。ただ、日本人と漢族あるいは中国人とが決定的に違うのは、日本人の場合、渡来人は日本に融合していったのに対し、中国人の場合は前述した易姓革命により、抗争と征服を繰り返してきたという点だ。
 先に述べた清だけではない。読者もご存知のとおり、元寇で知られる元はモンゴル族の王朝であるし、燕京(現在の北京)に都を置いた金は女真族、後の満州族につながるツングース系言語を話す半農半猟の民であった。中国史における用語として、「征服王朝」という言葉があるが、これは漢族以外の民族によって支配された王朝のことを指す。清や元、金は征服王朝である。
 征服王朝のすさまじさの一例を挙げよう。1126年11月、金は宋(北宋)の首都・開封を陥れる。この年が靖康元年であったため、これを「靖康の変」と呼ぶ。金はおびただしい金銀財宝とともに、徽宗・欽宗以下の宋の皇族と官僚、数千人を捕らえて満州へ連行し、そこで生涯にわたって悲惨な虜囚生活を送らせた。そればかりではない。この事件で宋室の皇女達(4歳~28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族らの妾にされるか、洗衣院と呼ばれる官営売春施設に送られて娼婦とさせられたのである。
  「中国」どころではなく、東アジアから東ヨーロッパまでを支配した大征服王朝の元は、南宋を滅ぼした際、金が北宋に対して行なったようなむごたらしい行為は行なわなかったが、統治においては厳しい身分制度を敷いて徹底的に民族差別を行なった。民族をモンゴル人・色目人・漢人・南人に分け、中央政府の首脳部と地方行政機関の長はモンゴル人が独占した。色目人とは色々な目の色をした人の意味で、中央アジア・西アジア出身の異民族、さらにはヨーロッパ人も含む。早くから譜代関係にあったために、モンゴル人に次いで重用され、モンゴル人とともに支配階級を形成した。支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約200万人で、その人口構成比は約3%に過ぎなかった。漢人は、金の支配下にあった人々の総称で、淮河以北に居住していた宋代の漢人の子孫の他に、女真人・契丹人・高麗人・渤海人などが含まれ、人口は約1000万人、人口構成比は約14%であった。そして、一番下の階級である南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約6000万人、人口構成比は約83%を占めた。漢人・南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占める南人は最下層に置かれ徹底的に差別された。その決まりは細かく、例えばモンゴル人と漢人・南人が争ってモンゴル人が漢人・南人を殴っても、漢人・南人は殴り返してはいけないというような細かいことまで法で定められていた。また、同じ漢族でも、金の支配下にあったか南宋の支配下にあったかで差別しているが、これの基準は中国化しているかしていないかであり、徹底して中国式を抑圧した。私たち日本人からすると、元は遊牧民族が作った中国式王朝のようなイメージがあるが、実際には中国式の要素はほとんどなかった。ただ、「パスパ文字」という独自の文字とともに支配の都合上漢字も使っていたというだけなのだ。
 なお、余談になるがこのパスパ文字、ハングルとそっくりである。実は、ハングルは、元の属国であった高麗(朝鮮)王朝がモンゴル化し、その時伝わったパスパ文字が基礎となって、高麗王朝に代わった李氏朝鮮の時代に作られたと言われている。このパスパ文字起源説は韓国外の学界では広く受け入れられているが、韓国内では当然、圧倒的に非主流派である。しかし韓国内においても、きちんとした学究も一部ではなされている。例えば、国語学者のチョン・クァン高麗大名誉教授がそうだ。チョン・クァン名誉教授は、次のように述べ、韓国における国粋主義的研究を糺している。「訓民正音とハングルに関する国粋主義的な研究は、この文字の制定とその原理・動機の真相を糊塗してきたと言っても過言ではない」。
http://japanese.joins.com/article/430/107430.html

 尖閣はもちろん我が国固有の領土であるが、今、韓国が不法占拠している竹島も我が国固有の領土である。竹島は1952年のいわゆる「李承晩ライン」により、韓国に軍事的に侵略された領土なのである。第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域はマッカーサー・ラインによって大きく制限されたものであったが、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により、翌1952年4月28日の日本主権の回復後はこの制限の撤廃が予定されていた。ところが、日本の主権回復前の隙を韓国は狙ってきたのだ。1951年7月19日、韓国政府はサンフランシスコ講和条約草案を起草中の米国政府に対し要望書を提出し、竹島、波浪島を韓国領とすること、並びにマッカーサー・ラインの継続を要求した。これに対し、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」にて回答し、この韓国政府の要求を拒否した。「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約は調印されたが、講和条約発効の約3か月前の1952年1月18日、朝鮮戦争下の韓国政府は、突如としてマッカーサー・ラインに代わる李承晩ラインという軍事境界線の宣言を行った。1965年の日韓基本条約によってラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。このような国際法上違法であり、かつ非人道的侵略行為に対し、当時我が国政府のみならず米国も抗議しているが、米国は直接的な利害関係国ではないため積極的な介入は行なわず、それがために韓国による侵略が固定化されてしまったのである。
 国策として反日愛国を強く推進している韓国という国の中で、こういった事実は全く知られていない。反日愛国に沿った虚偽が真実として異常に強調される国なのである。そういう国にあって、もし真実を伝えようとすれば、袋叩きに遭うことは間違いないだろう。しかし、中には良心に忠実に真実に向き合おうとする人もいる。例えば、先に取り上げたハングル研究におけるチョン・クァン名誉教授などがそうである。韓国にも、あるいは中国にも少数ながら存在するそういう勇気ある真っ当な人たちの声を、私たち日本人はしっかり認識し、広めていくべきだろう。
 次は最後の征服王朝・清だ。1644年に都を北京に移した清は、中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争に打って出る。これがすさまじい。「屠城(とじょう)」と言って、「城内の全ての人間を屠殺する」のである。こう言うと、「日本でも珍しくないではないか」と思うかもしれないが、まるで違うのである。日本では籠城するのは武士であり、城下町はその外にある。だから、仮に城内の人間がすべて殺されたとしても、それは籠城している武士だけである。しかし、中国の場合、街全体が城壁で囲まれており、屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは1644年の「揚州屠城」であるが、当時揚州は既に人口100万人の大都市であった。その都市で大虐殺が実行された。かろうじて生き残った王秀楚という人物が、『揚州十日記』という記録を残している。「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、少しでも進まぬとただちに殴られ、あるいはその場で斬殺された。道路のあちこちに幼児が捨てられていた。子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた」。この記録によれば、屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも八十万人以上に達したという。

