27歳で他界した「27クラブ」のスター20人

ジム・モリスン、エイミー・ワインハウス、カート・コバーンら27クラブの面々(Photo by Aradlo Di Crollalanza/REX Shutterstock, Matt Dunham//AP/REX Shutterstock, Stephen Sweet/REX Shutterstock)

「27クラブ」はロックンロールの歴史において最も謎めいた、非常に痛ましい偶然のひとつに挙げられている。

27クラブという名称が広く知られるようになったのは、1994年にカート・コバーンが死んだ後、ロックファンが彼の年齢をジム・モリソンやジャニス・ジョップリン、ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックスらと結びつけるようになってからだ――もっとも、1970年代初期に4人の天才たちが2年間で立て続けに他界したときから、ファンの間ではすでに有名な話だった。

2011年にエイミー・ワインハウスが27歳でこの世を去ると、さらに27という数字の意味合いに注目が集まった。27クラブの大半はミュージシャンだが、それだけに留まらず、多くの俳優やアーティストが薬物中毒や自殺、不慮の事故など様々な理由で命を落としている。今回は27歳という若さでこの世を去った人々の一部をご紹介しよう。

・ロバート・ジョンソン



デルタ・ブルースで最も名高い唯一無二の存在、ロバート・ジョンソンが遺した楽曲はスウィングと不協和音を利かせた、時に調子外れのギターに、地獄の番犬、悪魔、絶望感を綴った鳥肌ものの民話的な歌詞を乗せられている――ロックンロールの歴史で何十年も脈々と流れてきた嗜好だ。収録した楽曲は50曲足らず――そのうちいくつかは、後にクリームや(「Cross Road Blues」)、キャプテン・ビーフハート(「Terraplane Blues」)、ローリング・ストーンズ(「Love in Vain」「Stop Breaking Down」)らによってカバーされた――ハウリン・ウルフやエルモア・ジェームス、メンフィス・スリムといった面々と演奏し、名声を手にした。「最高のブルースがどんなものか、知りたいか?」と、かつてキース・リチャーズは言った。「これがそうさ」 1938年8月、27歳の誕生日からわずか数カ月後、ジョンソンは出演していたライブハウスのオーナーの妻に言い寄り、口の開いたウィスキーを勧められ、それを飲んだ3日後にストリキニーネ中毒と肺炎で死亡した。彼の遺体はミシシッピー州の名前のない墓に埋葬されている。


・ブライアン・ジョーンズ


(Photo by Mark and Colleeen Hayward/Getty Images)

1969年、ジョーンズがイングランドの別宅で死んだのは自らの愚かな行動が招いた結果に見える。アルコールとドラッグを併用してプールに飛び込むことは、死神の腕の中へまっすぐ泳いで行くようなものだった。これほど明白でありながら、多くの人々が事件の公式発表に疑問を投げかけ、ブライアン・ジョーンズの死はロック史最大の謎として今も語り継がれている。ローリング・ストーンズのメンバーでさえも疑問の声を上げている。「彼の死を巡る謎は未だ解明されていない」と、かつてキース・リチャードは言った。「実際に何があったかは知らないが、なにやら良からぬことが起きていたんだよ」


・アラン・ウィルソン


(Photo by Susie Macdonald/Redferns)

キャンド・ヒートは作品的にも商業的にもかなり成功し、1969年には見事ウッドストック出演を果たした。だが、ギタリストの“ブラインド・オウル”ことアル・ウィルソンは悩み多き男だった。27クラブの大半のメンバー同様、彼もまた家族と疎遠だった。自信が持てず、鬱病に悩まされていた。彼の奇行のひとつに「屋外で寝る」というものがあったが、ボーカルのボブ・ハイトのロサンゼルスの自宅で迎えた人生最期の夜もそうだった。1970年9月3日、ハイト宅の庭でウィルソンの遺体が発見された。胸の上で両手を組み、傍らには睡眠薬セコナールの瓶があった。公には睡眠薬の過剰摂取による事故死とされたが、ドラマーのフィト・デ・ラ・パラは自殺だと信じていると語っている。


・ジミ・ヘンドリックス


(Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

1970年9月18日金曜日未明、ロンドンのガールフレンド宅に滞在中、ジミは睡眠薬を飲んだ。彼が何粒服用したのか、薬の中身を知っていたのか、誰もはっきりとはわかっていない。彼が服用した薬は強力な鎮静催眠薬ヴェスパラックス。たった半錠で8時間ぐっすり眠りこけるほど強力な薬だった――ジミは最大9錠服用した可能性がある。その上酒も飲んでいた。愚かで向こう見ずな行為だが、彼らしくもある。ツアー暮らしの数年間で、ジミはドラッグを見境なく服用するようになっていた。「ジミはヤクを一掴みして、中身も確認しないまま飲んでいた」と、友人のディーリング・ハウも語っている。

Translated by Akiko Kato

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早すぎる死を遂げた、音楽史に残る偉人名鑑

音楽の歴史を変えたミュージシャンの早すぎた死を回想(Rolling Stone)

ジャニス・ジョプリンからエルヴィス・プレスリー、カート・コバーン、フレディー・マーキュリー、ホイットニー・ヒューストン、エイミー・ワインハウス、クリス・コーネル....など、音楽の歴史を変えたミュージシャンたちの早すぎる死。改めて彼らの死へ追悼の意を込め、その軌跡を振り返る。また、彼らの遺産と残された疑問とは?

