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【社会】

<孤独と罪 ある児童養護施設で>(中)  生まれた家が違うだけで…

和彦(仮名)が起こした事件を報じる当時の中日新聞記事と、施設で育った日々を振り返る市川太郎さん=一部画像処理

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 「生きていて、何一つ楽しいことはなかった」。一九八四年、東京地裁。殺人罪に問われ、法廷でそう話す和彦=当時(19)、仮名=の横顔を、弁護士の木下淳博(73)は黙って見つめていた。「少年だけが罪を背負うのでなく、施設も裁かれるべきではないか。社会全体で考えるべき問題だと思った」と振り返る。

 和彦は事件の一年前から、複数の女性宅への住居侵入未遂を繰り返していた。木下は家庭裁判所の審判に立ち会い、和彦と出会った。和彦は少年院に入り、仮退院後の八三年四月、再び東京都練馬区のアパートに侵入し、静岡県出身の女子大生=当時(19)=の首を絞めて殺害した。

 当時、弁護士一年生だった木下は、和彦の国選弁護人を買って出た。「若かったし、裁判官にがむしゃらにぶつかっていった」

 訴えたのは、和彦の不遇な成育環境だ。母親は児童養護施設を数年に一度訪れたが、和彦には会おうとしなかった。施設退所後は音信不通になっていた。

 施設周辺で住居侵入未遂を繰り返した和彦。「どうやって生きていけばいいか分からず、さまよった様子が目に浮かぶ」。木下は裁判で、傍聴席に母親の姿を探そうとする和彦の思いを代弁した。「お母さんに会いたいんだ」と。

 傍聴席には、被害者の両親の姿もあった。娘の遺影を握り締める沈痛な様子を、木下はよく覚えている。

 事件から三十六年。遺族の一人はこう語った。「施設で暮らした人間が全員殺人者になるかといえば、違う。絶対に許せない」

 ◇ 

 和光大講師の市川太郎(69)も、和彦の裁判の傍聴に通った一人だ。当時は児童養護施設に勤めていた。「職員誰もが、自分の施設でも起こり得ると感じた。ひとごとではなかった」

 戦後の混乱期に生まれた市川自身も二歳から施設で育った。商業高校を卒業後、工場で働きながら夜間大学に通い、「恩返しがしたい」と施設の職員になった。

 市川の腕には、無数の傷痕が残る。工場で働いていた頃、お盆で同僚たちが実家に帰省する中、一人で過ごすしかなかった。そんな時、封じ込めてきた思いが一気に噴き出したという。

 「生まれ落ちた家庭が違うだけで、なぜこうも違うのか。死んだって心配してくれる人なんていない」。気付けば自分の体を無数に切り付けた。辺りは血の海になっていた。

 法廷で、市川は和彦の姿を自分に重ねた。「誰にも頼れない寂しさは、人を狂わせる。僕は自分の体を傷つけたけど、和彦は刃(やいば)を外に向けたんだ」

 その後、木下は「子どもの虐待防止センター」(世田谷区)の設立に尽力。市川も施設を退所した子どもたちの居場所づくりの団体を立ち上げた。そんな二人が再び衝撃を受ける事件が、今年二月に起きた。

 渋谷区の児童養護施設「若草寮」で、元入所者の男(23)が男性施設長(46)を包丁で刺して殺害した。市川は言葉を絞り出す。「孤独感。そこが二つの事件に共通していたのではないか」 (敬称略)

 

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