秦に見られる中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清

 征服王朝から、もう一度初めて中国を統一した秦に戻ろう。なぜなら、ここに中国史を貫く特徴が顕著に表れているからである。その特徴とは、思想弾圧、そして大量殺戮と粛清である。思想弾圧に関しては、今さら多言を要す必要はないだろう。秦の始皇帝は歴史に名高い「焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)」を行なった。焚書・坑儒とは、「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」の意味である。これは多くの人が知っているが、意外と知られていないのが秦の大量殺戮と内部粛清である。『史記』の『白起列伝』には、中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。例えば、紀元前293年、秦軍は韓と魏(ぎ)の連合軍を破るが、この時24万人を斬首している。その後も数万人レベルの斬首はざらで、最もすさまじかったのは紀元前260年の長平の戦いである。この時、秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した趙(ちょう)軍を降伏させるが、問題はその後である。45万の趙軍のうち戦闘中で命を落としたのは5万人。残りの40万人は捕虜となったが、秦の白起将軍によりこの40万人の捕虜ほぼ全員が生き埋めにされて処刑(坑殺)されたのである。
 次は粛清である。紀元前210年に始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。始皇帝の身辺の世話をしていた宦官・趙高(ちょうこう)と宰相・李斯(りし)は、まず始皇帝から後継指名を受けていた長男の扶蘇(ふそ)を自殺に追い込む。そして、次男の胡亥(こがい)を二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、趙高と李斯以外のグループの重臣を次々に殺戮。次いで胡亥の兄弟である12名の皇子を処刑し、10名の皇女を磔にした。ところが、次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは李斯であった。趙高は権力独占のために邪魔になった李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、皇帝の名において逮捕させる。そして例によって一族皆殺しである。これを「族誅(ぞくちゅう)」と言うが、族誅は中国史の伝統である。凄惨な粛清はさらに続く。趙高は、今度は二世皇帝・胡亥を自殺に追い込み、始皇帝の孫である子嬰(しえい)を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に趙高一族が子嬰によって誅殺されることになる。因果である。
 なお、秦は子嬰が即位した翌年、紀元前206年には滅びてしまうのであるが、滅ぼしたのが有名な項羽と劉邦である。この時、項羽がやったこともすさまじい。項羽は秦の首都・咸陽(かんよう)に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、子嬰が降伏して秦が滅亡した後、項羽は子嬰一族や官吏4千人を皆殺しにし、咸陽の美女財宝を略奪して、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。そして殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟としたのである。

項羽と劉邦の時代の漢族は滅びた

 力を合わせて秦を滅亡させた項羽と劉邦であったが、その直後から対立は始まり、楚漢戦争が勃発。紀元前202年の垓下(がいか)の戦いで劉邦は項羽をやぶり、漢(前漢)を建国する。残虐な項羽に比べて人格者のイメージの劉邦であるが、決してそうではない。きちんと中国史の伝統を受け継ぎ、天下を取った後は粛清の連続である。関ヶ原で天下を取った家康が功労のあった多くの武将に領地を与えたのと同じように、天下を取った劉邦も功労者に封土と王位を与えた。しかし、功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。楚(そ)王・韓信や梁(りょう)王・彭越(ほうえつ)ら天下統一に最も貢献した者たちは、謀反の疑いをかけられ、一族皆殺し、族誅された。 しかも、梁王・彭越は誅殺された後、塩漬けにされ、その肉は群臣に漏れなく配られた。「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである。劉邦は紀元前195年に亡くなるが、その時には王位についているのは、ほとんど劉氏一族の者ばかりとなっていた。
 高祖・劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。この呂后がまたすさまじい。まず、恵帝の有力なライバルであった高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王如意(にょい)とその生母・戚(せき)夫人を殺害した。この時の呂后の殺害の仕方は、猟奇的などという次元をはるかに超えている。呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人彘(人豚)と呼ばせたという。呂后は我が子である劉盈(恵帝)以外のほとんどの劉邦の息子を殺し、呂氏一族を要職に付け専横をほしいままにする。しかし、これまた因果は巡るで、呂后の死後、逆に呂氏一族は族誅される側に回り、皆殺しされるのである。
 漢はこの後、血気盛んに領土を拡大した武帝の時代などを経て、約200年でその時代を終える。帝室の外戚である王莽(おうもう)が、事実上国を乗っ取り、紀元8年「新」という王朝を建てる。しかし、この「新」王朝は、紀元17年に始まった反乱の全国的な拡大により、わずか15年でその幕を閉じる。
 さて、この「新」王朝建国の直前、紀元2年に中国史上で最初の人口統計が現れる。『漢書』の『地理誌』にある「口、五千九百五十九万四千九百七十八」という記述である。約6000万人である。ところが前述した全国的な戦乱と飢餓の結果、23年に「新」王朝が滅んだ時には中国の人口は6000万の半分に、さらに劉秀(後漢の光武帝)によって再統一される37年までに、さらに半減したと言われている。つまり、17年から37年までの20年間で、75%も人口が減り、約1500万人になったことになる。その後の後漢の人口統計に見れば、これはほぼ事実と考えられる。『続漢書』の『郡国史』によれば、人口は57年に約2100万人、75年に約3400万人、88年に約4300万人、105年に約5300万人と推移している。これから推計すれば、37年には1500万人くらいであったろう。
 戦乱と飢餓による人口の激減というのはどの国においてもあったことだが、とりわけ中国においては甚だしい。そして、戦乱・飢餓で人口が激減し衰微しきったところに、近隣の異民族が侵入してくる。それが我が国にはない中国史の特徴である(と言うより、我が国のように異民族による侵入がない方が世界に類例がないと言えるが)。「新」王朝期の人口激減は、中国史において数字が残されている最初のものである。
 37年に劉秀(後漢の光武帝)による天下統一で誕生した後漢であるが、長くは続かなかった。184年に黄巾の乱、五斗米道の乱と相次いで宗教秘密結社による反乱が起こり、それがきっかけとなって各地に群雄が乱立する天下大乱の時代に突入する。『三国志』の時代の到来である。『三国志』の時代と言うと、血沸き肉踊るイメージがあるかもしれないが、現実には戦乱が打ち続く歴史上稀に見る悲惨な時代であった。黄巾の乱後、正史の記録には、「白骨山のように積み」「人は共喰」「千里に人煙を見ず」といった記述が多い。当然、人口は再び激減した。先に見たように、後漢の時代、人口は5000万人を超えるところまで増えた。それが戦乱の三国時代にどこまで減ったのか。なんと約十分の一になったと言われてる。事実上、それまでの漢族は滅びたと言ってよい。
 なお、『三国志』とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争った三国時代の歴史を述べた歴史書であり、撰者は晋の陳寿である。それとは別に、歴史書『三国志』に逸話や創作を盛り込んだ小説『三国志演義』というのがあり、これは明代に成立している。私たちが横山光輝の漫画などで知っている『三国志』はこの『三国志演義』をベースにした物語である。
 三国時代という内戦時代の後、一時的に晋が中国を統一するがわずか20年で瓦解し、再び戦乱と分裂の時代に突入する。「五胡十六国時代」である。五胡とは、匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の五民族を意味し、十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づく表現で、実際の国の数は16を超えた。要するに、従来の漢族が内戦により自滅的に激減した状況下で、様々な民族が中国の中に入り乱れ、小国を建てる時代が到来したのである。「五胡十六国時代」は304年から439年まで続き、439年に至って従来の中華である中原から現在の北京を含む華北一帯を北魏(ほくぎ)が統一する。では、この北魏を打ち立てた民族は何だったのか。先の五胡の中の鮮卑。鮮卑とは北方の遊牧民である。それに対して、わずかに生き残った従来の漢族は南に逃れて王朝を建てた。そのためこの時代を中国における「南北朝時代」(439年~589年)と呼ぶ。南北朝時代に終止符を打ったのは隋による中国統一であるが、この隋も鮮卑による王朝であった。
  「五胡十六国時代」から隋の時代にかけて、中国語は大きく変質した。鮮卑は文字を持たなかったため、話していた言語がテュルク系であったかモンゴル系であったか、正確には分からない。ただ、アルタイ系言語(北東アジア・中央アジアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語)であったことはほぼ間違いない。隋の天下統一の直後、601年に鮮卑人の陸法言という人物が、『切韻』という字典を編纂する。これは漢字を発音別に分類し、漢字の発音の標準を定めようとしたものであるが、そこにはアルタイ系発音の特徴が随所に見られる。このことからも、この時代の中国人は、すでに始皇帝や劉邦の時代、秦・漢時代の中国人の子孫ではなかったことが分かる。
 なお、五胡十六国の諸国や北朝、あるいは隋・唐は、既に述べた清や元などと同じく異民族王朝であるが、明確な征服行為を欠くため「征服王朝」とは呼ばれず「浸透王朝」という用語で定義される。