有名人の死に対して人々が一斉に哀悼の意を表すことは今の世代に始まったことではない。インターネットとソーシャル・メディアによってファンたちの心から溢れる悲しみへの対処の仕方が目立つようになっただけなのだ。

クリス・コーネルやプリンス、エイミー・ワインハウス、ホイットニー・ヒューストンのようなアーティストの早すぎる予期せぬ死に対してFacebookやInstagram、Twitterに投稿された心からの追悼のメッセージの数々も、数年後にはかつての新聞の切り抜きと同じような役割を果たし、人々に心をえぐられるようなショックと突然の喪失感をもたらした歴史に残る瞬間へと連れ戻すものとなるだろう。

マイケル・ジャクソンが亡くなった時、あなたは誰にメールしただろうか?ジョン・レノンが撃たれた時、あなたはどこにいただろうか?多くのショックを受けたファンのようにマンハッタンのアッパー・ウェスト・サイドのダコタ・ハウスに押しかけただろうか?カート・コバーンの遺体が発見された後、あなたが繰り返し聞いたニルヴァーナの曲は何だっただろうか?あなた(もしくはあなたの親)はエルヴィスの最期の日の話を知っているだろうか?

こうしたことを思い出すのは心が痛むことであり、そのセンセーショナルな出来事は何十年経ってもなお世間に衝撃を残している。しかし、もしそういったレジェンドたちが今も生きていたらどんなものを作っていたか、彼らがいなくなってしまったことで後の音楽やポップ・カルチャーがどのように形作られるようになったのかを考えると、その出来事が与えた影響にもまた違った大きな一面があると言える。確かにここで扱うアーティストたちは亡くなってしまった。しかし、彼らが忘れられることは決してない。ありきたりな言い方ではあるがまさにその通りなのだ。

バディ・ホリー

Michael Ochs Archives/Getty

1959年没 享年22歳


ザ・クリケッツのメンバーとして、そして後にソロアーティストとして、スーツにメガネというスタイルのホリーは急成長中だった50年代の若者のロックンロール・カルチャーの代弁者だった。その特徴的なボーカル・スタイルと「ノット・フェイド・アウェイ」や「イッツ・ソー・イージー」などのヒット曲によって彼は50年代の象徴となり、音楽への探求意欲を強め始めていた頃にホリーにハマっていったジョン・レノンやポール・マッカートニーなど、次世代のロックンロール・スターに多大な影響を与えた。「僕はバディのような曲を書いていたよ。結局そんな曲が数曲できた。ビートルズの最初の曲『ラヴ・ミー・ドゥ』もそうなんだ」とマッカートニーはレノンと共にホリーを手本にしていたことをインタビューで認めている。しかし、1959年2月3日、22歳のホリーはザ・ビッグ・ボッパー、リッチー・ヴァレンスと共に飛行機事故で亡くなり、“50年代”と共にホリーのキャリアは悲劇的に突然の終わりを迎えた。この事故は後にドン・マクリーンの代表曲「アメリカン・パイ」の中で「音楽が死んだ日」と歌われた。

パッツィー・クライン
GAB Archive/Redferns

1963年没 享年30歳

29歳で亡くなったハンク・ウィリアムズより1年2ヶ月だけ長く生きしたパッツィー・クラインは、田舎の魅力と大都市の大胆さをその一級品の声に表現し、ホンキートンクのみならずポップスをも豊かに歌い上げ、20世紀で最も偉大な歌手の1人として確かなものを世に遺した。「ひどい仕打ちに」や「夜更けに歩けば」、ウィリー・ネルソンが作った「クレイジー」などのヒット曲によって彼女はゆっくりとスターダムに上がっていったが、彼女はテネシー州カムデンで飛行機事故で亡くなった後も、死後にリリースされた「スウィート・ドリームス」や「フェイデッド・ラヴ」によって注目を浴び続けた。実際、彼女のすばらしさは死後数十年経ってから取り沙汰されるようになった。1973年、彼女はカントリー・ミュージックの殿堂に初の女性ソロシンガーとしてジャンルを定義づけたキティ・ウェルズに先立って選ばれた。オスカー候補者となったビバリー・ダンジェロ(1980年のロレッタ・リンの伝記映画『歌え!ロレッタ 愛のために』)やジェシカ・ラング(1985年の『ジェシカ・ラングのスウィート・ドリームス』)が彼女の役を演じたことや、ジュークボックスやカラオケにおいて彼女のヒット曲の人気が続いたことによって、クラインの『グレイテスト・ヒッツ』のアルバムは1000万枚以上を売り上げ、チャートインし続けた期間がギネス世界記録に認定された。今では、ナッシュビルのダウンタウンにこの類まれなシンガーを祀った聖地、パッツィ・クライン・ミュージアムもあり、1961年のカーネーギー・ホールでの初演奏や歴史を作ったその翌年のラスベガスの定期公演にまつわるものから、そしてそのほんの数カ月後に彼女が亡くなった時に身に着けていた腕時計まで、思い出深い品々が収められている。その悲劇的な死から半世紀が経つがクラインは長きに渡り多くのシンガーに直接的な影響を与え続けている。リーバ・マッキンタイアやケイシー・マスグレイヴス、リアン・ライムスを聞けばそれが明らかである。

Translated by Takayuki Matsumoto

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