都心と江戸川をつなぐはずが…
路線が分断された意外な理由

 紆余曲折を経て1917年に小松川線(錦糸堀~小松川間)を開業させるが、小松川より先への延伸はなかなか実現しなかった。ようやく1925年になって、今井街道に並行して、江戸川線(東荒川~今井橋間)が開業。江戸川線の始発駅である東荒川駅が置かれていたのが、首都高の小松川ジャンクション(小松川線側)が設置された場所であった。

 しかし、この鉄道には重大な「問題」があった。本来、錦糸堀と今井橋をつなぐ路線として計画されたはずが、途中区間の線路がつながっておらず、小松川線と江戸川線は分断されて運行していたのである。両線の間に、幅500メートルの荒川放水路が流れていたからだ。

 荒川放水路の建設が決定したのは1911年のこと。前年8月に東京下町で発生した大洪水の教訓をふまえ、荒川(現在の墨田川)の水を東京湾に放水するために、1913年から1930年まで、17年の歳月をかけて整備した人口の河川である。

 城東電気軌道が路線建設を出願したのは、水害3ヵ月前の1910年5月のことだから、荒川放水路の整備はまったく想定外の出来事であった。同社には荒川放水路を横断する鉄橋を自前で建設する資金はなく、仕方なく荒川放水路は連絡バスで渡っていたのである。

 江戸川線が開業した時、並行する今井街道には、荒川放水路を越えて小松川まで乗り入れる路線バスが運行されていた。電車のみならず、線路も保有して整備しなければならない鉄道会社に対し、車両だけあれば運行できるバス会社は、鉄道より安い運賃を設定できる。行政が道路を整備してくれれば、営業エリアをどんどん広げることができる。この路線バスも、終点側は今井橋を越えて、行徳や浦安まで直通していた。

 そうなると、一本で錦糸堀まで行けるならともかく、途中で連絡バスに乗り換えなければならない江戸川線を使う理由はない。結局、城東電気軌道は路線を防衛するためにライバルのバス会社を買収したが、並行するバス路線は自社路線としてそのまま運行することになった。昭和初期に急速に発展した路線バスは、郊外鉄道会社の経営を揺るがす手ごわいライバルだったのである。