繰り返された仏教の興隆と弾圧

 隋の時代は長く続かず、589年から618年まで。次いで唐の時代となるが、この唐も鮮卑の王朝である。ところで、隋・唐と言えば、遣隋使・遣唐使が思い浮かぶ読者も多いであろう。そして、遣隋使・遣唐使の大きな目的の一つが仏教を学ぶことにあったことは言うまでもない。隋の時代は日本では聖徳太子の時代と重なり、聖徳太子は四天王寺の建立や仏教興隆の詔を発した。また、唐の時代には、帰日する遣唐使とともに唐の高僧・鑑真が渡日し、唐招提寺を創建するなど、日本における仏教の興隆に大きな役割を果たしたし、空海や最澄も遣唐使として唐に渡り、仏教を学んでいる。これらのことは多くの日本人が知っている。では、仏教は中国の宗教なのだろうか? 少し考えればそうではないことに誰もが気付くだろう。仏教を開いたお釈迦様はインドの生まれである(より正確には国境を少し越えた現在のネパールのルンビニに生まれた)。釈迦が生まれ、仏教が誕生したのは紀元前5世紀頃。それが中国に伝わったのは1世紀頃と推定される。ではそれ以降、仏教は順調に中国に浸透していったかと言うと、そうではない。先にも述べたが、思想・宗教の世界でも、中国史は過酷な弾圧が繰り返されているのである。
 まずは、中国における仏教の興隆と弾圧の歴史を見ていこう。南北朝から隋、唐、そしてその後の五代十国時代にかけての500年余りの中国史の中で、規模も後世への影響力も大きかった4度の廃仏政策のことを、4人の皇帝の廟号や諡号をとって、「三武一宗の廃仏」または「三武一宗の法難」と呼ぶ。三武とは、南北朝時代の北魏の太武帝・同じく北周の武帝・唐の武宗を指し、一宗とは五代十国時代の後周の世宗を指す。弾圧政策の具体的内容は、寺院の破壊と財産の没収、僧の還俗、あるいは殺戮などである。
 最初の北魏の太武帝による「魏武の法難」は438年の50歳以下の僧侶の還俗に始まり、446年には仏教排斥の詔に至る。以後、太武帝が殺害されるまでの7年間、僧侶は殺戮され、経典は焼き捨てられた。この時、仏教弾圧の一方で保護されたのは道教であった。次の北周の武帝による「周武の法難」は574年と577年の2回にわたり、この時は仏教のみならず道教も廃され、儒教が顕彰された。続く隋と唐の時代は、私たち日本人のイメージどおり、基本的には仏教隆盛の時代であった。隋の文帝は仏教と道教の禁制を解いて仏教の復興に取り組んだ。「隋の文帝一代二十四年の間に、得度した僧尼二三万、寺院三七九二」などという記録がある。唐代に入ると仏教はますます盛んになった。『西遊記』で有名な三蔵法師、玄奘三蔵は実在の人物であるが(602年~664年)、西域やインドへの遊学し、膨大な仏典をもたらした。ところが、840年に即位した武宗は81名もの道士を宮中に召すなど道教に傾斜して仏教を弾圧。この弾圧で廃止させられた寺院は4600以上に上ったという(この時の年号により「会昌の法難」呼ばれる)。4回目の「後周の法難」は、今までの思想・宗教的な性格のものではなく、財政的窮迫が主たる動機で、寺院の財産を没収したり還俗させて税を課した。廃寺となった寺は3300余にも上った(本筋から話はそれるが、国家は財政に窮した場合、どんな手段を使ってでも取れるところから取るという実例でもある)。
 ちなみに、我が国でも明治の初めの一時期、いわゆる「廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)」が行なわれた。しかし、廃仏毀釈の元となった「神仏分離令」や神道を国教とする詔書「大教宣布」は、神道と仏教の分離を目的とするもので、本来仏教排斥を意図したものではなかった。しかし、時代は維新の動乱期であり、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまったのである。こうした歴史がごく一時的にはあったにせよ、日本における宗教は、教義や経典を持たない「かんながらのみち」としての神道に外来宗教である仏教が融合してきたものと言えるだろう。
 日本の融合に対し、中国では思想・宗教においても激しい対立と闘いが繰り返されてきた。今まで述べてきた時代であれば、仏教と道教の抗争に時に儒教が絡んでくるという構図がお分かりいただけたであろう(ちなみに、仏教と道教、それに儒教の三つを中国三大宗教という)。王朝も宗教も中国史の特徴は抗争と断絶なのである。

