それなりの根拠があっての主観を言うと、
セックス男性の社会的主張は、いつもヒロイズムでできている。
セックス女性の社会的主張は、いつも弱い者への想いがある。
全体傾向に感じることですよ。
個々の違いは当然あります。
身近な例も同じです。
でかける時、
男は自分のことだけをしてゆうゆうと車に乗り、
妻が子どもの世話をし支度をし自分の支度をし家じゅうの戸締りをして出てくるのを、
「女は支度が遅い」と言い、「ずいぶん待ったぞ」と言う。
飲み会がある時、
男は良くて予定を通告、悪ければ事後報告、
妻は子どもの世話、夫の都合と気分と世話、不在にできるかの可否と段取り、あらゆる調整をし、
土壇場で反故にされても、煮えくり返る思いでも、子どもを放置できないから諦める、など。
セックスの時、
男は真に女性の立場を、女性の体調を、都合を、感情を、考えない。
女は常に男性のプライドを、性欲とされるものを、考えて斟酌する。
ありとあらゆるこういう差が、社会的主張に現れないわけがない。
自分が自称高パス/埋没者の、パス/埋没アピに感じるのも
「オレがオレが」なんですよ。
「オレがオレが」の
「オレに注目させたい」
「オレを称賛させたい」。
「オレが気持ちよくなりたい」がすべて、
「オレを羨む者の視線を感じるのがますます気持ちいい」、
「弱い者を踏みつけて弱い者の上に立って弱い者を見下ろすのが気持ちいい」、
こういういつものオス様の傲慢と残酷を、感じないではいられないんですよ。
そしてそれを咎めた時の逆上と攻撃のすさまじさが、あぁやっぱりオスですねという。
身体器官としての男性生殖器を手術で物理的に除去しても、
象徴としてのそれを感性から除去することはできないんですね、という。
男性身体への身体違和があっても
ホモソ回路の感性違和はまるでないんですね、という。