売りがある寺院は破壊から一大観光スポットへ

 中国の仏教は、宋・明代以後、衰退していく。読者も遣唐使以降、あまり中国仏教のイメージがないのではないだろうか。では、現在、中国の仏教はどうなっているのだろうか? ある意味では繁栄している。その一例として、1987年に仏舎利(釈迦の遺骨)が出土した古刹、法門寺の現状を見ていこう。
 法門寺の歴史は1700年ほど前にさかのぼる。南北朝時代の北周以前には阿育王寺と呼ばれていたが、前述した北周の武帝の廃仏によって、一度廃毀された。隋代に再建され、618年に寺の名を法門寺と改める。その後も前述したような幾度もの法難をくぐりぬけてきて、20世紀を迎えた。そこで最大の試練を迎える。共産主義国家・中華人民共和国の誕生。そして、さらに壊滅的打撃を与えたのが文化大革命である。
 「宗教はアヘン」という中国共産党が政権を奪ってから、政府は寺を壊し経典を燃やし、僧侶や尼を強制的に還俗させたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった。60年代には、既に中国の宗教施設は壊滅的状況であった。宗教の自由を求める人達は、台湾や、英国統治下の香港に脱出して行ったので、中国仏教の伝統は、大陸よりも、台湾や、香港で維持されてきたと言える。そして文化大革命である。
 念のため、文化大革命について簡単に説明しておこう。正式にはプロレタリア文化大革命。略称「文革」。中華人民共和国で1966年から1977年まで続いた「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動である。しかし、その内実は、政権中枢から失脚していた毛沢東が、劉少奇からの政権奪還を目的とした大規模な権力闘争であり、死者は一千万人を超え、リンチを受けたり冤罪で投獄されたりといった被害者は一億人に及んだと言われる、世界史上でも例のないおぞましい大粛清であった。
 文革時、宗教は「破四旧」(思想、文化、風俗、習慣の破壊)のスローガンの下、徹底的に弾圧、破壊された。例えば、中国最初の佛教寺院は68年に建立された洛陽にある白馬寺であるが、中国共産党は革命をすると言って農民たちを白馬寺に連れて行き、千年前の遼の時代に土で造られた十八羅漢の像を壊し、二千年前にインドの僧侶が持ってきた貝葉経を燃やしただけではなく、稀世の宝とも呼ばれる玉の馬をもばらばらに壊した。法門寺も当然、破壊の対象とされた。時の住職であった良卿法師は、宝塔や伽藍を守ろうとして寺院内の真身宝塔前で抗議の焼身自殺をするが、寺は破壊されその他の僧侶らは殺戮された。
 狂気の文革が終わった後、寺院は文化財として修復されるようになる。そして1987年、法門寺にとって願ってもない天佑が訪れる。真身宝塔の地下にあった地下宮殿が開かれ、稠密な彫金を施した幾重もの宝函に収められた4粒の仏舎利などの大量の貴重な文物が出土したのである。その後は、国家主導で一大観光スポットとして、建築開発が進められた。一大看板の仏舎利は、現在は2009年に新しく西隣に建立された新法門寺に納められ、毎日夕方になると自動的に地下の格納庫に収納されるシステムで大切に扱われている。この新法門寺は中国最大級の現代建築物である。広大な敷地に近代的な建物群、金ピカな仏像群に現代的オブジェ。お目当ての仏舎利塔は超巨大な現代的門をいくつもくぐったはるか先にあり、そこまでの足として有料電動カーが用意されている。下はコンクリート舗装なので、暑い季節はこの電動カーが観光客にはありがたいであろう。現在、法門寺はホームページを開設しており、中国語だけでなく、英語・ハングル、そして日本語のページもある。金ピカな仏舎利塔がトップに来るホームページには、「会社案内」の文字も見える。そう、現代中国仏教は、観光会社として一大発展を遂げているのである。

http://fms.demo.allwww.cn/Channel.aspx?ChId=5

金儲けに突き進む現代中国仏教

 法門寺に限らない。今日、中国仏教は政府主導で金儲けに突き進んでいる。2012年7月3日、中国4大仏教名山の一つ普陀山の管理団体「普陀山旅遊発展」が2年以内の新規株式公開(IPO)を計画していると、中国紙チャイナ・デイリーが伝えた。上場によって7億5000万元(約94億円)の調達を計画しているという。普陀山旅遊発展は、普陀山観光センター、索道、バス会社、観光事業などの運営を行っている。この他に、九華山、五台山も積極的に株式公開の準備をしているといううわさが流れている。
 ほとんどの中国の有名な観光地には寺院があるが、そうした寺院は形だけは立派に復興している。少し名が通った寺院は、どこも安くない入場料を取るだけでなく、販売商品も多彩に取り扱っている。写真や拓本、仏像、年珠、線香、置物、ペンダント等々だ。その他にも多くの高額料金のサービスがある。例えば、焼香代、鐘突き代、おみくじ代、おみくじ解説代等々。観光客に大金があれば寺は焼香をあげ、鐘を突き、様々な儀式を執り行ってくれる。一般の観光客が寺に行くと、寺の僧侶は焼香を上げるよう勧めるが、御香は外から持ってくることはできない。一応、それは不浄であるとの理由による。その焼香代は日本のように安くはない。境内では香を上げるのに最低でも200元(2500円)、最高10万元(125万円)も支払った例もあるという。しかも、一応宗教であり商売ではないから、値段交渉することもできない。値段交渉は敬虔さの欠如とみなされるのだ。ただ、支払いに現金がなくても問題はない。こういった観光寺院には、POSシステムが導入されておりカード払いもできるのだ。
 焼香が終わると、僧侶は賽銭簿を持ってきて観光客にサインするよう勧める。サインするなら住職自らお経を読み、開運祈願と厄払いをしてくれるという。賽銭簿にサインして初めて住職は「サインは無料ではなくお布施が必要で、どれぐらい寄付するかはあなた次第、3でも6でも9でもよい」と言う。よくよく聞くと、3、6、9とは300元(3750円)、600元(7500円)、900元(1万1250円)、3000元(3万7500円)、6000元(7万5000円)、9000元(11万2500円)のことで、その中から選ぶというのである。
 このように、今の中国では観光寺院は大いに儲けるようになったので、僧侶は公務員を越えて最も稼ぎがよく、且つ尊敬される職業となった。寺の僧侶が儲かる職業であることから、偽僧侶も増えてきた。例えば観光客におみくじの解説をするために、ある寺院では大金を払って偽僧侶を雇っている。このビジネスは利幅が大きいことから、僧侶、尼僧として雇用契約書にサインし、寺院に出勤し、毎月給料を得、退勤後は一般人に戻り、その収入はホワイトカラーを超える。住職は僧侶を指導する立場にあるから、収入は更に多い。住職の多くは結婚し子供もいて、市内に家を購入し高級車を乗り回している。
 このように、現在中国において仏教は大いに栄えている。ただしそれは精神的な面においてではない。そもそも、「宗教はアヘン」とする共産主義の国で、深い宗教性が涵養されるはずもない。形骸としては残った寺院を、観光資源として金儲けにフルに活用しているのである。教えや精神は破壊されたまま。そこで拝まれているのは神仏ではなくマネーである。

明の太祖・洪武帝によるすさまじい粛清

 ここまで、中国史とは抗争と断絶の歴史であることを、「征服王朝」「浸透王朝」といった言葉とともに説明してきた。また、主に仏教を中心に中国における宗教の興亡も見てきた。その最後は、狂気の弾圧と粛清である文化大革命による破壊から一転しての国家主導による拝金主義であった。
 さて、中国史における大粛清と大量殺戮。これに関する史実を、もう少し補足しておこう。まずは、今まで述べてこなかった明王朝の時代(1368年~1644年)における大粛清である。
 明朝の創始者である朱元璋(しゅげんしょう)は貧農の生まれで、家族は全員飢え死にし、乞食坊主となった。そこから身を起こし、秘密結社白蓮教(浄土教系)が起こした紅巾の乱に加わって頭角を現し、41歳にして天下を取った(明の太祖・洪武帝)。大変な才覚があったのは間違いない。しかしその一方で、洪武帝は後の毛沢東にも通じる恐怖政治を行なった。すさまじい粛清である。既に見てきたように、血で血を洗う抗争が中国史であるのだから、中国史において粛清自体は珍しいことではない。しかし、洪武帝が行なった粛清は、その規模、空前のものであった。
 洪武帝の粛清は、1380年の胡惟庸(こいよう)の獄に始まる。胡惟庸は紅巾の乱時代から洪武帝とともに戦ってきた旧臣であった。しかし、謀叛を計画していたとされ粛清される。ここまでなら、よくある話である。すさまじいのは、この時、胡惟庸派と見なされた重臣はみな連座して虐殺され、その数実に一万五千人に上ったということである。1393年には藍玉の獄。藍玉は明建国初期に軍功を上げた武将であったが、やはり謀反の疑いで粛清された。この時も連座して処刑された者の数が半端ではない。一万五千人とも、二万人(『明史紀事本末』)とも言われ、正確な数字は不明である。
 この二つを合わせて「胡藍(こらん)の獄」と呼ぶが、洪武帝の恐怖政治はまだまだこんなものではない。空印の案(1376年)、郭桓の案(1385年)、 林賢事件(1386年)、 李善長の獄(1390年)といった数々の粛清を行ない、一連の事件の犠牲者は、合わせて十数万人に及んだとも言われる。こうした粛清にはスパイによる密告が欠かせない。中国は古代からスパイ国家であるが、洪武帝は皇帝直属の秘密組織「錦衣衛(きんいえい)」を設け、この組織をフル活動させて恐怖政治を行なった(なお、中国は今でも諜報活動においては世界屈指の能力を持ち、イギリス・イスラエルとともに、世界の“3大インテリジェンス・パワー”と呼ばれている)。刑罰もすごい。身体の肉を少しずつ切り落として死に至らしめる「凌遅(りんち)刑」や「剥皮(はくひ)刑」をはじめとする様々な残虐刑を行ない、人々を恐怖で縛り上げたのだった。洪武帝は1398年に崩御する死の間際まで功臣を殺し続けた。

本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱

 先の洪武帝がのし上がるきっかけとなった白蓮教は、清朝の時代にも大きな反乱を企てる(白蓮教徒の乱1796年~1804年)。清朝末期には、こうした宗教結社による反乱が相次ぐが、中でも死者五千万人とも人口の五分の一が死亡したとも言われ、「人類史上最大の内乱」とされるのが太平天国の乱である。
 太平天国の乱を起こしたのは、キリスト教系の「拝上帝会」と言う結社である(ちなみに、時期を前後してイスラム教結社の反乱である回乱も勃発しているが、当時から20世紀にかけて「洗回」と称するイスラム教徒皆殺し運動が展開され、それによる犠牲者は二千万人とも推定されている)。「天王」と称した洪秀全はキリストの弟であると宣言し、1847年に拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。1850年に広西省で蜂起した洪秀全は、1853年に南京を占領、「天京」と改めて都とし、太平天国の王朝を立てた。南京を陥落させた時には、太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至っていた。
 ものすごい勢いであるが、この進軍の過程で太平天国軍は、後世の毛沢東たちがやったような「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた。歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、湖南全域において「10の村の中の7、8の村が襲撃された。いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々はことごとく皆殺しにされた。屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。
 しかし、この略奪・殺戮が、後に太平天国自身の悲惨な最後を招く原因を作った。太平天国軍による「湖南草刈り」の13年後の1864年、曾国藩(そうこくはん)率いる湘軍(清の正規軍ではなく漢族の軍隊。北洋軍閥の源)は太平天国の首都である天京(南京)に攻め入ったが、この時の大虐殺は報復とは言え、言語に絶するすさまじいものであった。後に「天京屠城」と称されるこの大虐殺の実態はどういうものだったのか。
 天京を落城させた後に湘軍がとった行動について、曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました。3日間にわたる掃蕩作戦の結果、賊軍10万人あまりを処刑しました」。3日間で10万人の処刑というだけでもすさまじいものだが、さらに常軌を逸しているのは、この殺戮が賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。曾国藩の死後、幕僚の一人であった趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している。「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。子供たちも斬殺の対象となり、多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、手当たり次第斬り捨てられてしまった」。こういう証言もある。湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。
 「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを殺戮する場面をこの目で見た。彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。とにかく、普段は野菜売場である町の広場に、捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。群れの中には男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいるのだ。歩くにも無理な老婆、生まれたばかりの嬰児、懐妊している婦人の姿も見られる。朝廷の兵士たちはまず、若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。彼女たちをその場で凌辱した後に、周りで見物している町の破落戸(ごろつき)たちの手に渡して輪姦させるのである。その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、輪姦が一通り終わると、全裸にされた女たちの髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。何のためかはよく分からないが、心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、用意された容器に入れられるのである。次に、子供たちが母親の前で殺され、母親たちも同じ運命となる」。
 現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが歴史学上の定説となっている。これこそが、中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。
 なお、太平天国が衰退した大きな理由には内紛があるが、これまた内紛というのは表面的な聞こえのいい表現であって、実質はすさまじい粛清であった。1856年9月、洪秀全はナンバー2であった楊秀清を粛正するのであるが、この時には楊秀清の一族並びに配下の兵たちとその家族約4万人が虐殺されている。既に述べてきたように、秦に始まり、漢の劉邦や呂后、明の洪武帝、太平天国の洪秀全、そして毛沢東と続くすさまじい粛清というのも、中国史の伝統と言えるだろう。

毛沢東が行なった大量殺戮と粛清に次ぐ粛清

 ここまで、血で血を洗う抗争に次ぐ抗争という中国史の特徴を見てきた。より具体的に言えば、その特徴は既に述べたとおり、思想弾圧・大量殺戮・大粛清である。そして、現代中国・中華人民共和国ももちろんその性格を色濃く有している。既に「一村一焼一殺」と文化大革命については少し触れたが、本章の最後に毛沢東が行なった数々の戦慄するようなおぞましい行為について述べておこう。
 毛沢東は、1928年から、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に革命根拠地を拡大していくが、その時の行動方針が「一村一焼一殺、外加全没収」であった。意味は「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」である。1928年から1933年までの5年間で、「一村一焼一殺」で殺された地主の総数は、10万人に及んだという。中国共産党が政権を取ると、「一村一焼一殺」は中国全土に徹底して行なわれることとなった。全土で吊るし上げにあった地主は六百数十万人。うち二百万人程度が銃殺された。共産革命はどこの国においても大量殺戮と略奪を伴う惨たらしいものであるが、毛沢東の行動を知っていくと中国史の伝統の焼き直しにも見える。
 次は粛清である。現代中国の粛清と言うと、先に述べた文化大革命が思い起こされるだろうが、実際には中国共産党が勢力を拡大して行く途上においても、数々のすさまじい粛清が行なわれている。まず、1930年から翌31年にかけての「AB団粛清事件」。これは中国共産党史上、初めての大量内部粛清であるが、この時は7万人以上を処刑している。政権を奪って権力を握ると、国家レベルで大粛清が行なわれることになった。1951年、「反革命分子鎮圧運動」である。毛沢東は「農村地帯で殺すべき反革命分子は人口の千分の一程度とすべきだが、都会での比率は人口の千分の一を超えなければならない」という殺人ノルマを課し、中国全土を反革命分子狩りの嵐が吹き荒れた。告発、即時逮捕、即時人民裁判、即時銃殺である。中国共産党の公式資料『中国共産党執政四十年(1949~1989)』によれば、「反革命分子鎮圧運動」で銃殺された人数は71万人に上るという(さらに129万人が「準革命分子」として逮捕され、終身監禁された)。粛清・虐殺はまだ終わらない。1955年には「粛清反革命分子運動」によって8万人を処刑している。
 思想弾圧・粛清の流れは「反右派闘争」などこの後も続き、その流れの中に既に述べた文化大革命があるのであるが、文革のひどさはよく知られるところなので、ここではこれ以上述べない。今日ではYoutubeなどで映像も見ることができるので、ぜひご覧いただくと良いだろう。http://www.youtube.com/watch?v=p63xt5AlahY
 最後に文革にもつながった「大躍進政策」について述べておこう。
先に、文革は政権中枢から失脚していた毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目論んで起こした大規模な権力闘争であり大粛清であると述べたが、毛沢東の一時的失脚をもたらしたのが大躍進政策であった。1957年11月6日、ソ連共産党第一書記・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。対抗心を燃やす毛沢東は、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越す(のちには「3年」に減少)という壮大な計画を立案した。その中心に据えられた鉄鋼などは、生産量を1年間で27倍にするというあまりにも現実離れしたものであった。食糧も通常2.5億トンの年間生産高を一気に5億トンに引き上げることが決められた。しかし、何の裏付けもないまま目標だけ勇ましく掲げても、実現できるはずもない。1959年夏、共産党政治局委員で国防相の彭徳懐(ほうとくかい)が大躍進政策の再考を求めたが、毛沢東が受け入れるはずもなく、逆に「彭徳懐反党集団」として断罪され、失脚させられる(彭徳懐は、後の文革で凄まじい暴行を受け半身不随に。その後、監禁病室で下血と血便にまみれた状態のまま放置され死に至る)。これ以降、同政策に対して誰もものを言えなくなり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。当時、全国の人民公社は穀物の生産高に応じて、政府に食糧の無料供出を割り当てられていた。「倍増」と報告された生産高によって、飢饉であるにもかかわらず、農民たちは倍の食糧を供出しなければならなくなったのである。その結果はすさまじい餓死者である。その数は、わずか3年間で2000万人とも5000万人とも言われている(中国本土では発禁となった『墓碑――中国六十年代大飢荒紀事実』によれば、人口損失は7600万人に上るとのぼるとされている)。最後は、人が人を食べるのが常態と化した。さすがに自分の子供を食べる親はいないから、親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、1959年4月27日、国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。

不気味な隣人との付き合いにおいて心すべきこと

 私たちは何気なく「中国4000年の歴史」などと口にする。しかし、ここまで見てきたように、それは抗争と断絶の歴史であり、むしろ歴史が伝わらない国なのである。それを証明するある事実がある。老舗企業の数である。創業200年以上の老舗企業数を国別に見ていくと、我が国には3113社もあり、2位ドイツの1563社、3位フランスの331社などを大きく引き離し、ダントツで世界一である。それに対して中国はわずか64社で15位。共産主義の影響だと思うかもしれないが、149社で8位のロシアの半数にも満たない。人口わずか1000万人のチェコ(第二次大戦後、1989年まで共産党政権下にあった)が97社で10位なのだから、やはり歴史が続かないというのが「易姓革命」の国、中国の伝統なのである。
 確かに昔の文物はある。しかし、それは先に見た仏教寺院のように、形骸に過ぎない。精神は断たれているのである。人によっては「中国は私たち日本人の先生なんだから」などと言うが、それは隋にしろ唐にしろ、昔のその時点での話である。日本の方がむしろ学んだものを血肉化して生かしている。
 帝国データバンクが2008年に創業100年を超える老舗企業に行なったアンケート調査がある(回答企業814社)。それによれば、「老舗企業として大事なことを漢字一文字で表現すると」という問いに対し、最も多かった回答は「信」。197社からの圧倒的な支持を集めた。次いで「誠」68社。以下、「継」「心」「真」と続く。「社風を漢字一文字で表すと」という問いに対しては、「和」が158社でダントツ。次いで2位「信」63社、3位「誠」53社。以下、「真」「心」と続く。そして、「老舗の強みは何か」という問いに対しては、「信用」と答えた企業が圧倒的に多く、実に73.8%に達した。ここから見えてくることは、我が国の伝統的企業は、社内においては上下心を一つにして働き、対外的には信用を最も大切な財産と受け止め、信を守り誠を尽くす。そういう企業文化を継続することで続いてきたことが伺われる。こうした精神が仏教や儒教の教えに大きな影響を受けていることは言うまでもないが、それはもはや完全に日本のものとなっており、逆に今の中国にはないのである。
 さて、抗争と断絶とともに、中国史の特徴として顕著な大量殺戮と粛清。私たちはここから大いに学ぶことがある。それは、中国という国は冤罪をでっちあげて断罪する国であるということ、そして、やれるとなれば血も涙もなく暴力を行使して徹底的にやる国だということである。中国国内で出版された『従革命到改革』という書籍によれば「文化大革命において作り出された冤罪」は実に「900万件」に上るという。文革に限らない。本章で見てきた数々の粛清は、そのほとんどがでっち上げの罪による断罪と言ってよいだろう。中国の楊潔チ外相が国連総会で「尖閣諸島は日本が盗んだ」などと演説したが、これも同様の確信犯的でっち上げである。尖閣周辺に埋蔵資源があることが分かるまでは、中国の地図でも尖閣は琉球列島に含めていたわけで、そういう事実を外相が知らないはずがない。しかし、事実がどうあれ、冤罪をでっちあげて徹底的に断罪するのが中国なのである。そして断罪した後は暴力の行使。それが中国史に見る中国の伝統である。尖閣問題への対処を考えるにあたって、私たちはこの隣人の性格をしっかり認識しておかなくてはならないだろう。

参考文献
『中華帝国の興亡』(黄文雄著・PHP研究所)
『読む年表 中国の歴史』(岡田英弘著・WAC)
『中国文明の歴史』(岡田英弘著・講談社現代新書)
『中国大虐殺史』(石平著・ビジネス社)
『200年企業』(日本経済新聞社著, 編集・日経ビジネス人文庫)
『百年続く企業の条件』(帝国データバンク 史料館・産業調査部 編・朝日新書)
『情報亡国の危機 』(中西輝政著・東洋経済新報社)
『毛沢東 大躍進秘録』(楊継縄著・文藝春秋)
新興国情報EMeye
Bloomberg
中央日報
サーチナニュース
大紀元時報
Wikipedia